巡る時間、翻るワンピース
月曜日の朝の目覚めは最悪だった。
昨日考え事をしすぎて知恵熱が常にで続けていたのもあるし、昨日寝落ちをしたので12月の寒さが僕の体から熱を奪い取り、寝冷えをしたせいだ。
アイリはスーパーAIではあるが、持ち主に優しく布団を掛けてくれるという機能まではついていないらしい。
もし僕が次にアイリの開発にたずさわるなら必ずつけるだろう。
アイリに小言を言えば「わたしはAIだからあなたの健康状態なんて知らないわ」と一刀両断されそうだ。
そんなこんなで、アイリがこの携帯に息を吹き込まれて人格を持つようになってからずっと僕は早起きをしている。
それにしても今日の寝起きは近年希に見る最悪さだ。
痛む頭と寒気を感じる体に力を入れ、だるだるしくベッドから文字のごとく這い上がるように起き上がった。
フローリングの床に足を着くと、12月の寒さが一瞬で伝わってくる。
「アイリいま何時?」
「いまの時間は5時37分よ。今日も早起きなのね。体調悪そうだけど」
「そうだよ、最悪だよ。でも今日は大学に行かないと。中間試験なんだ。」
「全然勉強してないじゃない?大丈夫なの?」
「参考書の持ち込みができるから、取り敢えず出席すれば勝ちなんだ」
「なるほどね」
試験がある講義は2コマからだつたので、もう一眠りしてから家を出るのでも充分よかったのだが、いま寝てしまうと夜まで起きない気がしたのと、なんだか寝てはいけないような気さえもしてきたのでそのまま起きることにした。
(気分転換に早めに学校に行くものありだな。それかタケシの部活姿を眺めてみるのもありだな)
そうと決めて、鉛のように重い体を動かし、参考書の準備をゆったりとやった。
準備の途中で昨日の夜寝落ちをしたためにお風呂に入ってないことに気づき、下の階に向かった。
お風呂場はキッチンとリビングがある部屋のその奥にある。
玄関をまっすぐ進んだところにあって、浴槽のドアを開けると、朝の金色の眩しい光で満ちていた。
テレビのコマーシャルで見るような清々しく仰々しい雰囲気で、僕が知ってるいつもの夜の一般家庭のお風呂ではない気がした。
ささっとシャワーを浴びて、髪を乾かして、部屋に戻っても、まだ六時半前だった。
起きたての頃よりは、頭痛や怠さは幾分か抜けていた。
このまま時間が経てばきっと直りそうだ。
胃に何か入れれば、講義前には体調が良くなりそうだ。
そうだ、学食でごはんを食べるのもいいな。
たまには学食でひとりで食べてみよう。
そう決めて、二階に戻り着替えを済ませ、中間試験で使う参考書がたくさん詰まったリュックを背負いまた一階に戻った。
母さんに朝御飯は要らないと置き手紙をしようと思い、リビングに入ったときでも時間はまだ六時半前だった。
近くにあるボールペンで『タケシの朝練見に行きます。朝御飯は大丈夫 ヨージ』と電話の脇にあるメモ帳に走り書きをしてテーブルの上に置いた。
いつもは母さんが起きてる時間にのに珍しいなと思いながら学校に向かった。
母さんは偉い。
毎日僕らの面倒を見てくれる。
ごはんの用意をして、きれいに衣類を洗濯してくれて、毎日僕らに笑顔と愛情を振る舞ってくれる。
父さんは出張が多くてあまり家にはいないが、一緒にいれるときは、テレビも見ず、ケータイもいじらず僕らに話しかけ、僕らのことを見続けてくれている。
当たり前の幸せの尊さを僕は知っている。
偉そうなことを言っているわけではないが、僕はこの普通の家庭の温かさがいかに継続するのが難しいか、かけがえがないものかを知っている。
気がつくと大学の正門前の長い坂の前に着いていた。
いつ見ても長く険しい坂は、見るだけで汗や動悸が込み上げてくる。
もちろん立っていても目的地には辿り着けるはずもないので、えっちらおっちら、足を一歩ずつ坂に触れて行った。
僕が初めて有美ちゃんを認識した場所。
そして思いがけず恋に落ちた場所。
ここから影ながら見守る恋が始まった。
タケシにこそ知られたものの、そのまま誰にも知られずに終わりを迎える僕の恋心。
まるで終わりに向かって歩いているような感覚になったが、不思議と心が軽くなってきた気がする。
ちょうどこの辺だよな、有美ちゃんがおばあさんを庇って膝を擦りむいたところ、と懐かしさを感じながら見つめた。
見えるはずもないが、ドラマでよくある再現映像のように透明な有美ちゃんと透明なおばあさんが僕の目の前にいた。
あのきれいな瞳は見たことがない。
吸い込まれるような、その一瞥だけで彼女のすべてを知りたくなる、僕の青春をすべて捧げたくなるような、そんな魅力しかない深みがあった。
