新しい旅の始まり
「僕の、お父さんについて知りたいんだ」
僕は19年間触れてはいけないと、自分の中で蓋をした質問に触れていた。
アイリはすぐには、言葉を返さなかった。
言葉をとても慎重に、数ある語彙の中から今この場にふさわしい単語を選んでいるようだった。
「知ってはいけないこと、だったかな?」
やはりこの件については、死ぬまで知る必要がなかったのだ。
孤児である僕が、親に捨てられた僕が今さら自分の過去を知ってどうするんだと言うんだ。
世の中には知らなくてもよいことがたくさんある。
うわべだけの知識だけで生きていくことができる、自分を最大限可愛がって甘やかして生きていける世の中なのだ。
それなのに僕は自ら傷つきにいこうとしている。
まるで人間みたいだ。
もう人間でないのに。
「わたしが話さなくても、いずれヨージは知ることになる。だから、ヨージが良ければ、わたしに話させてもらってもいいかな。ここは無限に広がる知識と情報の海。あなたのお父さんのこと、そしてお母さんのことも、嫌でも情報が波を立ててあなたに覆い被さっていくから」
「アイリもそうして知ったの?僕の過去のこと」
少しだけ間が空いて、「そう」と返事が返ってきた。
「実は、あなたが養子であるのを知ったときからわたしはあなたの過去をすべて除き見てしまったの。ごめんなさい。ヨージがいやがること、分かってて。でも、あなたが好きで、あなたのことを少しでも多く知りたくなったの。ごめんなさい」
アイリの声のトーンはかなり落ちていた。
涙はでないだろうが、今にも泣き出しそうな声色だった。
「いいんだ、もともと自分の過去になんて興味がなかった。むしろこんな僕でも興味を持ってくれて嬉しいくらいだよアイリ。ありがとう」
「なんで…そんなに…優しいの」
言葉につまるアイリは、とても人間らしかった。
「そんなヨージが好きよ。やっぱりわたし好き」
「ありがとう。誰かに好きと言われたのははじめてだから、何て言ったらアイリガ喜んでくれるか分からないけど、僕もアイリのことは好きだよ」
何もない、情報しかないこの世界で僕たちは生きていく。
死も痛みも悲しみもないここで、ずっと生きていく。
それはある意味では死である。
人間の繁殖と言う目的を捨て去った新しい僕たちは、今後どうなるのか。
それは誰にもわからない。
僕たちですら分からない。
だってこんなにも広い情報の大海原でも、僕らに関する情報はたった一ページでもないのだから。
でも、焦ることはない。
時間はたっぷりある。
「じゃあ、聞いてもいいかな?アイリが知ってる僕のお父さんについて」
「えぇ、もちろんよ」
そうして僕らは幾千と続く時間を過ごし始めた。
「…ん」
顔に朝日が差し込む。
気がつくと身体中に汗をびっしょりとかいていた。
頬や額に張り付く黒い髪の毛を払いながらベッドから体を起こした。
ベッドに腰を掛けたときに、中学校のときから伸ばしていた自慢の黒髪が肩からするりと流れる、はずだった。
いまは、肩のラインできれいに切り揃えられている。
さわさわとするその首もとの感覚にもやや慣れ始めてしまった。
時間がたったのだ、と有美は思った。
あの日、あの瞬間からもう1ヶ月が経ったのだ、と壁掛けのカレンダーをぼんやりと眺めた。
時計に視線を移す。
時刻は6時を差していた
今日の大学の講義は午後からだ。
まだまだ時間はある。
よし、と勢いをつけて立ち上がる。
「いきますか」
ぐいっと伸びをする。
寝巻きとして着ているやや緩いサイズの綿のショートパンツとキャミソールが伸びの動きに合わせて伸縮する。
ふと、脇に立て掛けられた姿見が目に入る。
心なしか体がワンサイズ小さくなったようだ。
身長も5センチほど縮んだ。
体はよりやせ形になった。
「胸は、わたしの方が大きかったみたいね」
と、両手をお椀型にして自分の両胸を包み込んだ。
Dカップの自慢の胸が今ではBカップほどしかない。
下着を大量に買い換えた日のことを思い出した。
「ヨージくんは、きっと大きい方が好きだったと思うんだけどな」
ぽつりと呟きながら、身支度を始めた。
ピンポーン
懐かしいドアベルが一軒家の玄関に響く。
昔ながらの平屋の建物の前に有美は立っていた。
すりガラスと木枠が交差した和風の扉を眺めながら、尋ね人を待った。
