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その姿が見えなくなるまで。ずっと

朝七時の風が学食のなかを柔らかくゆっくりと通り抜けていく。

12月の風とは思えない暖かい空気の流れが僕の頬を撫でる。

吉岡有美とおもしき人物を前に僕は立ち尽くしていた。

吉岡有美は、先週5日間謎の失踪をしていた。

いまは病院にいるはずで、大学にはいるはずはない。

これは夢か幻か?

僕の願いが具現化したというのか?

ーありえない。

「…ヨージくんだよね?」

目の前から僕の名前を呼ぶ声がする。

ぐるぐると浮かぶ思考を一旦振り払い、顔をあげると、そこには朝日を逆行に浴びる吉岡有美らしき姿が天使のように輝いている。

「あ、そ、そうだよ、吉岡、さんだよね?」

思わず口から出た言葉は名字だった。

「吉岡さんだなんて、よそよそしいなぁ。前みたいに有美って呼んでよ」

彼女はすらっとした背中を猫のように反らせて、にこりと笑いながら言った。

「あ、そうだったっけ」

いままでどこに行っていたのか?

病院で診療をしているんじゃないのか?

アレキとは何者なんだ?

そして、あなたは本当に吉岡有美なのか?

いろいろな疑問が脳を埋めつくし、なんて言ったら良いのか分からない。

「そんな、そこに立ってないで座ってよ。朝ごはん食べた?わたしはまだなんだけど、良かったら食べようよ」

彼女はそう言い、僕に彼女の向かい側の席を案内した。

そこは、約9か月前、吉岡有美と初めて会った日に一緒にごはんを食べたまさにその席だった。

「あ、うん、ありがとう」

僕はなにも言えないままで、彼女の目の前に座った。

いつも携帯の画面で見る彼女が立体になってそこに座っている。

画像の頃よりは髪が伸びてより女性らしさが増している気がする。

19歳とは思えない色気があると僕でも分かる。

こんな素敵な女性なら、彼氏のひとりや二人いてもおかしくはない。

彼女のこの誰にでも分け隔てない優しさがひとを魅了させているんだ。

「ヨージくん、久しぶりだね。なに食べたい?」

「あ、そうだな、朝定食Bにしようかな」

「前も朝定食Bだったよね。ヨージくん魚好きなんだね」

「うん、なんかいつもそんなかんじ」

ふふ、面白いと彼女は言って、「前はヨージくんがおごってくれたから、今度はわたしがごちそうするね」とすくっと席を立ち、レジへと向かった。

彼女は9か月前となんら変わらないふうに見える。

そして先程から沈黙がなく彼女がずっとリードしていてくれている。

男なのに不甲斐ないなと、彼女はやっぱりすごいなと感じた。

ーブブブ

ポケットの携帯電話が鳴った。

(朝からなんだ?タケシか?)

取り出してみると、アイリからだった。

アイリからのメッセージは、画面の上にAILIと出ていて、その下にメールマークが出ている。

メールマークをタップすると、

『吉岡有美に真実を確認して』と書かれていた。

アイリが気を遣ってボイスではなくメッセージにしてくれたのだろう。

『それは、まだできない』

メッセージを返信する。

『どうして?』

『このひとが本当に吉岡有美なのか分からない』

『どういうこと?』

『だって吉岡有美は、いま病院にいるはずだろう?』

『分かったわ、それなら病院のネットワークにアクセスしてみる。ちょっと待って』

ちょっと待ってってどういうことだ?

アイリはそんなこともできるのか?

