生きる
誰もが無言で施設内を探索していた。
確実に仕込まれた罠だと知って荒木さんは敵の手中に落ちたのがよっぽど嫌だったのか、カリカリとした様子だった。
眉毛のおしりがつり上がり、眉間にシワを寄せていた。
それに反して有美ちゃんは、眉毛のおしりを下げ、不安そうな表情であたりを見渡していた。
あの爆発は、犯人が意図的に行ったものだ。
犯人は僕たち三人を始めから監視していたのだ。
つまり、「袋のネズミってわけか」と僕の気持ちを荒木さんは代弁してくれた。
「それなら、ありがたい話だぜ。犯人は自分から“俺はここにいる”ってことを教えてくれたんだろ。つまり、どこかから俺たちを見ている。そこを突き止めれば良いのさ」
「確かにそうですね。でも…」
有美ちゃんが一瞬明るい表情を見せたが、やはり不安の感情の方に押し潰されまた暗い顔に戻った。
時たま顔を除かせる月夜に照らされる彼女の表情は、不安な表情でも美しかった。
むしろ暗闇が彼女の陶器のようなつるりとした肌のハリを強調していた。
「とりあえず、出口を見つけましょう。ここがアジトなら犯人が出入りできる道が必ずあると思うんです」
僕らが入ってきたこの入り口は、数年間人の出入りがなさそうだった。
蔦が絡まり、埃を被った正門は固く口を閉ざしていた。
つまり、この正門からは犯人は出入りをしていない。
「ここに来るときに、この辺りの地面図を見たが、そういった場所は無かった。外の離れたところにあるのは予想できるが、そうした空洞や道はヒットしなかったんだ。しかもここは俺がかなり力を入れて調べた場所だ。抜かりはないはずだ」
埃にまみれた室内を見渡しながら、荒木さんが語気を強めて言った。
「ヨージの友達は何て言っている?何か手がかりを見つけてないか?あ、電波が届かないんだったなとりあえず探索するしかないか」
埃が月夜に照らされキラキラと舞っている廊下を荒木さんが歩を進めた。
「電波があればね…」
有美ちゃんがポツリと言った。
そうだ、電波がなくてもアイリがいればなんとかなる。
僕は携帯電話のディスプレイをオンにした。
すぐに電波マークをチェックする。
確かに電波マークは圏外を示していた。
階段上の電波棒はひとつもなかった。
だが、その圏外マークの隣に見覚えがないマークが表示されていた。
(これは何だ…?)
そのマークはパソコンの処理中のマークに良く似ていた。
円型の矢印がぐるぐると弧を描いていた。
何かソフトウェアのアップデートか何かが走っているんだと考えた。
そして、アイリにメッセージを送った。
『閉じ込められた。電波がない。突破口はないか?本当にここに犯人がいるんだろうな?』
返信はすぐに来た。
『状況は把握しているわ。わたしのこと、絶対に破損させないでね。あと、電波は受信しているわ。この建物には電波塔が立っていて、通信については全く問題ないわ。だから、外から助けを呼ぶことも可能よ。あと、犯人のことだけど、確かにここの位置情報で合っているわ。でもいろんな電波が干渉しあっていて、なかなか処理がうまくいっていないのは確か。今急務で脱出口を詮索しているから、少し待って』
ものの1秒ほどで文章が現れた。
電波がつながっているは、幸いだ。
何かあったら、助けを呼ぶことができる。
脱出なんて、窓を割って出ればいいんだ。
肝心なのは、可南子と有美ちゃんのお姉さんを脱却して、犯人を捕まえること。
『アイリ、犯人の情報を仕入れたら教えてくれ』
そうメッセージを打って、僕はディスプレイをオフにした。
かつて僕が過ごしたこの施設。
母さんと僕のつながりを断ち切った忌々しい場所。
ここに大切な人を救う任務がある。
僕は僕自身のためではなく、大切な人のためにここに来た。
そのときがきたら、全力で立ち向かう。
ようやく僕は自分がここにいる意味が分かってきた気がした。
僕が生きている意味。
母さんに残された意味。
よし、と改めて気合いを入れ僕は先に進む二人の後を追った。
施設内はやや荒らされていたものの、そこまで荒廃はしておらず、かなり原型を留めていた。
白を貴重とした施設内の壁は、無機質にその白さを保っていた。
かつて子どもたちが遊んでいたプレイルームにはぬいぐるみや積み木などのおもちゃがそのままに、棚にきれいに整頓されていた。
絵本やクレヨンも地理を被っているが、まだまだ使えそうなほど形が保たれていた。
プレイルームの中心にある壁掛けの時計は、みんなを見下ろす形で、3時10分でその針を止めていた。
まさに時がそのまま止まったかのような静止状態だった。
噂では差し押さえによる施設廃止と聞いていたが、まさにその通りだ。
ただ、僕が思い描いているよりもかなりきれいな状態で残っていた。
瓦礫が散乱していたり、板張りが所々浮いていたりするが、そのたたずまいは僕が最後に見たとき、いまの家族に初めてあったときと大して差はなかった。
むしろ、変わらないのは怖いくらい統一されていた白い壁、白い床、白い天井、白いカーテン、すべてが白で他の色を全く寄せ付けるものかと言われているようだった。
