第2話 最後の手紙は妹のために
リアは、迷宮都市の裏側で生きていた。
東区画のさらに外れ。冒険者崩れと日雇い労働者と、帰る家をなくした子供たちが押し込められた石造りの長屋。
「トーマを知っているか」
俺が長屋の入口でそう聞くと、洗濯桶を抱えた女が露骨に警戒した。
「借金取りじゃないだろうね」
「違う。遺品を届けに来ただけだ」
その言葉で、女の表情が少しだけ変わった。
案内された部屋は狭く、窓も小さかった。古い毛布の上で、十五、六くらいの少女が立ち上がる。
痩せていた。けれど目だけは、妙に強かった。
「兄さんの……?」
俺は黙って鞄を差し出した。
少女は受け取る前に、一度だけ唇を噛んだ。覚悟していたのだろう。泣き崩れもしない。ただ、手の震えだけが止まらない。
「あなたが、持ってきてくれたんですか」
「ああ」
「兄さんは……苦しみましたか」
俺は少し迷ってから答えた。
「最後まで、あんたのことを考えてた」
それは嘘じゃない。
リアは目を閉じ、小さくうなずいた。
封を切った手紙には、拙い字でこう書かれていた。
自分は多分もう帰れないこと。ずっと苦労ばかりかけたこと。部屋の床板の下に銀貨を隠してあること。春になったら、外壁沿いの教会へ行けば仕事を世話してくれる人がいること。
そして最後に、
『今度は、お前がちゃんと腹いっぱい食え』
と書かれていた。
リアの肩がそこで初めて揺れた。泣き声は堪えていたのに、涙だけがぼろぼろと落ちていく。
俺は何も言えなかった。
死体置き場で泣く人間は何度も見た。でも、ちゃんと届いた手紙の前で泣く顔は初めてだった。
しばらくして、リアは床板を外し、本当に隠されていた銀貨袋を見つけた。
「兄さんらしい」
笑いながら泣く声は、胸に刺さる。
「これ、お礼です」
彼女は銀貨を差し出してきた。
俺は首を振った。
「受け取れない」
「でも」
「兄貴が残した金だろ。あんたが使え」
俺がそう言うと、リアは困った顔をしたあと、鞄の底から古い革紐を一本取り出した。
そこには小さな鉄の留め具がついていて、荷を背負う時に肩からずれにくくするための工夫がされていた。
「兄さんの癖です。重い荷物を持つ時、体がぶれないように、自分で直してたんです」
リアはそれを俺に差し出した。
「手紙を届けてくれた人が持っていてください」
その瞬間、俺の指先に熱が走った。
青い光が革紐からふっとほどけ、俺の足元へ流れ込んでくる。
脳の奥で、崩れた足場の上を滑らずに走る感覚が弾けた。
荷を背負っても姿勢がぶれない。重心の置き方、力の逃がし方、狭い足場での体のさばき。
スキルの欠片だ。
《荷重歩法》。
地味だ。派手な剣技でも魔法でもない。
だが、迷宮ではこういう小さな技術が命を分ける。
「……ありがとう」
思わず俺の方が先に言っていた。
リアは涙で濡れた顔のまま、小さく笑う。
「兄さん、ちゃんと届いてよかったです」
長屋を出た時、風が少しだけ軽かった。
でも帰り道、俺はすぐに現実へ引き戻される。
裏路地の角に、見覚えのある銀の羽根が落ちていたのだ。
昨日見た、銀翼の牙の徽章と同じ形。
しかも、血が乾いてまだ新しい。
俺はしゃがみ込み、そっとそれを拾った。
今度は未練の色じゃない。
ただ、胸の奥に薄く濁った予感が残る。
あの荷運びの死は、単なる不運じゃないのかもしれない。




