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香りの魔女と王宮の冷徹参謀  作者: 佐倉穂波


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39/41

36 志

 事件から数日が経ち、王宮は平静を取り戻していた。廊下を行き交う足音、穏やかな光に包まれる宮内、庭園には剪定を終えた花々の香りが戻っている。


 香術局を出ると、夕刻の風が頬を撫でた。庭園の奥、白い石畳の小径に黒衣の男が立っている。レオンだった。偶然ではない。ミアは歩み寄った。


「レオン様」


「二人の処分は滞りなく通った」

 デュークとイリオンの処分は、予定通り謹慎の処分が決まった。


「……ありがとうございます」


「合理的な処理をしただけだ」


 深紅の瞳が、まっすぐに向けられる。


「後悔は?」

「ありません」

 即答だった。数瞬の沈黙。レオンはわずかに目を細める。

「ならいい」


 レオンは動かなかった。

 ミアも、動かなかった。


 風が木々を揺らす。花の香りが、二人の間をゆっくりと流れていく。沈黙は重くない。ただ、言葉の続きを待っているような静けさだった。


「王女として動くつもりはないのか」


 低い問いだった。責める響きはない。ただ、確かめている。


「今は、香術を学びたいのです」


「それは……逃避ではないのか?」


 逃避。そう言われれば、ミアの決断はそう聞こえるかもしれない。王女という事実から逃げていると。


「違います。香術は、私が私でいるための、唯一のものです」

 レオンは黙って続きを待つ。その沈黙は圧力ではなく、耳を傾けているのだとミアには分かった。

「生みの母からは香術の才を受け継ぎました。育ての親からは、魔術の理論と基礎を教わりました。どちらか一方では、足りない」

 言葉を選びながら、ミアは続けた。これまで誰かに話したことのない言葉だった。胸の奥に仕舞ったまま、形にしないでいた想い。それが今、ここで言葉になっていく。


「だから私は、どちらも自分のものとして繋げたいのです。目標は——香りの魔女と呼ばれるくらい、香術を極めることです」

 言い切ってから、ミアはわずかに息を整えた。

 夕陽が傾く。庭園の花々が、橙色の光の中で輪郭を柔らかくしている。

「無謀だと思いますか?」

 自分でも、なぜそう問いかけたのか分からなかった。誰かに否定されることを恐れているわけではない。ただ——この人にだけは、どう聞こえたのかが、知りたかった。


「いや——現実的だ」


 淡々とした声音だった。その一言に、胸の奥でわずかに何かがほどける。

「香術士として、成果を出せ」


「……命令ですか?」

 ミアはわずかに笑う。

「成果が見込めると判断した」

 冷静で、揺るがない声だった。感情ではなく、判断として言っている。それがレオンという人間だとミアは知っている。知っているのに——その言葉が、胸の中で静かに温度を持つ。

 風が二人の間を抜けていった。


「レオン様は」

 ミアはふと問う。

「私が失敗したら、切り捨てますか」

 口にしてから、少しだけ迷った。試しているわけではない。ただ、聞かずにいられなかった。

 深紅の瞳が、わずかに細まった。

「無能ならな」

 即答。そして——

「だが、お前は違う。……俺が見てきた限りではな」

 胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。


「……手放す理由がない」

 息が、止まりかける。言葉の意味を理解した瞬間、鼓動が一つ強く鳴った。ミアはそれを隠すように、ゆっくりと息を整えた。うまく、できていない気がした。

「……レオン様は、いつもそうやって」

「何だ」

「人の心を、揺らすのですね」

 沈黙が落ちた。レオンはすぐには答えなかった。珍しいことだった。いつも迷いなく言葉を返すこの人が、今は静かに間を置いている。その沈黙が、ミアの鼓動をもう一度強く鳴らした。


 やがて、ほんのわずかに声が低くなる。

「感情で国は動かない」

 一拍。

「だが、感情を持つ人間は動く」

 視線が絡む。どちらも逸らさない。夕風が流れ、花の香りが揺れる。長い沈黙だったが、不快ではなかった。むしろ——この静けさの中に、ずっといられる気がした。


 やがて、レオンが視線を外した。


「日が落ちる。身体が冷える前に戻れ。まだ本調子ではないだろう」

「レオン様は?」

「俺はもう少し残る」

 ミアは頷き、庭園から背を向けて歩き出した。夕陽の残光が石畳を染めている。数歩進んで、立ち止まる。


「レオン様」

「何だ」

「私は、必ず成果を出します」

 振り返らずに告げる。背中越しでも、彼が聞いていると分かった。

「当然だ」

 短い返答。それだけで十分だった。歩き出そうとした、その瞬間。


「ミア」


 呼び止める声がした。それまでより、わずかに低い。聞き慣れているはずのその名が、今は違う響きを帯びているように感じた。胸が、強く跳ねる。ミアは足を止めた。


「道は険しい。だが、お前は一人ではない」

 一拍。

「少なくとも——俺はいる」


 甘い言葉ではない。約束でもないかもしれない。それでも、その言葉には確かな温度があった。揺るがない、静かな温度が。


 思わず振り返る。視線が合った瞬間、何かを言いかけて——言葉が出てこなかった。胸の奥にあるものが大きすぎて、言葉の形にならない。


「……ありがとうございます」


 それだけを、ようやく絞り出した。レオンは何も言わなかった。ただ、わずかに目を細めただけだった。それで、十分だった。


 ミアは再び歩き出す。夕陽が庭園を染める。花々の香りが溶け合い、深みを増す。甘さの奥に苦みがあり、澄んだ中に濁りが混じる。いくつもの層が重なり合って、ひとつの香りになる。


 人も、きっと同じだ。


 ミアは目を閉じ、息を吸い込んだ。高みを目指す。香りの魔女と呼ばれるその日まで。その道の先に並ぶ、理知の影を——今度は、はっきりと意識しながら。

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