36 志
事件から数日が経ち、王宮は平静を取り戻していた。廊下を行き交う足音、穏やかな光に包まれる宮内、庭園には剪定を終えた花々の香りが戻っている。
香術局を出ると、夕刻の風が頬を撫でた。庭園の奥、白い石畳の小径に黒衣の男が立っている。レオンだった。偶然ではない。ミアは歩み寄った。
「レオン様」
「二人の処分は滞りなく通った」
デュークとイリオンの処分は、予定通り謹慎の処分が決まった。
「……ありがとうございます」
「合理的な処理をしただけだ」
深紅の瞳が、まっすぐに向けられる。
「後悔は?」
「ありません」
即答だった。数瞬の沈黙。レオンはわずかに目を細める。
「ならいい」
レオンは動かなかった。
ミアも、動かなかった。
風が木々を揺らす。花の香りが、二人の間をゆっくりと流れていく。沈黙は重くない。ただ、言葉の続きを待っているような静けさだった。
「王女として動くつもりはないのか」
低い問いだった。責める響きはない。ただ、確かめている。
「今は、香術を学びたいのです」
「それは……逃避ではないのか?」
逃避。そう言われれば、ミアの決断はそう聞こえるかもしれない。王女という事実から逃げていると。
「違います。香術は、私が私でいるための、唯一のものです」
レオンは黙って続きを待つ。その沈黙は圧力ではなく、耳を傾けているのだとミアには分かった。
「生みの母からは香術の才を受け継ぎました。育ての親からは、魔術の理論と基礎を教わりました。どちらか一方では、足りない」
言葉を選びながら、ミアは続けた。これまで誰かに話したことのない言葉だった。胸の奥に仕舞ったまま、形にしないでいた想い。それが今、ここで言葉になっていく。
「だから私は、どちらも自分のものとして繋げたいのです。目標は——香りの魔女と呼ばれるくらい、香術を極めることです」
言い切ってから、ミアはわずかに息を整えた。
夕陽が傾く。庭園の花々が、橙色の光の中で輪郭を柔らかくしている。
「無謀だと思いますか?」
自分でも、なぜそう問いかけたのか分からなかった。誰かに否定されることを恐れているわけではない。ただ——この人にだけは、どう聞こえたのかが、知りたかった。
「いや——現実的だ」
淡々とした声音だった。その一言に、胸の奥でわずかに何かがほどける。
「香術士として、成果を出せ」
「……命令ですか?」
ミアはわずかに笑う。
「成果が見込めると判断した」
冷静で、揺るがない声だった。感情ではなく、判断として言っている。それがレオンという人間だとミアは知っている。知っているのに——その言葉が、胸の中で静かに温度を持つ。
風が二人の間を抜けていった。
「レオン様は」
ミアはふと問う。
「私が失敗したら、切り捨てますか」
口にしてから、少しだけ迷った。試しているわけではない。ただ、聞かずにいられなかった。
深紅の瞳が、わずかに細まった。
「無能ならな」
即答。そして——
「だが、お前は違う。……俺が見てきた限りではな」
胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。
「……手放す理由がない」
息が、止まりかける。言葉の意味を理解した瞬間、鼓動が一つ強く鳴った。ミアはそれを隠すように、ゆっくりと息を整えた。うまく、できていない気がした。
「……レオン様は、いつもそうやって」
「何だ」
「人の心を、揺らすのですね」
沈黙が落ちた。レオンはすぐには答えなかった。珍しいことだった。いつも迷いなく言葉を返すこの人が、今は静かに間を置いている。その沈黙が、ミアの鼓動をもう一度強く鳴らした。
やがて、ほんのわずかに声が低くなる。
「感情で国は動かない」
一拍。
「だが、感情を持つ人間は動く」
視線が絡む。どちらも逸らさない。夕風が流れ、花の香りが揺れる。長い沈黙だったが、不快ではなかった。むしろ——この静けさの中に、ずっといられる気がした。
やがて、レオンが視線を外した。
「日が落ちる。身体が冷える前に戻れ。まだ本調子ではないだろう」
「レオン様は?」
「俺はもう少し残る」
ミアは頷き、庭園から背を向けて歩き出した。夕陽の残光が石畳を染めている。数歩進んで、立ち止まる。
「レオン様」
「何だ」
「私は、必ず成果を出します」
振り返らずに告げる。背中越しでも、彼が聞いていると分かった。
「当然だ」
短い返答。それだけで十分だった。歩き出そうとした、その瞬間。
「ミア」
呼び止める声がした。それまでより、わずかに低い。聞き慣れているはずのその名が、今は違う響きを帯びているように感じた。胸が、強く跳ねる。ミアは足を止めた。
「道は険しい。だが、お前は一人ではない」
一拍。
「少なくとも——俺はいる」
甘い言葉ではない。約束でもないかもしれない。それでも、その言葉には確かな温度があった。揺るがない、静かな温度が。
思わず振り返る。視線が合った瞬間、何かを言いかけて——言葉が出てこなかった。胸の奥にあるものが大きすぎて、言葉の形にならない。
「……ありがとうございます」
それだけを、ようやく絞り出した。レオンは何も言わなかった。ただ、わずかに目を細めただけだった。それで、十分だった。
ミアは再び歩き出す。夕陽が庭園を染める。花々の香りが溶け合い、深みを増す。甘さの奥に苦みがあり、澄んだ中に濁りが混じる。いくつもの層が重なり合って、ひとつの香りになる。
人も、きっと同じだ。
ミアは目を閉じ、息を吸い込んだ。高みを目指す。香りの魔女と呼ばれるその日まで。その道の先に並ぶ、理知の影を——今度は、はっきりと意識しながら。




