第4話
『十一月十四日』
「麻衣子。準備は大体出来てるか?」
「うん。ただ、最後にやりたいことがあるから、出かけてきてもいい?」
「ああ、もちろん。ただ、十時には絶対に出なきゃならんからな」
時計は、ちょうど七時を指していた。あと三時間。用事を済ませるには十分な時間がある。父はとても不器用で、優しい。家出をしたあの日も、父はほとんど怒らなかった。
──心配したぞ。もう夜も遅いから、今日は寝なさい。それだけ言って、自分の部屋へ戻っていった。
自分だって、長年暮らしたこの街を離れる辛さがあるはずなのに、父は最後まで私の気持ちを優先してくれたのだ。
今日も、早くしろとは一度も言わなかった。東京までの距離を思えば、本当はもっと余裕を持って出てもいいはずなのに。
「真司ん家だろ? 時間になったら迎えに行ってやるよ」
「ありがとう、お父さん」
私は、本当にいい父をもったと思う。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
昨日は、ほとんど眠れなかった。
壁に掛かった白い時計を見る。七時過ぎ。麻衣子が来る約束は九時だから、まだ時間は余っている。
手持ち無沙汰になって、ついズボンのポケットへ右手を突っ込む。
……当然、何も入っていない。昨日履いてから何も入れていないのだから当たり前だ。それなのに、どこか落ち着かない。気づけば、最近は何かあるたびにポケットへ手を入れていた。
暇を潰そうと漫画を開く。
それを、五ページも読まないうちに閉じた。また開く。でも、やっぱり目が滑ってしまう。
ため息をついて単行本を置くと、いつの間にかもう一度時計に目が向いていた。落ち着かない。
理由なんて分からない。ただ胸の奥がざわざわして、何かを忘れているような、不安だけが膨らんでいく。
頭をくしゃくしゃとかきむしる。今日でしばらく麻衣子とは会えなくなる。
でも、それどころじゃない気もする。今日が本当の最後なんじゃないか。「しばらく」なんかじゃなくて、「もう二度と」会えなくなるんじゃないか。
そんな、理由の分からない予感が胸から離れなかった。
どうしてだ。なんで俺は、こんなにも──。
──二度と会えなくなるのは、もう嫌だ。
その瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。……何の話だ。麻衣子?違う。
違う、もっと前だ。もっと前に、俺は誰かを失っている。石段。悲鳴。伸ばされた手。遠ざかる小さな肢体。
俺はあのとき、掴み損ねた。守れなかったんだ。
──紗奈を。
「……紗奈?」
思わず口から漏れたその名前に、自分で息を呑む。紗奈?なんで、その名前を──。
墓。一年ぶりの再会。LAIN。オルゴール。神社。途切れていた記憶が、一気に押し寄せた。
「……そうだ」
俺は、真司じゃない。
「零斗だ」
その名前を口にした瞬間、しばらく霧の中に沈んでいた意識が、一気に晴れていく。
俺は墓石の前で紗奈とLAINで繋がった。そうして、中途半端に終わった探索を終わらせるために、神社へ向かうことになった。裏の井戸。響くオルゴールの音。俺は地面を掘って、最後は意識を失ったんだ。
そこまで思い出したところで、俺はゆっくりと長く息を吐いた。
……真司として生きていた時間。それが夢だったとは思えない。笑って、泣いて、恋をして。あれは確かに、俺が生きた時間だった。
胸の奥に、少しだけ寂しさが残る。けれど同時に、それ以上に強い感情が一気に込み上げてきた。
会わなきゃ、今すぐ。紗奈に。
根拠なんて何もない、ただの直感だ。それでも何故か確信できた。真司が俺だったように、麻衣子もまた、紗奈なんだろう。
叶うはずがないと諦めていた願いが、今だけは手の届く場所にある。もう一度。もう一度だけ、紗奈に会って話がしたい。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
私は、神社の裏手にある井戸へ来ていた。小さな頃、真司と二人でこの井戸を見つけた日のことを思い出す。あの時は、こんな所に井戸があるなんて、と二人して大はしゃぎしたっけ。
