動き続ける歯車
弾けた水風船のように、目から大粒の涙を流し続ける彼女に、僕もタケシも何もできずにいた。
幸いにして、僕らの周りが昼食真っ只中の雑音のど真ん中にいたお陰で、彼女が泣いている声や僕とタケシがたじたじしているところは、全くもって周りに影響がなかった。
それは泣きじゃくる彼女にとっても、ふがいない僕らにとっても好都合だった。
けれども、いずれ時間がたてば数人ずつでも僕らのこの不思議な違和感に気付き始める。
彼女は確実にこの大学のマドンナ的な存在であるし、あの事件のおかげもあって、いま知名度はかなりのものだ。
そんな中で、彼女が大学にいるということは、飛んだ火に入る夏の虫である。
僕はなんとかこの場から彼女をどこか安全な場所に連れ去る必要があると強く感じた。
そこはどこだ?
少なくともこの学食の辺りではない。
だとすると…
「有美ちゃん、少し歩ける?この場所だと騒々しすぎるから、移動したいんだ」
有美ちゃんは、泣き晴らした目元を両手で塞ぎながら、こくりと大きく頷いた。
同時にタケシに目配せをして、
「あの場所なら少し遠いけど、静に離せる」と僕が言うとタケシも場所に検討がついたようで、「よし」と小さく相づちを打った。
気が利くタケシは、自分の荷物と一緒に僕の荷物を持って移動してくれた。
有美ちゃんは手ぶらのようだった。
僕は小刻みに震える彼女の両肩を不器用に抱えながら目的の場所へと誘導した。
周りは昼の賑わいでさらに活気を増している。
タケシは僕らの食べかけの定食を配膳コーナーに持っていってくれた。
僕と有美ちゃんは先に歩き出した。
外に出ると、気持ちのいいくいらい空気が透き通った青空だった。
こんな天気がいい日に、可南子も有美ちゃんのお姉ちゃんもどうしているのだろう。
犯人はきっと、青空が嫌いな奴だ。
そんな呑気なことを考えながら、僕らは目的地である、野球場の裏の木の影が優しく揺れるベンチに向かった。
学食の混乱しすぎた混雑具合とは全く異なり、僕らが目指していた場所は予想通り、期待通り、誰一人としてひとはおらず、しんと静まり返っていた。
まるで待っていたよと言うかのようなありがたい静けさだった。
僕は日陰をあびる寂れたベンチの上に彼女を座らせ、僕とタケシは地面にしゃがんだ。
地面はむき出しの土の上だったが、連日の快晴のお陰で、湿ってもおらず、汚れそうでもない固さだったので、迷いなく地面に腰を降ろした。
見上げると彼女はもう泣き止んでいたが、目元は桜よりも赤い色を帯びていた。
不謹慎だけれども、すごくきれいだと思った。
僕は女性の肩を抱きながら歩いたことなんて、もちろん人生ではじめてだったので、学食を出てから、ここに来るまで頭が真っ白で何も覚えていない不甲斐なさだった。
ただ、感触として、僕の手の甲に触れる彼女の柔らかい髪の毛の動きや、思ったよりも華奢な肩の細さだったり、なんとなく残っている女の子特有のシャンプーかリンスみたいな華やかな匂いはいまこうして彼女から距離を置いている今でも鮮明に思い出せる。
「ごめんね、急に、こんな」
開化一番は彼女だった。
彼女の言葉の繋ぎ方は、泣き晴らした後に必死で泣いたのを隠そうとしているようなものだった。
(守りたい)
その強がる姿が余計に僕の母性本能をかきたたせた。
「大丈夫だよ、僕らがついているから」
その言葉を聞くと、なにか堰が外れたかのように、彼女の瞳からみまた大粒の涙がどんどんと押し出されてきた。
「え、ごめん、泣かせたかった訳じゃないんだ」
僕は地面から勢いよく立ち上がり、彼女に駆け寄った。
「ううん、嬉しくて、ほんとにありがとう。誰に相談したらいいか分からなくて。父さんに連絡したんだけど、いまだに繋がってなくてね。そしたら急に不安になっちゃって、いてもたってもいれなくなったの」
「お姉さんが帰ってこないんだっけ?それってなにか仕事か何かではなくて?」
「うん…わたしの一件もあるから、ここ最近は仕事を調整してもらって、毎日早く帰らせてもらってたの。遅くても15時頃には家にいて、入院中はずっとそばにいてくれたの。」
「いなくなったのって、きっと確信があるからだと思うんだけど」
タケシが言った。
「みんなも知ってるかもしれないけれど、わたしは先週の土日入院してね…一回抜け出しちゃったけど、やっぱり体には何の異常もなくって、今日の午前に退院していいよって先生が言ってくれたのね。それで、お父さんがひとりだとダメだからってお姉ちゃんが退院の付き添いになってくれたの」
彼女の話は続く。