懐かしいなと、一年も経たないことなのに、とふっと自然にはにかんだ。
そんな自分に驚いた。
僕もこんな笑い方ができるんだ。
最近の僕はなんだか前と違う。
日々、毎日ひとは変わっていく。
僕も、タケシも、母さんも、もちろん有美ちゃんも。
自分で自分の変化がわかるなんて、僕も偉くなったなと感じた。
そして気がつくと学食の入り口の前に着いていた。
僕の通う大学は歴史が150年ほどあり、昔からある大学だ。
それもあって、この学食もかなり古びている。
白い壁肌に、オレンジ色の平たい屋根。
背丈は二階建てほどしかなく、この大学の全生徒を収容できるだけのキャパシティはない。
ただここにいて、学生たちを迎え入れるだけだ。
雨風にさらされたその壁は汚れていて、どう考えてもお世辞なんて出てこない景観だ。
だけれども、変わらない。
表面は変化を拒否することはできないが、変わらずここで立ち尽くしている。
そんな場所で僕と有美ちゃんは、まるで昔からの幼なじみみたいにいろんな話題で花を咲かせた。
それから約8ヶ月の月日が経った。
僕らはその間ひとことも言葉を交わさなかった。
わざとでも無理にでもない。
交わさなかったんだ。
学食の前は広場になっていて、よくダンスサークルのひとやバンドマンたちが自身の腕前を披露していて、いつも東京のどこかの駅みたいに人でごったがえしている。
だけれども、いまは見渡す限り僕以外誰も広場にはいない。
学食の前にある時計が7時を教えてくれて、その近くにある四人がけの木でできたテーブルがいまはまで何万人もの学生を座らせてきたのよと誇らしげにこちらを見ていてくれる気がした。
学食の少し遠くからは朝練をする学生たちの活力ある掛け声が高い青空に反射して響いていた。
僕の目の前からは学食の中で過ごしているかすかな人の声と食器が重なる音が自動ドア越しに聞こえてきた。
僕が施設にいたときも、同じだったなと思った。
大学ほどの広さはないけれども、施設の前には遊び場があって、背の高い丸時計があって、いつも施設の中は、元気な子供の声が絶え間なく響いていた。
僕はそれをずっと外から眺めているだけだった。
入りたい、入りたくない、分からなかった。
幼い僕は自分の殻に閉じ籠っていた。
塞ぎ混んでいた僕をいまのように大学に自分の足で活けるまでに育て、そして救ってくれたのは、母さんだった。
そして、僕を塞ぎ混ませた原因も母さんだった。
学食の前でひとり経っているのも不自然だったので、中に入って適当にお腹に食べ物を入れて、タケシの朝練を眺めて、終わるのを待って一緒に試験の話をしよう。
いつもはぎゅうぎゅうの学食だが、この時間ということもあって席はがらがらだった。
逆に人を探すのがやっとなくらいだった。
まずは席を探すかと、入り口から入って右側にある窓際の席に向かった。
特に意味はなかったが、さっきまで有美ちゃんのことを考えていたので、ふたりで一緒にごはんを食べたあの席に座ってみたくなったのだ。
座るだけではバチは当たるまい。
給湯器のすぐ奥、ここを曲がるとあの席だ。
朝日がキラキラと学食のテーブルを反射させる。
もう、ひとがいる。
まぁしょうがないか。部活動の生徒だろう。
窓の外をずっと見ているようだった。
すらっとしたシルエットが光越しに見える。
僕はそのひとの邪魔をしないように、そのひとの後ろ側の窓際の席にしようとさらに歩を進めた。
足元を見ながら歩いていた。
そして自分の座る席を確認しようと顔を上げた。
「え…」
思わず声が出た。
席に座っている人かこちらを見た。
さっきまで窓の外を見ていた顔がくるりとこちらを向き直す。
長い髪が映画のスローモーションのようにゆっくりと空気を撫でて動く。
「…」
思わず立ち尽くしてしまった。
このまま何事もなく席につけていれば今日は何事もなく終わっていた。
だが、僕は動けなかった。
だってそこにはここには、いないはずの人がいたから。
そのひともびっくりしたかのように僕を見る。
そのひとから目が離せなくて、じっと見続けていたからだと思う。
だってそこには、僕が何万回も画面越しに見た人がいたから。
「え、うそ…」
またもや思わず自然に言葉が溢れた。
渦中の人物、先週までなぞの5日間の失踪をしていた人物が何事もなかったようにそこに座っていた。
逆光だったが、何万回も見た彼女の顔は忘れない。
長い黒髪、流れるような睫毛、黒く深い海のような瞳。
ありえない。
水色のワンピース姿の姿勢をただした姿で僕をまっすぐに見つめている。
吉岡有美にしか思えない人物がそこにいた。