時計を見る。七時半を少し過ぎていた。あまり感傷に浸っている時間はない。私はバッグから園芸用のスコップを取り出し、地面に突き立てた。
あまり固くなさそうな場所を選んだつもりだったが、それでも思ったようには進まない。スコップを一度突き立てるたび、腕に力を込める。
縦横六センチ、高さ四センチ。これだけの穴でも、実際に掘ってみると大変なのが分かった。それでも、やめようとは思わなかった。
このオルゴールが好きだ。真司が誕生日にくれたもので、私にとって大切な宝物だ。
だから、これはおまじない。いつか絶対にここに戻って来て、住めるようになったら、また掘り返すんだ。その時、私は何歳になっているんだろう。早く自立して大人になりたいな。そんなことを考えながら、さらに土を掘っていく。
そんなときだった。
……あれ?ふと手が止まった。なんだろう。こうして木の近くの地面を掘っていると、妙な既視感がある。
前にも、こんなことをした気がする。木のそばに穴を掘って、何かを埋めた。そんな記憶が、ほんの一瞬だけ頭をよぎった。
「……なんでだろ」
私は首を傾げる。いや、きっと気のせいだ。
こんなことをする機会なんて、そうそうあるものじゃない。実際、こんな経験をした記憶もない。
それより、急がないと、約束の時間に遅れてしまう。私はもう一度スコップを握り直し、土を掘り始めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
俺は、麻衣子──いや、紗奈を家で待つことにした。
今から探しに出るのは、やめておいた方がいい。どこにいるか分からないまま闇雲に動けば、入れ違いになる可能性もある。
分かっている。分かっているのに、どうにも落ち着けなかった。約束の時間まではまだある。焦る意味も必要もない。そう自分に言い聞かせても、身体の方が言うことを聞かなかった。
そういえば、寝巻きのままだ。記憶が戻ったことや、紗奈のことを考えるので精一杯で、着替えることすら忘れていた。俺はタンスを開け、適当に良さそうな服を引っ張り出した。
着替えてから洗面所へ向かい、鏡を見る。
「……あれ?」
そこに映っていたのは、真司ではなかった。零斗。いつの間にか、見慣れた自分の顔に戻っている。やっぱり、自分の正体を自覚したことが原因だろうか。不思議な世界だ。
そう考えながら洗面所を出た時だった。丁度のタイミングで、母と鉢合わせしてしまった。
「……」
まずい。見た目が変わったということは、今の俺はこの家の人間からすれば、突然現れた知らない男だ。
どうする。言い訳を考えろ。例えば、真司の友達とでも言えば──。
「あら、真司。家にいたのね」
「……え?」
母は何の疑問も抱いていない様子で、こちらを見る。
「てっきり、もう麻衣子ちゃんのところに行ってるかと思ってたわ。ずっと仲良くしてたのに、寂しくなるわねぇ」
俺は、しばらく何も言えなかった。バレていないみたいだ。胸を撫で下ろした。不思議なことに、どうやら母には俺がちゃんと真司として見えているらしい。この世界は個々の認識というかイメージが重要視されるような世界なのだろうか。現世とは少し乖離があるのか。
だとすれば──。
……いや、今はどうでもいいか。もっと大事なことがある。
「……ああ」
かろうじてそんな生返事を母に返した。すると、その直後だ。
ピンポーン──。
玄関のチャイムが鳴った。俺の身体が反射的に動く。恐らく、麻衣子だ。いや、紗奈だ。俺は一度だけ深く深呼吸をした。
そして、玄関へと向かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「久しぶり、紗奈」
「……へ?」
俺の第一声を聞いた麻衣子は、完全に固まった。
「え……?あ……」
何かを言おうとしては口を閉じ、また俺の顔を見る。その繰り返しを何度かしているうちに、少しずつ表情が変わっていった。
見慣れていたはずの顔が、今までずっと会いたかった顔へと重なっていく。
「……あ、私……」
紗奈が、呆然としたまま自分の胸元に手を当てた。
「……零斗?」
「ああ」
その一言だけで、胸の奥がいっぱいになった。
それからはしばらく、二人で夢中になって話した。 俺がどうしてここにいるのか。 そして、この世界は一体何なのか。