「それで、朝イチの9時の診察で問題がなかったらばっちりだねってなってね、その診断にもお姉ちゃんが付き添ってくれるって言ってくれたの。でもね、お姉ちゃんは約束の9時に病院に居なかった。さらに、午前中一回もわたしに連絡を寄越さなかった」
彼女の顔が急に険しくなった。
「私とお姉ちゃんはね、年が離れてるせいもあって、姉妹って言うよりも友達みたいなそんな距離感なの。毎日連絡を取り合って、ふたりで買い物にいったり、遠出したりね。そんなお姉ちゃんが急に連絡が繋がらなくなるなんて不自然としか考えられない。それにね」
彼女が僕の目をじっと見た。
「万が一もあるじゃない、きっと。携帯電話の充電が無かったり、考えたくないけれども、事故だったりね。それでお父さんに朝からずっと電話をしてるのに一向に繋がらないの。お父さんの職場にかけようとしたんだけど、わたし職場の連絡先が分からなくて。それで、お姉ちゃんの友達に電話をしたの。あんまりかけたことがなかったけど、緊急だし、そんなこと考えていられなかった。そしたら、無事に繋がってね、お姉ちゃんの友達、何て言ったと思う?」
彼女の声が、弱くなる。
「“実は駅でばったり会って、有美ちゃんの病院の前まで一緒たったよ”って」
彼女がその言葉を言い終わるのと同時くらいに、再び泣き出した。
今度はいままででいちばん激しい泣き方だった。
その次の瞬間、僕は彼女を抱き締めていた。
その動作に僕自身がいちばんびっくりした。
彼女を抱き締めていると認識した直後、僕はすぐに背中に回している自分の両腕を離し、もとの位置にすぐ戻った。
これにはタケシも、もちろん当の本人も驚きを隠せず、あんぐりとその場の時間が止まった。
僕は自分で何をしていたのか、全く理解が追い付かず、何も言えずに彼女に背を向けたまま、たまたま目に入った野球場を視界に入れているだけだった。
長い時間に感じられた。
タケシはきっとにやにやしてるだろうし、僕が何かを言うのを待っているようだった。
僕はまず謝らないとと思い、弁解の言葉を必死に探していた。
彼女の顔は、背中越しからはわからないが、きっと困惑し、困っていることだろう。
自分が藁をもすがる思いで、助けを求めた人に、急に抱きつかれるなんて、正しい人がすることではない。
なんて謝ろう、謝ろうと考えているこの瞬間にも、彼女の不安は募るし、時間は過ぎる。
とにかく、まとまっていなくても、気持ちだ、誠意を見せるんだと、彼女に振り返った。
そこには不思議な光景が広がっていた。
振り返った僕の目の前には、僕と同じように振り返っている彼女がいた。
僕はもう嫌われたなとがっくりと肩を下ろしかけたが、彼女の視線に何かあるのに気がついた。
ひとりの男だった。
ひょろりとやせ形で足がゴボウのように細い男だ。
さらに髪はぼさぼさで、毛先はいろいろな方向を向いている。
歩き方は、いかにもスポーツをやってこなかったかのような、そろりそろりとした足取りだった。
「やぁ、お取り込み中のところ失礼したね」
やや高めの声で、その男言った。
「いやぁ、別に聞きたくて聞いた訳じゃないよ。たまたま僕がここを通りかかったら、君が話していたんだよ。いま、大変なんだね」
男はひょうひょうとそう言った。
「なにしにきたのよ」
「なにって、散歩だよ」
「そんなわけないわ。あなたがわたしのお姉ちゃんを連れ去ってるって分かってるんだからね。はやくお姉ちゃんを返しなさいよ」
「いやーそれは全くの濡れ衣だよ、吉川の妹よ」
「やめて、本当に返して。あなたの望みはなんなの?もう嫌がらせしないで。わたしの家に近寄らないで」
有美ちゃんの声には怒りが混じっていた。
「僕は君たちに危害なんて加えてないよ。協力してほしいんだよね」
「そんなことひとつもないわ。早くわたしの前からいなくなって」
「それはできないね、僕にも目的がある」
「もう…いい加減にしてよ…」
有美ちゃんが不安定になっていくのが分かる。
ベンチの背もたれにもたれるようにして、肩を震わせていた。
「おまえは、なんなんだよ?」
それまで黙っていたタケシが口を切った。
「俺かい?人に名前を聞くときには、まず自分から名乗るんだよ」
男は余裕に言った。
「まぁ、いい。僕の名前はアレキだよ。よろしくね」
(…アレキ?どこかで聞いたことがある)
そう耳に言葉が入った瞬間、僕は理解した。
「あなたが…アレキ…?」
「そうだよ、僕はアレキ。君は僕のことを知ってるの?」
目の前には、この事件の重要人物と言えるあのアレキが、にやにやしながら、ぼくらの前に立っていた。