「お待たせ」

後ろからキレイな声が聞こえてくる。

振り返ると、レストランの配給をするひとのように丁寧に両腕で朝定食Bを運ぶ吉岡有美がいた。

「重いのにごめん」

「大丈夫だよ、鍛えてるからね」

そう言った彼女の腕は、白く細く儚げだった。

彼女はグレーのタートルネックのワンピースの裾をひらひらと靡かせながら、席についた。

ししゃものような華奢な足が黒のタイツ越しに見える。

「あー、お腹すいた!さっ食べよう!」

子供のようにいただきますをして彼女は朝食を食べ始めた。

僕も本来朝食を食べに学食に来たので、そこそこおなかがすいていたのもあって、すぐに食べ始めた。

「いただきます」

さばの味噌煮に、ごはん、お味噌汁、たくあんに、サラダの定食は空腹の体にじんわりと染み込み、満足感を与えてくれた。

最後の味噌汁を飲み干すまで、僕らはひとことも口を聞かなかった。

気まずいとか、話すことがないのではなく、なんだからこの無口の空間が居心地がよかった。

最後に飲んだ味噌汁の出汁の余韻を味わいながら、彼女の定食の残り具合を確かめた。

彼女もかなりおなかが空いていたのか、男の僕と同じくらいの早さでもうごはんと鯖とお味噌汁が残り一口くらいだった。

「ごちそうさま」

僕が言うと、

「ごちそうさま」

と彼女も続いた。

ふたりで住んだらこんな感じなのかなと要らぬ妄想が始まりそうなところを必死に押さえ、そろそろ僕から話さないとと話題を探した。

こんなことなら、食べながら探しておけばよかった。

「元気だった?」

瞬時に考えて出た話題はありきたりなものだった。

「元気だったよ。ヨージくんは?」

「僕も、変わらずだよ」

「久しぶりだね、あの日以来だね」

「そうだね、あの日以来だ」

僕はたじたじしていて、それこそオウムのように言葉をそっくり返すことしかできなかった。

自分の不甲斐なさに再度気づかされ、もうこの場をどうしようかと思っていた。

ーブブブ

またポケットの携帯電話が鳴った。

きっとアイリだ。

けれども、いまのこの雰囲気で、携帯電話を触るなんて空気が読めないにも程がない。

すると、反対に彼女が携帯電話を目の前に取り出した。

「あー、もう見つかっちゃったか」

やれやれといった表情で、下をペロリと出した。

まるでいたずらっ子が仕掛けたいたずらが大人に見つかったような雰囲気だった。

「見つかったってどういうこと?」

「あ、そうね、わたしね病院から脱走してきたの」

「脱走?」

「そう、脱走」

そういうと先程までのおちゃらけた雰囲気とは異なり真剣な表情でそう言った。

「退院とかではなくて?」

「そう、脱走よ」

彼女は携帯電話をちらりと見てから手に持っていた携帯電話をテーブルに置いた。

「わたし、土日に入院してたの。ヨージくんも知ってるかもしれないけれど、先週5日間失踪してたみたいなのね。みたいなのねって言うと他人事みたいだけど、わたしにはその記憶がないんだ。」

何かが、ふっと切れたかのように、有美ちゃんは話を蛇口を捻った水のように止めどなく話始めた。

「わたしいつも通りに家に帰っただけなの。そしたら、お父さんとお姉ちゃんの雰囲気がおかしくて、聞いたらわたしが行方不明になってたの。何を聞かれても分からないの。」

「うん」

僕は止めどなく溢れる彼女の話に相づちを打つしかなかった。

「それで、警察に話をしたり、病院で精密検査を受けたり、、、もう世界が日常が昨日と全く違っていて、まるでわたしじゃなくて周りがまるごと変わったみたいなの。でも、きっと何かあったのはわたしの方なのよね」

ーブブブ

テーブルの上の彼女の携帯電話が振動した。

「あ、また電話だ。さすがに出ないとね」

少しその震える携帯電話を眺めて、携帯電話を彼女の膝の上に置いた。

どうやら、この着信にも出ないようだ。

「だからね、もう迷惑かけちゃおうと思って」

「迷惑かけるって?」

「お父さんにもお姉ちゃんにももう失踪したことで迷惑かけたから、病院を脱走するくらいなんてことはないと思うの。だって、朝起きたら今日はこんな気持ちいい日だったから、病院にいるのも勿体ないし、それにわたし体はなんともないんだもん」

おそらく土日で溜まった彼女のフラストレーションは相当なものだったんだろう。

そこでこの脱走という行動に走ったのだ。

「あ、また電話だ。ヨージくんごめんね、ちょっと電話出てもいい?」

「もちろん、僕は気にしないよ」

「ありがとう」

その言葉と同時に彼女は携帯電話を耳に当て、「もしもしお父さん?」と話始めた。

「ごめんね、うん、いま?学校だよ、うん。大丈夫、心配しないで。ちょっと外の空気を吸いたかっただけなの。うん、今日は学校休むよ。うん、うん、うん。分かった、病院戻るよ、大丈夫だって、迎えは要らないよ、お父さん忙しいんでしょ。うん、わかったよ。ごめんね、ありがとう」

会話にしては一分ほどのものだった。

最後の「ごめんね、ありがとう」に彼女の思いが全て詰め込まれてるようだった。

「ヨージくん、ごめんね、行かないといけなくなっちゃった。また話そう。学校は明後日くらいから来るから。今日会えてほんとに良かった。たまには脱走してみるものだね」

また、へへへと言って彼女はぺろりと食べた定食のお盆と、僕のお盆をふたつ持ち上げ、配膳コーナーに向かった。

僕と彼女の鞄が取り残された。

僕はこの隙にアイリからのメッセージを確認しようとした。

時間は7時半を過ぎていた。

アイリのメッセージを開ける。

『吉岡有美は今朝6時25分市内の施設を抜け出した。施設の監視カメラの映像でも確認済み。』

話が繋がった。

あとでアイリと話をしよう。

「ヨージくん」

声がする方に顔をあげると、有美ちゃんがテーブルの脇に立っていた。

「一緒にごはん食べてくれてありがとうね。じゃあまたね。また話そうね」

そう言うと彼女は右手を差し出した。

反射的に僕も右手を出した。

彼女と握手をした。

女の子の手はこんなにも柔らかくて儚いものなんだと思わされた。

そう思ったのと同時に、あの3月のふたりが初めて出会った火のことが思い出された。

あのからだ全身に電気が走る初めての体験。

忘れることはできない。

僕が恋に落ちたあの瞬間。

シチュエーションこそ違えども、僕らはあの日にタイムスリップしたような感覚になった。

「ヨージくんの手は厚くて温かくて、変わってないね。」

ぎゅっと、彼女が右手に力を入れた。

「なんかヨージくんだといっぱい話しちゃうな。ありがとう!なまたね!」

彼女は最後は元気にそう言って、僕の右手からするりと力を抜いて風のように吹き抜けていった。

リズミカルに歩く彼女の後ろ姿と、左右に揺れる彼女の長い黒髪が見えなくなるまで僕は彼女の姿を追った。

彼女の姿が見えなくなっても、しばらくぼんやりとその最後に見た場所を残像を探すかのように見続けた。

なんでか分からないけれども、彼女はもう行方不明になんてならない気がした。

そして、僕はまだ有美ちゃんが好きだと感じた。

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