紗奈いわく、この世界のことについては何も知らないらしい。紗奈も巻き込まれた立場だということか。
あとは、死後の世界や、紗奈が死んだあとの体験についても聞いてみた。
「死んだ後って、どんな感じなんだ?」
「それは……教えちゃダメなんだって」
「そうなのか?」
「そうなの。そういう決まりだからね」
「決まり、か」
「うん。決まり」
最初は少し残念な回答だと思った。しかし、考えようによっては今のやり取りにも一定の収穫があると言える。「決まり」があるということはつまり、死後の世界には一定の秩序があるということだろう。これは考察のしがいがありそうだ。
それから俺は、自分がこの一年間、何をしていたのかを話した。けれど、話せば話すほど思い知らされた。俺の一年間には、自分自身の話がほとんどない。学校で何があったとか、街で何が起きたとか。そんなことばかりだ。
一方で、紗奈のことを話し始めると、いくらでも言葉が出てくる。それだけ、俺の中で紗奈という存在が大きかったのだろう。今だってそうだ。
こうして向かい合って話しているだけなのに、時間の感覚がおかしくなるほどに、楽しい。久しぶりの感覚だ。
こんな感覚を、俺は知っている。真司になっていた時、麻衣子と話している時にも、同じような感覚になっていた。
──これは、そういうことだ。俺は改めて理解した。
「そうだ、紗奈に聞いてほしいことがあるんだ」
「なあに?」
「……俺さ」
一度、詰まった。けれど、ちゃんと言葉にしたかったんだ。伝えられるのは今しかないから。
「紗奈のこと、好きだったんだ」
紗奈が目を丸くする。それから、嬉しそうにはにかんだ。
「……うん」
その返事だけで、胸が少し軽くなった。だから、俺は、さっきまで考えていたことを口にすることにした。
「なあ紗奈。このまま二人で逃げよう」
「……え?」
「このまま引っ越しについて行ったら、話通りだと紗奈は死ぬんだろ?」
「……うん」
「だったら、逃げればいいだろ。どこでもいい。ここじゃない場所に行って、二人で暮らそう」
自分でも、無茶苦茶なことを言っているのは分かっていた。でも、それでもいいと思った。
「全部知ってるけど、逃げるのはやめとくよ」
それでも紗奈は、思ったよりもあっさりと、そう答えた。
「だって、じゃないと零斗、帰れないから」
「でも──」
「これは勘でしかないんだけどね」
紗奈は少し考えてから、続けた。
「噂を完遂しないと、多分、現実には戻れないと思うの」
「……」
「それに、この世界がいつまで続くのかも分からない。どっちにしても、一緒にいられるのは長くて数年くらいだと思う」
俺は黙った。紗奈の言っていることは正しい。分かっていたことだ。
この世界が噂によって形作られたものなら、その筋書きから外れた時点で何が起こるか分からない。
それに、仮にこの世界がそのまま続いたとしても、俺には真司の運命が待っている。真司がそうであったように、いずれ病気になって死ぬんだ。
それに関しては、紗奈の事故のように運命から逃れることは難しいだろう。
「……それでも、だよ」
俺は言った。
「少しの間でもいい。二人で暮らせるかもしれないだろ」
紗奈は何も言わない。
「この世界で一緒にいよう」
声が少し震えた。
「紗奈に、まだ死んでほしくないんだ」
「いやいや、そうは言っても私は階段から落ちて元々死んでるじゃん!すでにお化けみたいなもんだよ!」
紗奈は、いつものように笑った。その笑い方が、あまりにも昔と変わらなくて。俺は、泣きたくなった。きっと紗奈だって辛いはずなのに。それでも俺を安心させるために、いつもの調子で笑っている。
その優しさが、今はどうしようもなく嬉しくて、でもそれ以上に悲しくて。
「私はさ」
紗奈は少しだけ声を落とした。
「零斗に、こんな偽物の世界じゃなくて、現実で生きてほしいんだ」
「……」
「長生きして、たくさん色んなことを経験して。それで、いつか死んだら……私に教えてほしいの」
「そんなもの──」
反論しようとして、口を開いた。
その瞬間。
「んむぅ……?!」
唇を塞がれた。紗奈の唇だった。
麻衣子の時とは全然違う。繊細でもなければ、ムードも何もない。ただ、不意打ちで押し付けられただけ。
なのに。それが、たまらなく心地よかった。
