目覚め
僕がどのくらい長く意識を無くしていたかは分からない。
僕が意識をなくしていたときに、見ていた映像があった。
それは、僕と母さんの五歳までの記憶だった。
もし僕がここで死ぬとすれば、走馬灯なのだろう。
記憶は三歳頃から始まっていた。
ボロボロのアパートの一室で母さんを待っていた。
見渡す限り壁のような狭い部屋だった。
すぐ目の前には流し台があって、その脇に茶色の薄い木でできたドアがあった。
僕の手にはクレヨンや色鉛筆が握られ、色とりどりに絵を描いていた。
周りにはおもちゃが散らばり、色褪せたカレンダーが僕の手によって粉々にちぎれていた。
母さんはいつも息を切らして帰ってきた。
何かに追われているのように、ドアを閉めるときには、いつも慎重だった気がする。
そしてドアを閉めると同時に僕に抱え、しばらく抱き締めた。
そして、「よかった、今日も生きれた」と小さく言うのであった。
その当時の僕にはその意味がなにか分からなかったし、いま20歳を迎える年になろうとしても分からないままだった。
その記憶は一旦そこで終わり、次は僕が四歳の誕生日のことだ。
母さんがケーキを買ってきてくれたのだ。
ショートケーキのイチゴが楽しそうにこちらを見ていた。
ロウソクが五本立ち、爛々と光を放っていた。
一息で僕が吹き消すと、また母さんは「よかった、今日も生きれた」と言って僕をハグした。
そしてこう言った。
「お誕生日おめでとう。あなたはヨージよ。ヨージ。あなたの名前はヨージ。わたしからのプレゼント。あなたは今日からヨージ。いいわね。覚えてね、そして生きてね」
その日から僕はヨージになった。
母さんからもらった最初で最後のプレゼントだった。
その記憶も砂時計のように流れて終わった。
すると次には、いちばん思い出したくない記憶が流れてきた。
その日は朝から母さんがいた。
いつもは、僕を起こしてからすぐに家を出る母さんが、その日は朝いたのだ。
いつもと様子が違うのは一瞬で分かったが、さらには母さんが泣いているので今日はいつもと何かが違うことは確実だった。
ゆるくかけた母さんのパーマは、その日だけは弱々しさを強調しているようだった。
そして泣き張らした目を僕に向け、鼻声で「おでかけしようか、ヨージ」と言った。
僕は母さんと外に二人で出るのが初めてだったので本当にワクワクしていた。
どこに連れていってくれるのだろうか?
母さんと二人で、もっと楽しいことができると止まらない期待に胸を踊らせていた。
僕は普段外には一歩もでない。
母さんから、外にはヨージを傷つけるものがたくさんあるから絶対的に出てはダメと約束していたのだ。
初めて見る家以外の景色は刺激的だった。
けれども、母さんと二人というその事実だけで僕は天にも昇る気持ちだった。
今日は母さんを独り占めできると思っていたのだ。
車でしばらく走った。
人気が少ないスーパーに行って、アイスを買ってもらった。
郊外の公園の遊具でたっぷり遊んだ。
川や森、目に写るすべてが新鮮だった。
世界はこんなにも楽しさで満ち溢れているのだと知ったときの衝撃は大きい。
これからずっとこの楽しい世界で母さんと二人で過ごしていけるのだと思った。
母さんも一緒に遊んでくれた。
ずっと手を繋いでいてくれた。
時折携帯電話に着信が入っていたようで、一瞬携帯電話に目を写すが無視をしていた。
「大丈夫だよ、ヨージ。今日はずっと一緒だから」
母さんは太陽のように笑い、携帯電話を鞄の奥に押し込んだ。
その日はずっと遊んでいた。
もう何をして遊んだのかも忘れてしまうくらい遊んだ。
そして遊び疲れた僕はうとうとと車の中で寝たのだ。
気持ちよい寝入りだった。
次に目覚めたときは、外はもうすっかり真っ暗だった。
白い建物の前に母さんが立っているのを僕は助手席の窓越しに見た。
母さんは白いワンピースをよく着ていて、その白は暗闇によく映えていた。
暗闇に目が慣れると、母さんが誰かと話をしているようだった。
相手も白いワンピースのようなものを着ていた。
いつから話をしていたのかは、寝ている僕には分からなかった。
そして僕は母さんの姿を見て安心してまた眠りに落ちた。
その次の記憶からは、もういまに至る一直線のラインのようなものだ。
つまり、途切れることがなく覚えているということだ。
助手席で寝落ちした後に見た景色は真っ白だった。
真っ白の壁、真っ白の床、真っ白の服、真っ白な子供たち。
全部が全部、気持ち悪いくらいに清潔感しかなかった。
子供の年齢はみな幼かった。
0歳の赤ん坊もいれば、僕と同い年の子もいる。
そして定期的に人が入れ替わるようだった。
昨日までいる子が、明日にはいない。
気がつくと新しい子がいる、その子もいつかいなくなった。
僕はそこで誰とも仲良くならなかった。
みんなは積み木をしたり、施設の中の遊具で遊んだり楽しんでいた。
積み木も遊具も全部真っ白で、ごはんも真っ白だったから、このままここに居続けると、自分自身も真っ白になってしまうような気がして怖かったのもある。
しかし本当の理由は別にある。
僕はただにひたらすらに時計を見ていた。
真っ白な時計。
時計の針が毎日3時を指す頃に、外からひとがくるのだ。
僕は毎日朝から晩まで時計を見つめ、次の1秒後に母さんが来てくれると信じていた。
しかし毎日訪れる大人は僕が知らない人ばかりだった。
先生と言われる大人たちとも口を利かなかった。
先生たちはいつも目をギラギラさせ、変な薬の臭いがした。
それに先生は僕に「お母さんはしばらく忙しくて来られないから、ここでゆっくり遊んでね」なんてことを言うからさらに嫌いになった。
母さんがそんなことするわけない。
そう思いながら、僕はその施設で6歳の誕生日を迎えようとしていた。
母さんを待って、時計を見続けて一年が経とうとしていた。
母さんはまだ忙しいのか来ない。
そしていつものように真っ白な時計の前に座り、秒針を追いかけた。
そしてその日はいつもと違った。
時計が3時を告げる6分前だった。
先生が僕に声をかけた。
「ヨージくん、ちょっとこっちにおいで」
男か女か分からない背がひょろりとしたその先生は遊び場のドアから僕を手招きした。
きた!と感じた。
やっぱり母さんは来てくれたんだ。
去年誕生日を祝ってくれたから、今年も祝うために迎えに来てくれたに違いない。
頑張って待った甲斐があった。
足が軽い。
心が弾む。
ドキドキする。
不思議と母さんの匂いがする。
このドアを抜けると、前のように太陽のように笑う母さんがいる。
きっと髪が伸びているはすだ。
ワンピースも白いお気に入りを着ているはずだ。
母さん、母さん、母さん!
