弾んだ坂道
(やばい!これは遅刻フラグだ!)
携帯電話の調子が最近すこぶる悪いのだ。
設定していた目覚まし時計が、昨日の朝はちゃんと鳴ったのに、今日この大事な日に目覚まし時計もどうやら寝坊をしたらしい。
(どうするんだよっ、、!このテスト受けそびれたら、単位が無くなっちまうぜ、、っ!)
そう、今日のこの1コマの英語の講義は大事な大事な単位に関わる試験だ。
半年間の頑張りが、このテストを受けると報われるのだ。
僕は英語は苦手ではなく、むしろ得意な方だったので、恐らく合格点には達するだろう。
だが、このテストを受けないことは、次期の僕の運命を決める。
時は、大学の下期。冬の寒さも和らぎ始める2月の半ばだった。
もしこの試験を落としてしまうと、単位がとれないどころか、来年度の新入生に混ざって再び同じ講義を受けなければいけないのだ。
毎年単位をやむ無くして落としてしまう生徒はボチボチいるのだが、彼ら彼女らは下級生と混じって肩の狭い思いをしながら、一年間講義を受け続けなければならない運命になってしまうのだ。
そんなことは露知らずで、外は春をうずうずと待ち望むかのように、澄んでいて、陽気も暖かだった。
僕はその暖かい陽気のなかを、汗をかきながら全力で走っている。
自宅から大学は徒歩で20分。僕の足で走ると10分くらいだろうか。
自分の自転車は持っているが、あいにく今朝母さんが町内会の集まりがあるとかなんかで、使用中だ。
高校はテニス部だったので、体力には自信があったが、大学では特にサークルや部活動などにも所属はしていないので、目立った運動はしていない。
(一年でこんなに体力が落ちるのかよ、、)
はぁはぁと息を切らしながら国道沿いの歩道をひた走る。
朝の時間も合間って、回りにはスーツ姿のサラリーマンやOL姿の若い女性が歩道を歩いていた。
通勤ラッシュもって、国道には車が多く列をなしていた。
熱を帯びる頬に気持ちのよい冷たい空気だった。
いまの時間は8時35分。
あと5分で講義(運命のテスト)が始まる。
いつもは余裕で大学の正門についている時間帯だったが、いま僕は大学に向かう道の最後の関門を目の前にしていた。
(一回も休まないで登りきればぎりぎり間に合うな)
この大学には有名な坂がある。
国道から少し外れた場所にある大学なのだが、その正門までずっと500メートルほどの緩やかな坂道があるのだ。
家から休み無く上げてきた足を一旦坂の前で休ませ、目的の正門を見据える。
歩道脇の枯れた木々たちが街頭応援のように、ゆらゆらと枝を揺らしている。
(よし、あともうひと踏ん張りだ)
と、眼下にある白いスニーカーを見やり、顔を上げる。
生徒に混じっておばあちゃんや子供が坂をえっちらおっちら進む姿が目に入る。
すると、僕の右脇を颯爽と自転車で通り抜けた人影が見えた。
通りすぎたと同時にシャンプーの柔らかい匂いが僕の鼻を優しく撫でた。
(自転車、ずるいぞ!僕も自転車があれば余裕で時間に間に合ってるのに、、、!)
自転車の姿を薄目で睨みつつ、僕も息をあげながらラストスパートをかける。
その自転車に追い付けるようにと、坂を必死にペダルをこぎ続けるその人は髪が長い女性だった。
しばらくすると、彼女の足に限界が来たのか、もう坂でこぎ続けるのが難しくなったようだ。
ふらふらと自転車が左右に揺れ、彼女は諦め自転車を降りた。
坂の中腹くらいだった。
女の子の脚力にしてはよく漕いだ方だと思う。
(おめでとう。君は1コマに間に合うんだよ。)
携帯電話で時間を確認する。
『8時37分』
(この調子で走り続ければ、間に合う)
ゴールが見えてきたので、僕の心も安心感を覚える。
引き続き歩を進める。
後ろから同じように自転車が僕を越していった。
今度はがたいのいい兄ちゃんで、ラグビー部のように筋肉が隆々だった。
(あの兄ちゃんなら、この坂なんて休まず登りきるだろうな)
僕も坂の中腹に来た。
時間はまだ8時37分。自転車を押す髪の長い彼女は、その長い髪をゆさゆさと左右に揺らしながら、思い足取りで歩を進める。
(その華奢な足だと、坂はきついだろうなぁ)
ぐんぐんとラグビー体型の兄ちゃんも坂のゴールに近づくと同時に彼女にも近づいていった。
ラグビーの兄ちゃんが彼女を追い抜こうと、立ち漕ぎしていた姿勢を更に低く戦闘体制に変えて、ペダルに力をいれた。
