思い出の夕陽の教室
彼女と医務室に行き、彼女が応急手当をしてもらっているとき、僕は自分の携帯電話にたくさんの着信やらメールが入っていることに気づいた。
内容はというと、タケシたちからのもので、「遅刻か?」「寝坊か?」「大丈夫か?」など、試験を気遣うものだった。
そしてそれらのメールは、8時39分を最後としてぱったりと止まっていた。
時刻は、既に9時を過ぎており、タケシたちはいま必死に英語の文法と戦っているのだろう。
対して僕たちは、医務室でゆるりと過ごしている。
テストに向かっているときは、相当気持ちが焦っていたが、こうしてもうダメだと分かると、逆にすっきりとした気持ちに変わっていることが、なんだか面白かった。
恐らく、彼女の存在が大きく影響していることは間違いない。
彼女は、暢気なもので医務室のおばあさんに、先程の怪我に至る経緯を伝えたり、いろいろな話に花を咲かせていた。
そういえば、僕が恋をしたのはいつだったのか、ふと彼女を見ながら考えた。
普通に恵まれた家庭に育ち、普通の公立の小学校、中学校、高校を卒業してきた。
部活は中学校から高校まで6年間テニスをしてきて、大学では何も入っていない。
いわゆる一般的に、人を好きになったことはある。
ただ、何か自分からアクションを起こすわけではなく、遠くから見つめているだけのささやかな恋だと思う。
極力その人に自分が好きだと言うことを悟られないように意識し、その人の幸せを願うのが、僕の幸せな恋の形だった。
その人に恋人ができると、名残惜しさもあるが、「彼女が幸せなら」とそっと自分の心に鍵を掛けていたと思う。
僕の記憶のなかでは、一回だけ、女性に恋をしている。
人生19年を思い返してみると、本当にただの一回だった。
それは、僕が中学生のときだった。
相手は、同じクラスの背が低い女性だった。
その子とは新学期に席が隣になったことをきっかけに、仲良くなった。
その子はたまに、教科書を忘れる子で、よく席をくっつけて授業を受けていた。
彼女が動く度に、彼女を囲む空間に、柔らかくて甘い香りが漂った。
僕がその子を好きになったのは、彼女が髪をかきあげ、耳にその黒髪を流す仕草がみょうに色っぽかったこと、セーラー服の紺のスカートから伸びる二本の華奢な足が周りの子と比べてすごく健康的だったこと、そして彼女は自分の意思をはっきりと人を傷つけないように伝えるのが上手かったことだ。
思春期の中学生にはあることかもしれないが、僕のクラスには微弱ながらもいじめがあった。
いまよりいじめという言葉が聞きなれないころだったけども、クラスで誰かのものが隠されたり、机に落書きがされてあったりときったところだった。
小さい町だから、人との距離はすごく近い。
それは大人も子供も同じだ。
距離が近いからこそ、そのひとのことを知りすぎてしまう。
知りすぎたが故に、その人の受け入れにくい面まで見えてしまい、イライラが積もって、そういう行動をしてしまっていたのだと思う。
僕が好きになった色っぽく髪を耳に掛ける彼女は、そのクラスのグレーな部分に対して、ある日帰りのホームルームで提言をしたのだ。
「みんなも知っているとおり、いまこのクラスでは、悲しいことが起こっています。
それをしているのは誰かは分かりません。他のクラスのひとかもしれません。
ただ、もしこのクラスのひとだったら、いますぐわたしにその先を向けてください。
あなたが、イライラしたその解消先をわたしにしてください。
きっとそうするとその人もすっきりするし、いま悩んでる人も、毎日怯えながら学校で過ごさなくてもいい。そして、わたしもハッピーになる。
だから、明日からわたしのペンケースを隠してください。
昔から宝探しは得意だから、いまから楽しみです。
明日、待ってます」
そう告げると、彼女はすっと自分の席に座り、何事もなかったかのようにした。
その彼女の発言の翌日から、そうしたじめじめした出来事はぱったりと無くなった。
彼女がそうした行動を取ったのは、彼女にもともと備わっていた正義感ももちろんのこと、その負のターゲットが彼女の親友だったのもあると思う。
彼女の親友は、何やらモデル活動をしているようで、容姿端麗で、誰もが彼女を一度は好きになるといわれるくらい、綺麗な顔英語の立ちだった。
あとからタケシから聞いた話だが、クラスのある女の子が、男の子のことが好きだが、その男の子は当のモデルの子が好きで、そこに火がついて今回の事件が起きたようだ。