「死ぬ前にキスくらいはしときたかったんだよねー!」
紗奈は嬉しそうに歯を見せて笑った。
「満足満足。もう死んでるけど」
「……お前なぁ」
呆れたように言いながらも、俺は笑ってしまった。やっぱり、紗奈だ。
「……あ、そうだ」
紗奈が何かを思い出したように言う。
「元の世界に帰ったら、井戸の近くにもうひとつキズのついた木があると思うから、探してみて」
「キズのついた木?」
「うん。多分、すぐ分かるよ」
紗奈はそう言った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
こんなに幸せすぎる終わりはないだろう。好きな人に「好きだった」と言ってもらえた。しかも、私との数年のために、自分の生涯を捨ててまでこの世界に残ろうとしてくれた。
それだけで、もう十分だった。
私は不意打ちで零斗にキスをして、惚けたかわいい顔を眺めた。
「──井戸の近くにもうひとつキズのついた木があると思うから、探してみて」
そう言った、ちょうどその時だった。
「おぉい、麻衣子!時間なったし迎えにきたぞ」
麻衣子のお父さんが、声をかけてきた。
「あ、はーい!」
私は立ち上がった。
「──じゃあね、零斗」
「……本当に行くのか?」
零斗の声が、少しだけ震えていた。私は笑った。
「うん。行くよ」
本当は、あまり行きたくなんてない。でも。
「笑って別れようか」
「…………そうか」
零斗は少し俯いて、それから顔を上げた。
「分かった。ありがとう」
そして、いつものように言った。
「じゃあな、紗奈!」
「うん。じゃあね、零斗!」
私たちは二人で笑って、手を振った。引きつった、ぎこちない笑顔。無理やり作ったのがバレバレだ。でも、多分、人のことは言えない。
私もきっと、同じような顔をしているだろうから。
私は父の待つ軽トラックへ向かった。死ぬと分かっていて乗り込むなんて、昔の特攻隊みたいだ。
まあ、私は一度死んでるし。それに、お国のためじゃなくて、零斗のために殉ずるわけなんだけど。
トラックが走り出した。窓の外を、神社が少しずつ遠ざかっていく。
零斗と話すのは、さっきが最後。そう思った瞬間、せっかく我慢していた涙が、急にこみ上げてきた。まだ死ぬまでには間があるはずなのに、零斗との思い出が、走馬灯みたいに頭の中を浮かんでは消えていく。
すると。窓の外を走っている人影が見えた。
「……え?」
零斗だった。何の映画だよ、と心の中でツッコミたくなる。
顔を見れば、すぐに分かった。くしゃくしゃに歪んでいる。大号泣している。
それを見た瞬間。何かが、ぷつんと切れた。私の頬を、涙が堰を切ったように流れていく。泣くのを必死に我慢した努力を返してほしい。最後は笑って別れようと思ったのに。
──そんなの、無理に決まってるじゃん。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
紗奈と別れたあと、俺の時間は急速に流れていった。何日かを過ごして、数ヶ月を飛ばす。その繰り返しだ。
俺はいつしか、大工になっていた。麻衣子からの電話がいつまで経っても来ないことを、真司の母は不思議に思っていた。きっと、真司も昔はそうだったのだろう。
俺は都市伝説の噂のおかげで、その理由を知っている。だから不思議ではない。けれど、胸がひどく痛かった。まるで、紗奈はもういないのだと、何度も突きつけられているような気がした。
大切な人が実はもう死んでいるなんて、いっそ知らない方が幸せなのかもしれないな。
そして、ある日。
目を覚ますと、俺はいつの間にか病院のベッドにいた。入院が始まったらしい。とはいっても、まだそれほど苦しくはない。たまに咳が出るくらいだ。母は、きっと治ると笑っていた。
それからまた、しばらく時間が飛んだ。気がつけば、俺には人工呼吸器がつけられていた。意識がぼやけている。遠くで誰かが叫んでいるような気がした。きっと、このまま死ぬのだろう。
しばらく真司として生きてきたせいか、少しだけ名残惜しかった。真司の人生は、手放しに良いものだったとは言い難い。事故で大切な人を失い、その数年後には自分も病に倒れる。二人の愛は、結局のところ、事故と病には勝てなかった。