彼女は彼の気配を後ろで感じていたのか、すぐさま左に避け、右側を空けた。
この坂道は二人がちょうど並んで歩けるくらいの幅しかない。
自転車二台を並べるとすごく窮屈だ。
ラグビー体型の彼は、「ぐんっ」と力をいれ、彼女を追い抜いていった。
その数秒後、彼女は転んでいた。
正しくは、「人を抱えて」転んでいた。
傾斜で見えなかったが、彼女の前にはおばあさんが先に歩いており、齢は70歳くらいだった。
白髪が綺麗な老女だった。
後日話を聞くと、彼女は疲れたから自転車を降りたのではなく、おばあさんの横を通るときに、すれ違い様にぶつからないように先に降りて自転車を押したのだという。
また、あとから聞いた話だが、彼女は小学校からずっと陸上部の長距離選手であったらしい。
大学でも陸上サークルに所属しており、たまに大会にも出るくらいだという。
そんな彼女は、いつもの早朝ランニングが終わり家に帰ってシャワーをさぁ浴びようとしたときに、なぜか昨晩まで元気だったシャワーが冷えかなにかで故障し、あくせく体の汗を流していたところ、1コマに間に合わないような状況に至ったらしい。
話を戻すと、彼女が道を譲ったあとにきたラグビー体型の彼は、そのおばあさんの存在に気づかず、おばあさにはぶつかりはしなかったものの、びっくりした拍子に体のバランスを崩してしまい、転びそうになった。
そのところを、押していた自転車を放り投げ、自らをクッションにして、おばあさんの下になり、膝から転んだのだ。
僕はちょうど彼女にも追い付きそうな距離感にいたので、僕は彼女の自転車とおばあさんの転がった荷物を拾い、側に寄った。
彼女の第一声は、「大丈夫ですか?」だった。
ラグビー体型の彼は、おばあさんと僕たちのことは露知らずで、もう気がつくと坂から見えなくなっていた。
完全に非は彼にあるとは思うが、彼女は彼のことよりも、おばあさんの身の安全を何より心配していた。
「あぁ、大丈夫だよ。ごめんね、お嬢ちゃん。大事な膝が大変なことになってしまって」
「いいえ、膝なんて唾をつけたら治りますから」
彼女は力強く笑顔で答えた。
僕はおずおずと二人に近づき、自転車を脇に止め、思わず彼女に手を差し出した。
「大丈夫?」
「あ、ありがとうございます。大丈夫ですよ。心配してくれて、ありがとうございます」
膝から大量の血が出ているのにも関わらず、彼女はきりっと答えた。
彼女が、僕の差し出した手を差し出した握った。
彼女はまずおばあさんを下から支え、立ち上がるのを手助けした。
僕はおばあさんの手を引き、きちんと二本足で立ち上がるのを見届けた。
おばあさんは、すまないね、と言いながらゆっくりと彼女の上から離れた。
そして、次に地面に座っている彼女に手をさしのべた。
彼女はまっすぐに僕の手を引き、僕は軽く力を入れて僕の方に引き寄せ、彼女が立ち上がりやすいようにアシストをした。
すっと何事もなく立ち上がった。
と、思ったが、彼女の両ひざはやはり痛みを感じていたようで、かくりとKARAだのバランスを崩した。
そのとき僕が彼女を引いた力がまだ残っていたようで、その立ち上がった姿のまま、僕の胸に飛び込んできた。
一瞬のことだった。
間近で見た彼女の瞳の綺麗さは、尋常ではなかった。
女の子の顔をこんなに間近で見たのははじめてだった。
その瞬間、嘘かと思うかもしれないが、僕の体に雷が落ちた。
全身で彼女の体重を支え、僕は反動で彼女を軽く抱き締めていた。
彼女の長い後ろ髪が映画のコマのように、ゆっくりと重力に従って流れ落ちて行く。
そして、ゆっくりと僕の両手の上に花びらのように乗った。
一目惚れをした。
彼女の容姿というよりも、その凛々しい姿に。
僕は彼女目を見て、動けなくなってしまった。
その瞳は、どこまでも深い宇宙のように吸い込まれるような世界が広がっていて、意思の強さが分かる光が炎のように輝いていた。
その反面、深いその世界に寂しさが感じられた気もした。
つまり、彼女のことが気になって仕方がなくなったのだ。
もっと聞きたい。知りたい。彼女の声で彼女のことを話してほしい、そんな思いでいっぱいになった。
僕が、激しい不整脈を認識したとき、原質が僕を迎えにした。
1コマの開始を告げるチャイムが鳴ったのだった。