その後、彼女はその正義感と優しい物言いを生かして、中学校三年生のとき、生徒会長となった。
彼女への好きという気持ちを終わらせたのは、その中学校三年生の冬の卒業式だった。
彼女は地元の高校ではなく、どこか県外の私立高校に通うらしかった。
僕は遠距離なんてしたことはないし、はなから彼女と付き合おうなんてそんなことは全く考えていなかったので、僕の初恋は中学生卒業と同時に終わりを迎えた。
さらに言うと、彼女は中学校三年生ずっと彼氏がいなかった。
何度か告白をされていたようだったけれども、全て断っていたらしい。
その理由を知ったのも、卒業式の日だった。
僕は式を終えたあとタケシと一緒に帰宅しようと玄関で待っていた。
ただ、教室に忘れ物(在校生からもらった卒業記念品のサイン入りテニスボール)をしてしまい、教室に一度引き返した。
卒業式後の学校はがらんとしていて、在校生も保護者ももうすでに学校には残っておらず、がらんとした空気で満たされていた。
教室に近づくと、まだ教室の中に人の気配がした。
わずかに空いた教室のドアの隙間から、彼女が椅子に座っているのが見えた。
やや顎が上を向いていた。
彼女の視線はどこか一点を見つめているようだった。
卒業式は、昼から行われ、いまはもう夕方の16時頃だった。
彼女のそのやや上向きの視線をなぞるかのように、輪郭が夕陽のオレンジ色で象徴的に縁取られていた。
まさに神々しい姿だった。
そう見えるのは、彼女の美貌ではなく、彼女の内側にある強い意思だったり、正義感がそうさせているのだと感じた。
時間にしては一秒くらいだったが、永遠に見とれていたような感覚だった。
すると、彼女の唇が言葉を発するように動き、ヒソヒソ声が聞こえた。
脅かすまいと僕もヒソヒソと身を正した。
もう一度、わずかな隙間から教室を覗いた。
そこには、髪を耳にかける姿が素敵な彼女がいた。
あと、もう一人、例のモデルの子だった。
親友同士、最後の別れを名残惜しそうにしている雰囲気を感じた。
モデルの子も、中学校を出ると都内の高校に通い、モデル業を本格化させるという耳にした。
親友同士の大切な時間を過ごしていたのだった。
僕は彼女らを気遣うあまり、教室に入れないでいた。
ボールは後から取りに帰ればいいや、と引き返すのを決めて、最後に僕の初恋のひとの姿を一目見て、中学生生活に終止符を打とうと決意した。
横目で、彼女の姿を目に焼き付け、初恋の思い出にしようと見やった。
だが、そこにあった景色は、僕がイメージしていたもの、望んでいたものとは違っていた。
教室に広がっていた景色は、彼女とその親友が、〝親友以上の距離〟で、お互いの顔を重ねていたシーンだった。
わずか30センチほどの隙間から見えたのはそれだけだったが、紛れもなく彼女たちは、二人だけの世界で最後の時間を紡いでいた。
〝親友以上の距離〟を深めていた。
その夕陽で照らされた世界から、僕は、そっと立ち去った、
僕の恋が叶う条件は、その好きになった相手が幸せになることだ。
マザー・テレサやガンジーのように、博愛であるわけではない。
ただ、お互いがお互いを思い、同じ気持ちでいるというその状態や行為事態が全く想像できなかっただけなのだ。
だから僕は好きな子の幸せを願うことにしたのだ。
それが、僕の両思いなんだと考えていた。
結果として、彼女が幸せであることは、その現場を見て明らかだった。
僕の初恋は無事に完了した。
そこから、ますます〝人を好きになる〟ことが分からず、答えを出せないまま、高校を卒業し、膝から血を流す彼女に恋をした。
中学生と同じような、彼女の勇ましさだったり、勢いだったり、いままで出会ったことのないようなその存在感に魅了された。
同時に、怪我をしていることもあってか、彼女を見守りたいとも感じるようになった。
彼女は、今日のように、きっとたくさんの人を助けてきたに違いない。
物理的に救われたこともあれば、彼女の内側から放たれる強さに心から救われたひともいるだろう。
そんな彼女を守るのは誰だろう?
もしかしたら、もうすでにそうした素敵な相手がいるかもしれない。
それなら、それで十分だと思った。
教室に入るとき、僕がドアを先に開けて、彼女に「どうぞ」
と譲るくらいの存在でいいから、彼女の人生にかすりたいと思った。
つまり、あの手を握った一瞬で、僕の心は彼女に一直線になった。




