大切なひとの大切なひと
キッチンの水道管がある空間。
本来であれば、水道から力強く地面に延びている水道管はなく、そこには階段を隠した扉があった。
開けた扉の奥から、冷たい風が微かに吹いているのが分かる。
大人三人がキッチンの下の空間にしゃがみ姿勢で食いぎみに覗き込む姿はいささか滑稽だった。
だが、僕はわくわくしていた。
まるで学校の家庭科室のようなその一室は昔小学校のときに味わった高揚感のようなものだった。
それは、いけないと分かっているが、分かっていてあえてやることに対する高揚感だ。
もしここが本当に小学校だとしたら、家庭科室の一部にある地下に通じた階段なんて絶対に降りてはいけないはずだ。
そんな錯覚に似た感覚が僕の体の中を走り、血液をびりびりと刺激していたのだ。
「吉岡の妹、よくやった。」
「まさか本当にこんなものがあるなんて思わなかったわよ」
「よし、降りるぞ」
僕も有美ちゃんもきっと想像していた展開だった。
だが、そうと分かっていてもすこしの恐怖心はあるのは確かだった。
ひとはいままで経験がしたことがないことに対して防衛本能として恐怖心を感じることで危険から身を守ろうとするのが正常な生体反応だ。
荒木さんはその生体反応を越えて、目の前にある目標に向かっているだけだ。
もしかしたら本心ではいちばん恐ろしさを感じているかもしれない。
だが、彼を突き動かすのは、その強い意志だけだった。
何の迷いもないように、かがんだ腰をその穴の中に入れる。
扉の奥は思ってるよりも、きれいに掘られていた。
これはきっと意図的に何か目的をもって掘ったとしか考えられない。
荒木さんは体の半分を扉の中に入れた。
「階段もしっかりしてる。ここの組織のやつらは何を考えているんだ?俺が調査しに来たときには何もなかったのに」
ぶつぶつといいながらすっぽりと扉の奥に収まった。
荒木さんの「いくぞ」という掛け声に対して無言でいた僕ら二人の心境を察したのか、
「まずは俺だけで行く。もし3分たって俺が来なかったらそのときは逃げろ。きっと犯人にやられるか、何かだ。君たち二人まで危険にさせるわけにはいかない」
「そんな、わたしもい」
わたしも行くわ、有美ちゃんがと言いかけたが、すぐに
「俺が早々簡単にやられるわけはないんだ、大丈夫だよ。それに」
「それに?」
今度は僕が発言した。
「地下は俺の専門分野だ。きっと俺と犯人はもぐって作業するのが好きなのさ」
はっと、荒木さんの実家にある自室の地下を思い出した。
かつて長年捜査を進めてきた、データベースが蓄積された場所。
掘り進めた分だけ、真相に近づいていたはずだったあの場所。
今では、犯人によって爆破処理され跡形も無くなったが。
有美ちゃんはこの地下室爆破の件を知らなかったので、きょとんと魅力的な黒目をぱちくりさせた。
「それじゃ」と荒木さんはあっさりとその細身の長身を扉の下に続く空間に入れて、階段を下っていった。
僕らは二人取り残された。
いや、取り残されたという表現は相応しくない。
どちらかというと、怖じ気づいたに近いだろう。
もしかすると、この終わりが見えない地下の階段の奥に、可南子と有美ちゃんのお姉さんがいるかもしれない。
犯人がたまたま地下の部屋から出ていて、助け出せるかもしれない。
その考えもあるが、もしかすると一歩間違えると袋のネズミになる可能性もある。
そうなると僕らは全員犯人の格好の餌食だ。
飛んで火に入る夏の虫。
大切な人を守りたい気持ちと自分自身も守りたい気持ちがお互いにせめぎあっている。
きっとそれは僕も有美ちゃんも一緒だ。
肌は触れ合わずとも、言葉は交わさずとも、この冷たい空気を通して感じていた。
「荒木さん行っちゃったね」
僕は荒木さんが潜っていった地下の階段の奥を見ながら言った。
「そうだね。行っちゃったね。今頃どこにいるだろう。実はいきどまりでした、なんてね」
まるで日常会話のように、何事もないかのようにするりと言った。
彼女に向き合ってみると目尻にシワを寄せ、がんばって取り繕った笑顔を僕にくれた。
肩からさらりと長い黒髪が流れた。
そうだ。
その瞬間僕は思い出した。
何を忘れてるんだ、僕は。
さっきあんなに固く決心した決意がもう揺らいでいたなんて、こんなにひどいものはない。
僕は大切なひとの大切なひとを守るんだ。
荒木さんのように、地下にいるかもしれない大切なひとをいますぐ見つけ出さなければいけない。
震える指先と全身の血管を流れるピリピリとした緊張感をふりはらうように僕は地面についていた両手を固く握った。
あのとき、大学の坂道で吸い込まれた有美ちゃんの瞳。
力強く、でも弱々しかった。
その瞳に一目惚れをして、そんな強そうに見えて脆い彼女を守りたいと思った。
僕はもう迷わない。
よし、僕も地下の階段を降りようと体の重心を前に動かした。
「あのね」
右側から鈴が鳴るようなきれいな声が聞こえた。
振り向くと有美ちゃんがうつむき加減でいた。
「あのね、わたしね、ヨージくんに会えて本当に良かったって思ってるんだ」
一瞬何を言われているか全く分からなかった。
けれども言葉の意味を頭で再生するとなかなか嬉しいことを言われていると気付き、僕の瞳孔が開き、頭に熱が帯びるのを感じた。
「え、え?」
生まれてはじめて言われた言葉になんて返したらよいか分からず、口からでたのは情けない音だった。
「ヨージくんは、覚えてないさも知れないけど、1年生のときに助けてくれたよね。本当にあのときは嬉しかったの」
「あ、あぁ、地獄坂で自転車から落ちたときのこと?」
「え?違うよ。1年生の新入生歓迎会のときのサークルオリエンテーションだよ」
「…?」
僕は何を言われているのか分からなかった。
有美ちゃんとは地獄坂で接触したのが初めてで、そのあとは英語の追試を受けて、あとは英語のクラスが同じだっただけだ。
それだけだった。
そのはずだった。
「もしかしたら、この階段を降りると言えなくなっちゃうと思って、いまのうちに言っておかなきゃなって」
やっぱり考えていることは僕と一緒だった。
彼女も死を予期していた。
「さ、荒木さんにがんばって追い付かなきゃね」
彼女はそう言い、ぐいーと伸びをして、地下の扉に向かって足を向けた。
「え、行くの?」
「うん、行くよ。ヨージくんもいくかんじだったよね?」
「う、うん。そうだけど」
「ささ、行こう行こう。なんだか楽しくなってきたね!」
彼女は扉の中にしなやかな両足を入れ、階段の存在を爪先で確かめながら、腰まで入れた。
やっぱり彼女はすごい。
僕と違って、目先の損得で行動をするひとではないのだ。
そんな強そうな彼女だけれども、内側には震えて怯える側面もある。
僕はそんな彼女を守りたい。
そして彼女の大切なひとを守りたい。
僕は先ほど言われた彼女の衝撃的な言葉の意味を考える間もなく、扉に体を落とす彼女の手を自然にとりサポートをしていた。
物語は、さらに深みを増していく。




