33 静かな夜に
映像が消えたあとも、部屋には淡い魔力の残滓が漂っていた。
誰もすぐには動かなかった——いや、動けなかった。
指輪が見せた記憶に、誰もが現実との境界を見失っていた。まるで、まだあの光の中に取り残されているかのように。
最初に動いたのは、ルシアンだった。
ゆっくりとミアへ歩み寄るその足取りは、どこか恐る恐るとしていた。失えば二度と触れられない宝物に近づくような歩みだった。
「ミリアリア……」
低い声が震える。
「亡くなったとばかり……思っていた。二度と会えないと……」
その瞳に、静かに涙が滲む。ミアは動けなかった。"ミリアリア"と呼ばれることに、本当に自分のことなのだろうかとまだ信じきれない自分がいた。
(私は、本当に……王女、なの?)
考えようとしても、うまく形にならない。どう返事をしたら良いのか分からず、ミアは立ち尽くす。
ルシアンの腕がそっと彼女を包み込んだ。強引ではない。確かめるような抱擁だった。触れた瞬間、ルシアンの魔力を感じた。胸の奥にすっと溶け込むような、柔らかい魔力の香り。知っている——と、思った。記憶にないはずなのに、どこかで知っていた。胸の奥がじんわりと熱くなる。理由が分からないまま、ミアの目に自然と涙が零れた。
王女だという実感は、まだない。けれど、ルシアンの腕の中は優しく温かかった。
「……よく、生きていてくれた」
掠れた声が耳元に落ちる。ミアは腕を返すことも出来ず、ただ静かに立ち尽くしたまま涙を流した。少し離れた場所で、アレックスは目を伏せていた。レオンも、その横で静かに成り行きを見守っている。
やがてルシアンはそっと、名残惜しむように腕を解いた。
「……すまない。急に」
「いえ……」
それ以上、言葉にならなかった。ルシアンは深く息を吐く。
「今日はもう休みなさい。考える時間が必要だろう」
ミアは小さく頷いた。
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ルシアンとの謁見のあとに案内されたのは、離宮の中にある一室だった。レオンは政務のためアレックスと共に王宮に戻った。別れるとき、少し気遣わしげな視線をミアに向けていた。
(本当に、大変な日だった……)
デュークとの対峙。
ルシアンとの謁見。
指輪の記憶——そして、ミアが王女だという事実。
寝台に横になっても、なかなか瞼が落ちてくる気配はない。身体は絶対に疲れているはずなのに、意識だけが冴えていた。
母だと思っていたセレナは、血のつながりはなかった。
本当の母は、王太后アイリス。
アイリスの涙。
禁呪。
受け継いだ香りの魔力。
そして——ルシアンの腕の温もり。
今日の出来事を思い返し、ミアの胸に様々な気持ちが湧き上がる。
そのとき、コンコンッと控えめなノックが響いた。
「……起きているかい?」
アレックスの声だった。予想外の訪問に驚き、ミアはベッドから起き上がる。
「は、はい。すぐ開けます!」
国王としてではなく、兄として来たのだと分かる穏やかな表情だった。それでも、緊張は消えない。まだ、アレックスのことを兄だと思うのは恐れ多いような気持ちの方が大きく、距離の測り方が分からなかった。
「眠れないだろうと思ってね」
アレックスは部屋の中央まで進み、無理に近づきすぎない位置で止まった。
「……はい」
正直に答える。
嘘をつく余裕もなかった。少し沈黙が落ちる。
やがてアレックスは、静かに言った。
「君がどんな選択をしても、私の妹であることは変わりない」
その声音は、柔らかかった。
「王女になるかどうかとか、王宮に残るかどうか。そんなことは後でいい。大切なのは、君がどうしたいかだ」
"妹"。その言葉が胸に落ちる。
「……どうしたい、か」
呟いてみる。
答えはすぐには出ない。
王女として生きる覚悟など、急に持てるはずもない。
けれど、逃げるだけは、したくない。それだけははっきりしていた。
「すぐに答えを出さなくていい。焦らなくていい。私たちは待っているから」
"私たち"——それはルシアンも、ということ。ミアは小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
それ以上は言えなかった。アレックスは優しく頷くと、静かに部屋を後にした。
扉が閉まると、再び静寂が訪れた。
ミアは窓辺へ歩み寄り、夜空に浮かぶ月を見上げた。
ミリアリア。
その名を心の中で繰り返す。
まだ他人の名前のようだ。けれど、胸の奥で小さな何かが灯っている。それが何なのか、言葉にはできない。
答えはまだ出ない。ただ、逃げるだけの選択だけはしないと、そう思った。その決意は、誰にも告げないまま。夜は、深く更けていった。