──それでも。彼は最後に、病床で何を思ったのだろう。まあ、それは考えるまでもないことか。
俺の意識は、そう考えたところで、ゆっくりと暗闇へ沈んでいった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
目が覚めると、右手が夏にしては冷えた土に触れていた。空は橙色に染まっている。方角から考えれば、朝焼けだろう。ふと左手を見ると、箱のようなものを持っていた。
──薄汚れた木製のオルゴール。
それを見た瞬間、今までの出来事が一気に頭の中を駆け巡った。
「……真司」
確かめるように、呟く。そして、紗奈が別れ際に言っていた言葉を思い出した。
周囲を見渡す。それはすぐに見つかった。木に、大きな傷が刻まれている。俺は落ちていたスコップを拾い、その木の下に突き立てた。夢中で土を掬い出していく。
しばらくして、硬い感触が手に伝わった。掘り出されたのは、不細工な木箱だった。木材はところどころ余分な部分がはみ出している。蓋は一応その役目を果たしているものの、下の部分とはかなりずれていた。それが蓋として機能しているのは、最初から少し大きめに作って、寸法のズレを誤魔化しているからだ。
俺は、この雑なつくりの木箱に酷く見覚えがあった。
「零斗の、なんかひどいね。──あ、そうだ! 交換こしようよ!」
そんな言葉が、脳裏をよぎった。
俺は木箱についた土を払い、ゆっくりと蓋を持ち上げた。そこそこの大きさがある箱の中には、四つ折りの紙が一枚だけ入っていた。少しくたびれた紙を広げる。
そこには、ぼやけた女子っぽい丸文字で、こう書かれていた。
「ずっと前から好きです! 付き合ってください!」
俺は紙を裏返した。今度は、やけに濃く、くっきりとした小さな字が、右下に記されていた。
「刺激的な告白、楽しんでもらえたかな? 最後に零斗が好きなオカルトで一本取れたなら嬉しいな。また、いつか。」
その場に崩れ落ちた。ただ、泣いた。視界が滲む。手紙も滲んだ。
表側と比べて、裏側の文字だけは妙にくっきりとしていた。その不自然さが、目の前にある非常識な事実を物語っている。
このメッセージが書かれたのは、恐らく──。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
大切な人がいた。しかし、その人は「またいつか」とだけ残して、死んでしまっている。
──そう考えると、俺と真司は少し似ているのかもしれない。違いといえば、大切な人の死を知っていたかどうか。それくらいだろうか。
果たして、どちらの方が幸せなのだろう。そんなことを、自室でぼんやりと考えていた。
ふと、棚に目を向ける。そこには、オルゴールと木箱が並んでいた。どちらも、あの非日常から持ち帰ったものだ。俺は、二つを眺めながら、あのときのことを思い返した。
今になってみれば、分かることがある。紗奈は、最初からこの箱を俺に見つけて欲しかったのだ。
生前の紗奈は、都市伝説を利用して俺に告白するつもりだった。先に箱を埋めておいて、何も知らないふりをして俺に探索を持ちかける。きっと、箱の中には、あの手紙を入れていたのだろう。けれど、俺がそれを見つける前に、紗奈は死んでしまった。
だから、死んだ後も俺に「都市伝説の続きを探索してほしい」と頼んだ。あれは、都市伝説の謎を解いてほしかったわけじゃない。
──自分が残した告白を、見つけてほしかったのだ。そう思うと、なんだかおかしくなった。最後の最後まで、紗奈らしい。
棚に並んだ二つの箱は、どちらもボロボロで、傷だらけだった。……俺たちも、きっと同じなんだろう。
まあ、それでいいか。比べられるようなものでもない。セミの鳴き声も、いつの間にか止んでいた。もうじき、クーラーもいらなくなるだろう。
また、退屈な学校が始まろうとしている。
──ぺぺーん!
スマホの通知音が鳴った。俺はすぐにLAINを開く。そこに表示されていたのは、「オカルト研究会」の文字。
一年ぶりに入り直した、俺のホームだった。俺の再入会したいという我儘を聞いて、温かく迎えてくれた同士たち。彼らが、俺の景色をまた染めてくれるだろう。
一年間のモノクロは、もうすぐ終わりそうだ。