勢いよくドアの向こうに飛び出す。
そして何かとぶつかって、僕はどすんとしりもちをついた。
見上げると足が見えた。
大人の足だ。
紺のジーンズが目に入った。
違う、これは母さんじゃない。
すぐ隣を見る。
華奢な足首が見えた。
その足首の上には膝丈の白い裾が揺れていた。
母さんだ!
いつものワンピースよりは丈が短い。
きっと母さんも身長が伸びたんだ。
僕と一緒だ。
母さんに新しいワンピースを買ってあげたい。
がばっとその白い裾を揺らす両足にしがみついた。
母さん!
「あら、元気な男の子ね」
聞いたことがない声だった。
そしてその白い布からは母さんの太陽みたいな匂いはしなかった。
上を見上げるのが怖かった。
だが、確かめなければいけなかった。
「…!」
見上げた先に見えた顔は、全く知らない顔だった。
僕は絶望と悲しさでその場を逃げ出すことも動くことさえもできなかった。
辛うじて白い布からは腕を離すことができた。
上からまた言葉が降ってくる。
「この子がヒルマヨージくんです」
「ヨージか、良い名前だ」
ジーンズの男が何か言っていた。
当たり前だ、だって母さんが僕にくれた名前だもの。
「いつからになるんだ?」
ジーンズの男が続けた。
「お二人にお任せします。中にはトライアルで何週間か滞在される子もいますし、そのままずっといる子もいます」
「そうか、じゃあすぐ手続きを頼む。今日からだ」
「よろしいんですか?この子はかなり言葉に遅れがありますので、大変かと思いますが」
「言葉はあとからついてくる。急いで頼む」
大人たちが会話をしているが全く意味が分からなかった。
それより早く時計のところに戻らないと。
母さんが来てしまうかもしれない。
戻ろうとしたときに、白いスカートの女が話しかける。
「ヨージくん、わたしはママの知り合いなの。ヨージくんのお母さんがねちょっと忙しいらしくてしばらくうちで一緒に暮らすことになったの。よろしくね」
そのあとのことはもうよく覚えていない。
色がたくさんついた家にジーンズの男と母さんと知り合いらしい白いスカートの女と一緒に車に乗って行った。
施設を出るときに、部屋を覗き見する近所の子供がいた。
草影に隠れながら部屋の中を見ていた。
やっぱりこの施設はおかしい。
ここより、母さんの知り合いのひとと母さんを待つ方がいい。
そう思って、施設を後にした。
そしてその日から13年間、母さんは一度も来なかった。
そしてジーンズの男と白いスカートの女は、いまの僕の家の父さんと母さんになった。
目が覚めると身体中びっしょり汗をかいていた。
汗を大量にかいていたのに、体はがくがくと寒さを感じていた。
そして生まれたての赤ん坊のように、大きく息を吸って、声にならない呼吸を吐いた。
少しずつからだの至るところこ神経と感覚が目を覚ましていた。
目に光を感じる。
眩しいが、少しずつ開けてみる。
もうここはあの世かもしれない。
少しずつ見えた世界には、二つの影か僕を覗きこんでいた。
その影がなにか認識する前に音が降ってきた。
「ヨージ!」
「ヨージくん!」
男と女の声だった。
ゆっくりと光に慣れた目を開ける。
眩しい世界だった。
「…あ…ぼく…」
息が漏れるような言葉だった。
「あぁ!よかった!本当によかった!」
女が安堵する声が聞こえる。
「まったく、お騒がせな奴だな」
男が安心する声がする。
「あ、僕、どうなって…」
ようやく半分以上の意識が戻る。
「ヨージくん、よかった。本当に。人が変わったみたいにうろたえて、駅前で意識を失ったのよ。そのときちょうど荒木さんが来てくれて家まで運んだの。ねぇ、どこも痛くない?大丈夫?」
聞き覚えがある声だった。
そうだ、これは僕がいま好きな人の声だ。
「ゆみ、ちゃん…ありがとう」
声がする方へ向く。
真っ白なワンピースを着た有美ちゃんが目に涙を貯めて、僕に微笑んだ。