それの白い空間にずっといると、その白さがまるで生きているかのように思えてくる。
何かの意図をもって、その白さを保持しているかのように。
僕は廊下の中腹で足が動かなくなってしまった。
何かの超能力的な攻撃を受けているわけでもない。
動かそうと思えば、自分にその意志があれば、この立派に成長した178センチの身長に備えられた両足を前に進めることができた。
しかし、僕はしなかった。
できなかったのではない。
しなかったのだ。
白の色に思考が侵食され始めていたのも確かだ。
僕がこの白の施設で過ごした期間では、毎秒毎秒母さんのことだけ考えていた。
母さん以外の記憶はないはずだった。
しかし、そんな僕の中にも他の記憶が存在しているのだ。
他の人と打ち解けようとしなかった僕に、いつも遊び時間に話しかけてくれた短髪の男の子。
言葉が不自由だったが、折り紙が上手くて、たびたびカエルやツルな花を折ってくれたおかっぱの幼女。
ふくよかな体格で目尻にかわいい小じわをよせるニンジンが食べられない男の子。
ぽつぽつと記憶の雨が僕を濡らしていく。
このとき僕が心のなかで思っていたのは、この場から逃げたいと言うことだった。
趣味と言えるのは読書くらいで、友達も数えるほどしかいない。
特に人に勝る特技なんて持ってない。
僕は僕の周りの人が幸せでいてくれさえすればよかった。
そして、母さんみたいに急にどこかへ行ってしまったりしない、そんなささやかな願いだけをもって生きてきた。
だからこうして僕が有美ちゃんをちゃんと好きだと認識したり、荒木さんと一緒に行動を起こして犯人を探しているのは、もう僕自身じゃないかのうな気さえする。
いつも数歩下がって物事を見ている僕にとって、ここ最近の出来事はまるで他人事のようだった。
慌ただしく過ぎていく日々で自分が何だったのかを忘れていた。
いや、忘れていたんじゃない、
分かっていたけれども、わらないように、自分が変わりつつあることに目を背けていたんだ。
「…母さん…」
鉛のように固まる足を残して、僕はぽつりとその名前を呼んだ。
呼んだと言うよりも、口から自然にこぼれてきた。
母さん。
僕はいままでずっと母さんを憎んでいた。
どうして僕を置いていってしまったのか。
僕は、いまだにその答えがわからない。
一生かかってもわからない。
けれども、この鉛のように重くなった足が教えてくれた。
(僕は、母さんのことが好きだったんだ)
それは、家族愛を越えた愛であったと僕は認識した。
母さんは、幼少時代の僕の全てであり、女性としての、人間と言う存在の全てであった。
僕の足が動かないのは、体がここを離れないようにしているからだ。
それは、“僕が母さんを好きでいた平和な時代”から抜け出せないようにしている。
ここから一歩踏み出すと、もう現実という長い廊下しか目の前にないのだ。
もしここに居続けたのなら、僕は幸せなあの幼少時代の記憶と母さんとの愛とともに記憶の中に留まり、一生幼くして死んでいける。
(でも、違うんだ、母さん)
母さんはもういない。
僕の目の前からではなく、きっとこの世から。
もし生きていたとしても、それは僕が知る母さんではない、
全く別人の誰かだ。
つまり、“僕が愛した母さん”は、もう死んだんだ。
僕をこの白の施設に残して旅立った。
(それを知るのに、10年以上もかかったよ)
長い長い恋の果ての、短い失恋だった。
初めて抱いた恋心なのに、初めての失恋ではなかった。
けれども、やっぱり僕が好きになるひとは、僕をおいてどこかへいってしまうのだ。
恐らく、有美ちゃんも。
現に一度、誘拐犯の手に渡り、どこかへ行ってしまった。
そして、いまこの瞬間も目の前にはいない。
声をかけて、僕の声が届く範囲にはいない。
僕が本当の兄ではないのにも関わらず、お兄ちゃんと呼んでくれる可南子もいない。
平和なあの我が家から、連れ去られてしまった。
どうして僕ばかり、と一瞬思ったが、それは違うと自分自身を否定した。
これは僕が選んだ道なんだ。
自ら不幸になるために生きているわけではないが、いまの僕があるのは数々の選択を積み重ねてきた結果なのだ。
僕は自分でここに来て、自分の足で歩いてきたのだ。
母さんのことも。
あのとき、この施設にはじめてきたとき。
夜のまどろみのなかで、車のバックライトに照らされた母さんをながめていたとき。
僕はそのまま眠りにつかずに、車を飛び出して母さんにしがみついていたら、いまの未来は変わっていたかもしれない。
母さんが考えを変えて、やっぱり僕と二人で生きていこうと考え直してくれたかもしれない。
恨むなら母さんでも、自分の運命でもない。
(自分の選択だ)
そう思うと、すっと鉛のような足の重さが抜けていく感覚がした。
そして、僕は認識した。
19年の人生は、悲壮感を背負っていくためのものではない。
あの輝かしい幼少時代の四畳半の中にあった幸せを反芻しながら生きるものではない。
僕は、僕の人生を生きる。




