記憶
街頭の光がちょうど当たらない場所に彼女は立っていた。
暗闇の中に光る白いワンピースが妙に揺れているように見えた。
声が聞こえる距離にいる彼女は、僕が最後に見た彼女にそっくりだった。
膝下までの軽やかな素材でできた白のワンピース。
そこまで高くないヒールの白いミュール。
肩まで緩やかに垂れる栗色の髪。
優しくパーマをかけたその髪先は、優雅に風に流れていた。
「…母さん?」
再び僕はその呼び名を口に出した。
だが、瞬間その違和感に気がついた。
おかしい。
母さんが僕を捨てたのは僕が小学校低学年の頃だ。
少なくても10年は経っている。
ひとはどんなにがんばっても老いには逆らえない。
母さんもきっとそうだ。
つまり、10年以上もの前の姿でそこにいること事態がおかしいんだ。
「ヨージ?」
アイリの声がした。
その電子音には程遠い、本当に人らしいアイリの声がちょうど耳に届いたときだった。
「どうしたの?」
母さんがまた僕に話しかける。
これはなんだ?
荒木さんが何かやったのか?
そんなまさか。
じゃあなんで母さんが?
目の前の光景は嘘だとわかっていても、その嘘がずっと続いてほしいと願う自分がいることに気がついた。
なぜ僕を捨てたのか?
いまどこにいて、何をしているのか?
どうして僕の前に現れたのか?
いろんな疑問が浮かんでは消える。
ひとつの確固たる記憶には及ばないからだ。
僕の唯一の肉親である母さん。
その姿をずっと眺めていたい。
このまま、また二人で暮らしたい。
母さんと作ることができなかった思い出を思った。
だが、それはもう絶対的に叶わないのだ。
あの日、そう言いつけられたのだから。
母さん自身がそれを選択したのだ。
僕の愛情を拒否するということを。
「もう、やめにしよう。もうあなたのことを考えるのはやめたんだ。考えたって何もない、ただ悲しくなることを僕は知ったんだ。あなたがいない幸せを見つけることにしたんだ。六歳のあの日に。母さんのことを思うと、まだ少し切なさがあるのは事実だよ。でも僕はいまは違う世界で生きてるんだ。だから、もうやめにしよう」
息もつかずに、一気に言い放った。
街頭の下で薄明かりに照らされる母さんは無言だった。
言葉を言ってすぐは母さんのことが見れなかった。
何秒か経った後に母さんの方を見やった。
泣いていた。
そう認識した直後、グニャリと母さんの顔は変形し、顔が青ざめ、頬は垂れ、目は血走り、見たこともない化け物と化した。
その母さんの姿をしていたものはひたひたと歩を進め、僕に近づいてきた。
「なんだよ、もうなんだっていうんだよ。自分から突き放して、自分勝手に近づいてくるなんて…」
まるで幽霊のようにゆらゆらと動くその姿はもはや人ではなかった。
「なんだよ、なんだよ…もう…」
急に息苦しくなってきた。
もうこの世界に空気という概念がすっかり無くなってしまったかのように、息ができなくなってきた。
もう僕も終わりだ、と悟った。
そう思ったのと同時に僕は意識を無くした。
継ぎ目が覚めるのは、あの世だろうか?
いや、あの世なんて本当は無くて、もうこれで目をつぶったらもう最後なのかもしれない。
それならば、最後にもう一度母さんの姿が見たい。
そう思ったが瞼は言うことを訊かなかった。
僕はゆっくりと深い海に落ちていくように、どろりとした空間へ意識を引きずり込まれていった。




