甘い香り
駅の周辺は夕方の人の混み具合と比べるとかなり閑散としていた。
夕方のひとの多さと活気が恋しくなるほど、まばらなひとの姿に不安を覚えるほどだった。
駅前は幸いにして電灯がたくさんあったので、少しは心細さが和らいだが、ぱらぱらと通りすぎる人がいつか全くいなくなり、自分一人だけが世界に取り残されるような感覚にもなるほどだった。
小さい町の駅前ということもあって、ぽつりぽつりとスナックやカラオケ、居酒屋の微かな灯りがひかるだけだった。
荒木さんの自宅、ドーナツショップの前に着いた。
有美ちゃんはまだ到着していないようだった。
ドーナツを求めてやってきた笑顔の客たちはもちろん店内には見つけられなかった。
最後に見た暖かみのあるオレンジ色の店内の電灯を思いだし、目の前にある銀の錆びた鉄のシャッターに閉ざされたドーナツショップはなんとも言えない侘しさを醸し出していた。
人が恋しい、早く開店をしてほしいというドーナツショップの聞こえるはずのない声が聞こえるようだった。
有美ちゃんをしばらく待ってみて来なかったら連絡を入れて荒木さんちにお邪魔をしよう。
恐らくこのドーナツショップに沿ってぐるりと歩くと家があるはずだ。
回りに誰もいないことを確認して、僕は声を出した。
「そういえば、居場所ってどこなんだ?」
「この市内よ。ここからでも遠くない。少し市街地からは離れるけど、車で10分くらいかしら。いまは使われていない建物がヒットしたわ。昔は養護施設で使われていたという履歴はあるわ」
「まさか」
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ。いや、なんでもあるよ」
「なにか、あるのね」
アイリが悟るように声を潜めた。
その優しさが嬉しいような痛みを感じさせるような複雑な感じがした。
「隠してもしょうがないな。アイリが知っている通り、僕は養子だ。その僕がいまの家に引き取られる前にいたのが、その施設のような気がしたんだ」
白い建物。不自然なくらいに清潔な場所。みな、親がいない子供たちばかり。みんな一緒のスケジュールでごはんを食べ、遊び、歯を磨き、寝る。
僕には親がいた。
だが、そこに入れられた。
僕はずっと待っていた。
ずっとずっと時計を見ながら、一分後にあのひとが来てくれるように願いながら待っていた。
ごめんねとまた優しいあの香りで包みながら迎えに来てくれると想像をしていた。
でも、結局あのひとは来なかったんだ。
僕を捨てて、どこかに行ってしまったんだ。
子供ながらに自分勝手な人だと思った。
自分で生んだ子供を養護施設に預けてどこかに行ってしまうんだなんて。
もともと生まれたときに父さんはいなかったから、きっと新しい男のところにでも行ったんだろうといまでは思う。
だが、思ったところであのひとが帰ってくる訳でもないし、昔のように仲良くなんてできるわけもないし、それにいま僕には違う人生のレールが敷かれている。
わざわざそのレールを外れることもない。
いまあの人が生きていても、なにも思わないことに決めたんだ。
あんなに幸せだった日々はもう遠い記憶の向こうだ。
唯一あの人に感謝することは、幸せという感情を教えてくれたことだと思う。
あのひとを待つしばらくの間、僕はその幸せな記憶を噛み締めることで寂しさを紛らわせていた。
あの感情と記憶がなければ、僕は壊れていたと思う。
そして大きくなってこうして人を好きになったり、誰かを思って行動を起こすことなんてなかったと思う。
それだけだ。
「ヨージ?」
「…あ、ああ、どうした?」
「どうした?って、ヨージこそどうしたのよ。いきなり黙り混んで」
そうか、僕は過去の記憶を思い出して、フリーズをしていたのか。
「ちょっと昔を思い出してたんだ。あまり、思い出したくないことだったけど、大丈夫だよ」
「そう…ごめんね」
「なんでアイリが謝るんだよ」
「だって、思い出したくないことを思い出させてしまったから」
「アイリは全然悪くないから大丈夫だよ。あの場所は僕にとってまだ大切な場所みたいってことだね。これは神様が与えた試練だ」
そして、罰だ。
同時に思った。
罰を受け、そして償うんだ。
そこにいるか分からない大切なひと、大切なひとの大切なひとを救うんだ。
再び意思を固めたとき、
「おまたせ」
と息を切らした女のひとの声が聞こえた。
声がする方に顔を向けると、そこには…
栗色のゆるくパーマをかけた色白の女性が立っていた。
すらりとした小柄な立ち姿。
甘い香りをなびかせながら、にこりと笑った。
「母さん?」
僕は自分の目を疑った。




