任務開始
荒木さんがMARIA解体を宣言してから早くも一時間が経った。
大学の近くのカフェを出たのが16時頃だったから、そこから計算すると一時間半も経ったということになる。
あの宣言から僕は荒木さんから何か特別な指示を受けるわけでもなく、荒木さんが画面に向かってぱたぱたとキーボードを打つ姿を後ろから眺めているだけだった。
時折携帯電話をズボンのポケットから取り出しては、時間を確認して、時には一分の経過や数字が変わっていないことに疑問も抱くことなく、流れ作業のように過ごしていた。
地下であるのに暖かいこのハッキングルームはよく見ると最低限の水や食料と言った非常時の備えもあり、さらによく見ると整頓が綺麗すぎて分からなかったが簡易布団が棚に綺麗に収納されていた。
ここで寝泊まりをして、ひとりで世界と戦っていたのだろうか。
そう思うと荒木さんが不憫でならなくなった。
小学校に上がる前に出会った初恋の相手にずっと縛られながら約20年以上その思いだけで生きてきたのだろう。
青春もいくらかは重ねてきただろうが、いまはほぼ一日の大半を犯人調査に費やし時間を過ごしている。
彼の人生までを変えてしまった有美ちゃんの母が存在するMARIAとは何なのだろう?
そして果たしてアイリが加わることで調査は明るみに出るのだろうか?
荒木さんが何年もかけて戦ってきたその強力的すぎる組織にアイリが対抗できるのだろうか?
自称スーパーAIのアイリは多少のハッキングはやってきたが、あくまでもアイリが製造されたのは人間と等しく会話ができる情緒的な側面が大きいはずだ。
それを考えるといくら荒木さんが突破できなかったモニターのセキュリティを壊せたとしても、MARIAの解体とはイコールにはならないはずだ。
アイリにしかできないこと、アイリだからこそできること、それがあれば活路は見いだせるが、それが分かるものはいない。
そして、いまこうして僕が地下の小部屋で時間ばかり確認しているときに可南子や有美ちゃんのお姉ちゃんは誘拐されている。
いちばん不憫なのは僕なのかなと思った。
考えも至らず、行動もできず、ただ目の前にあるものだけしか見えなくて、すべて流れていってしまう。
(これじゃあ、前と同じじゃないか。なんにも成長してないんだな、僕は。大きくなったのは体だけだ。なんて情けないんだ)
脳裏に浮かぶ優しい女性の笑顔。
暖かいその印象は、次の瞬間僕を心から癒し、その次の瞬間僕を奈落の底に突き落とす。
(なんでだよ…母さん…なんで僕を捨てたんだよ)
母さんが僕を捨てなかったら、僕はいまの家庭に引き取られることはなかったし、そしたら巡りめぐって可南子も今回の誘拐事件の被害に遭わなかったかもしれない。
有美ちゃんのお姉ちゃんも、そうかもしれない。
(くそっ…)
「考えるのはやめよう。そして自分を責めるのもやめよう」
僕が自分に責を投じたのと同時だった。
はっとして、顔を荒木さんに向けた。
荒木さんは変わらずモニターに向き合っていたが、声は不思議とはっきりと聞こえた。
「え、なんでわかったんですか?」
「なんでって、俺もそうだったからだよ」
「そうって…」
「俺もそんな風に部屋のすみっこに塞がって自分を責めていた時期があった。俺と会わなかったら、あのこはもしかしたら助かったのかもしれないとかね、そんなことをいっぱいさ」
「…」
言葉がでなかった。
「でも考えても彼女は戻ってこない。だから、考えるのをやめたんだ。考えるのをやめた代わりに、行動することにしたのさ。いくら考えてもそれは俺の想像中の世界でしか物事は動かない。でも、講堂をしたら、それは俺の中ノ瀬か井野話じゃない。外の世界も巻き込む話になる。そしたら、彼女はが万が一でも戻ってきてくるんじゃないなかってさ」
荒木さんの言葉に何も返せなかった。
「僕は子供ですね。自分のなかだけで生きていました」
「子供で結構。子供に道しるべを示すのが大人の役目だよ」
安直だけど、このとき荒木さんは、今回の一連の事件の犯人ではいと感じた。
感じたというか、そうであってほしいと願った。
いくら演技とは言えども、あんなに綺麗にさらさらとこぼれ落ちる涙の流れを見たことはなかった。
荒木さんがずっと僕の方に振り向かなかったのは、その涙を僕に見せないためだなんてそんな格好いい大人はいままでいなかった。
重厚な椅子の隙間越しに、きらりきらりとモニターの青い画面に照らされる滴がなんとも言えずきれいだった。
なんだかお互いにほっこりとした気持ちになった。
真っ暗のなかで煌々と光るパソコン画面しか目に写らないこの地下の空間で僕らはじんわりとお互いの傷を癒しているような感覚だった。
だが、その安らぎはすぐに現実によって掻き消される。
「‥おいおい、嘘だろ」
若干鼻声になった荒木さんが画面に釘付けになっていた。
暗いところから急に明るい画面の方を見たので、僕は画面に何が写っているのか全くわからず、しばらく目が慣れるまで白いぼんやりとした光をじっと眺めていた。
「ヨージ君のいっていたことは本当かもね。俺はこれからドッペルゲンガーに会いに行くのか」
何を言っているのか全く理解できなかったが、目が光に慣れて、画面に何が写し出されているのかが分かると、ぞっとした。
「‥え?‥これって‥?」
画面に写っていたのは、監視カメラのような少し荒い映像だった。
よく見ると玄関のような作りのドアが見え、石畳が見える。
玄関のドアの斜め前からのようなアングルのその真ん中に立っていたのはひとりの人だった。
すらりとした身長の男性、やせ形の体格で、髪は無造作に伸ばされけさきはいろいろな方向を向いている。
そして何よりも特徴と言えば‥
「この白衣着てる男性って‥」
「どう見ても俺だよな」
そう。どう見ても荒木さんにしか見えない。
自分の目が怪しくなって、すぐ脇にいる荒木さんを二度見した。
「…全く一緒ですね」
「そうだよな、俺も不思議だ。でも、これがおまえの妹を拐った奴だとしたら‥?」
「いくしかないですね」
「だな」
お互い言ったと同時に部屋の出口に顔と体を向けた。
緊張感で体がぴりぴりする。
変な高揚感がある。
顔が熱い。
背中に汗をかいている。
「任務開始だ」
荒木さんは低い声でそう僕に言った。




