32 指輪の記憶
ミアの魔力。
前国王ルシアンの魔力。
そして、ルシアンの胸元で光る指輪から溢れた魔力。
絡み合った三つの魔力は、やがてゆるやかな渦を描きながら指輪へと吸い込まれていった。
そしてーー
指輪の上に淡い光の膜が張る。
水面のように光の膜がゆらめき、その内側に、ゆっくりと人影が浮かび上がってくる。
春の陽を閉じ込めたような淡い金髪が肩口でやわらかく揺れる。。
琥珀色に宿る、穏やかな視線。
静かで思慮深そうな微笑み。
「……アイリス」
ルシアンの掠れた声が聞こえた。
それは名を呼ぶというより、思わずこぼれ落ちたつぶやきのようだった。
アレックスも、瞬きを忘れたかのように映像を凝視している。
指輪の映像の中の女性――アイリスは、腕に小さな赤子を抱いていた。
白い産着に包まれた、まだ生まれて間もないであろう赤子だった。
かすかに身じろぎ、小さな指を握りしめている。
映像のはずなのに、不思議と温度を感じた。
アイリスは一度、その小さな命を見下ろし、指先で頬を撫でる。
それから、ゆっくりと視線を上げた。
「……ルシアン」
アイリスはルシアンの名を呼んだ。まるで、本当に彼が目の前に居るように。
「魔塔の中に、王宮の力を削ごうとする動きがあるわ」
穏やかな声。
けれどその瞳の奥には、拭いきれない疲労の影が差していた。
「表立った動きは、いまはまだ起きていない。でも、水面の下では確かに流れが変わっているの。静かな流れほど、気づいたときには止められないものよ」
腕の中の赤子が小さく声を漏らす。
アイリスはすぐに揺らし、あやす。
「魔術師が、王に従う者ではなく、自らが主となる未来を望む者がいるの。王宮の庇護を受けるのではなく、王宮を従える未来を」
王宮を従えるーーつまり、王位転覆を狙う者がいるということ。それは、デュークの父ヴァルガス・エルヴァインの事を示していた。
そこで、アイリスの視線がわずかに伏せられる。
「そのために、利用できるものは、なんでも利用するでしょう」
赤子を、きゅっと抱き寄せる。
「この子の香りは、私と同じ。香術の才を持っているの……いえ、それ以上かもしれない」
一瞬、まぶたが閉じる。
「このままでは、この子は間違いなく重い運命に巻き込まれてしまう……そうなれば、王宮……いえ、国を巻き込んで混乱を生じてしまうでしょう」
アイリスの声は、悲しみの色が滲んていた。
その指先が、わずかに震えているのが見えた。
「だから私は……この子に、禁を犯すわ」
顔を上げたアイリスの瞳には、運命を変えるという強い意思を抱いていた。
「この子の魔力を封じる。そして王宮から遠ざけるわ。名も、身分も、すべて隠して」
言い切ってから、アイリスは小さく息を吐く。
「何度も考えたの」
瞳に、少しの揺らぎが生じた。
「何度も、この子を抱きしめて、何度も迷った。力を奪うことが、この子の幸せなのかと。王女として生きる未来を、私が断ってしまっていいのかと」
赤子の額に、そっと唇を寄せる。
「でも……ほかに道が見つからなかった」
その一言に、すべてが詰まっていた。
「この子のことは、セレナに託すわ」
セレナーーミアの母の名前。
「セレナなら、私の代わりにこの子守ってくれる」
アイリスの言葉に、ミアの胸はドクンと脈打つ。自分にとって、とても重要な話をしている気がする。
「この子には、王宮とは関わらず、何の陰謀にも巻き込まれずに、生きてほしい。ただそれだけを願うわ」
赤子に向ける、慈愛に満ちた眼差し。
「でもね、絶対の安心なんて、どこにもない。私はそれを知っている」
視線が、まっすぐにこちらを射抜いた。
「だから、もしも。もしもこの子が運命に引き戻されることがあったなら……そのときのために、この映像を残すことにしたの」
白銀の指輪が、静かに光を強める。
「この子の魔力と、ルシアンの魔力。そして、この指輪に込めた私の想い。それが揃ったとき、私は目覚めるようにしたわ」
アイリスは、この子と言った。
アイリスは、もう一度赤子を見下ろす。
「……私の命は、あまり永くないみたいなの」
穏やかなままの声。
けれど、瞳には涙が溢れていた。
「ルシアン。アレックス。愛しているわ」
そして、ほんの一拍の沈黙。
「そして、あなたも――」
赤子ではなく、アイリスの視線は前を向いていた。まるで、目の前のミアを見ているようだった。
「ミリアリア」
ミアはこれまで、ミリアリアと呼ばれたことはない。
なのに、はるか昔、彼女の優しい声で呼ばれたことがあるような、そんな気がした。
「あなたには、ただ、幸せに生きていてほしい。それだけでいいの」
ミアの頬に、涙がひとすじ頬を伝う。
「王宮に戻ることも、戦うことも、望んでいない」
それでも、目は逸らさない。
「……でも、この映像を見ているということは」
小さく息を吸い、
「やっぱり、戻って来てしまったのね」
その声には痛みがあった。
けれど同時に、確かな安堵もあった。
「願わくば、あなたが幸せになれますように」
赤子を抱きしめる腕に、力がこもる。
光が揺らぎはじめる。
「どうか、自分の香りを見失わないで。誰に奪われることもなく、あなたが選ぶ道を歩んで」
最後に、春の陽だまりのような微笑みが浮かぶ。
「私は、いつでもあなたの味方よ」
光がほろほろと、ほどけていく。
そして、水に溶けるように消えていった。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。