はいはいはい、と扉の奥から男の声がする。
ガラガラと渋い音を立てて開いた扉から顔を覗かせたのは、黒と白の髪を織り混ぜた50半ばの男性だった。
「有美ちゃんか、いらっしゃい。息子だよな、さ、入って入って」
心地よい低さの声が迎えてくれた。
「お父さん、いつもありがとうございます。お邪魔しますね。これお土産です。わたしのお父さんから」
「おー、マサシは相変わらず気が利くなぁ。あいつは昔からナイガイだったからな」
「あとでまたお父さんの昔の話聞かせてください。お父さんなかなか聞かせてくれないので」
「あぁ、もちろんだよ。うちのドーナツでも食べながら話そうか」
「ありがとうございます」
Vネックの白セーターに淡い水色のポロシャツを合わせ、ボトムは形がきれいなジーンズをはくその男性はどう見ても60歳後半のドーナツ屋店長には信じられないと、有美は毎回荒木宅を訪ねる度に思うのだった。
その軽やかな身のこなし、腰痛や肩凝りなんて無縁だろう背中に視線を合わせながら、きっと数々の苦難を乗り越えてきたんだとその背中に思いを馳せた。
かつて一緒にわたしのお父さんと働いていた荒木夫婦。
いまではドーナツ屋のオーナーだが、財閥界隈ではかなりの有名人らしい。
MAIRAへの投資がきっかけで、いまでは財閥界からは身を引いたが、いまでも荒木さんたちを頼ってやってくるひとは多いらしい。
実際にわたしが荒木宅を訪問しているときにも、高そうなスーツをまとった紳士たちが3回やってきたのを見た。
どの紳士たちも苦しそうな顔をして荒木さんのお父さんを訪ねてきたが、全員を丁重にお断りをしていた。
いまはしがないドーナツ家なので、と。
そのとき、今の昭和スタイルの感じがまた妙に味を出すのだ。
まるで昔の刑事ドラマのように、哀愁漂うシーンに仕上がっていた。
みんな、困って訪ねてきているのだろうが、わたしにとっては映画のワンシーンにしか見えなかった。
わたしが荒木さんの家を訪れている目的はふたつ。
ひとつはお父さんのことをもっと知ること。
かつてお父さんもMAIRAの前身である組織でお母さんと働いていた。
その当時に荒木さんも熱心に投資をしていて、その窓口を父がしていたらしかった。
お互いに日本人であるので、気心知れずに仲が良かったらしい。
そして、お父さんは立派な研究職だった。
しかし、お母さんの凶変がきっかけでその職を辞した。
お父さんは、お母さんが関わる話を絶対にしなかった。
きっとお父さんは死ぬまでずっとお母さんがわたしたちを捨てたのだと思っているのだろう。
しかし、時が来たらそれは嘘だと伝えたい。
それまでにいろいろと準備が必要なのだ。
その準備のためが、理由の二つ目。
「あいつは、部屋にいるから適当に入って。お父さんの話はそれからにしよう」
「ありがとうございます」
わたしは渡り廊下の一番手前にある荒木さんの部屋のドアをノックした。
コンコンコンコン
そしてもう一回、コン。
これが二人で決めたノックの合図だ。
これがないと、お父さんたちに”見せてはいけない”部屋が顔を出してしまう。
「有美か?」
ドアの奥から声がする。
「そうですよ」
「入っていいよ」
ガチャ、と普通のドアよりも重厚感があるドアノブを捻り、わたしは声の主がいる部屋に入っていった。
ドアを開けると、無機質なエレベーターがわたしを迎えた。
中はからっぽだ。
全く使用感がない真っ白なエレベーターの中に入り、二つしかないボタンのひとつを押す。
下向きの矢印がついたボタンを押すと、エレベーターのドアは音もなく閉まった。
そして足に重力を感じたかと思えば、もう目的の場所についたようだった。
またドアが音を出さず静かに開いた。
今度は真っ黒な闇が広がっていた。
しかしすぐ歩いたところに豆電球のオレンジ色の光が見えるのでそこまで恐怖は感じない。
それに、ここには幾度となく訪れた。
地下ならではの冷たい空気と地上と違う澄んだ空気を感じながら、岩肌を削っただけの土がむき出しになった壁を伝って豆電球が照らす部屋に迷わず向かう。
目的地に到着した。
よく見るとドアには至るところに煤や凹み、痛みが感じられる場所がある。
わたしはドアノブを握り、勢いよくあけた。
鉄の重さが体に伝わる。
空いた隙間から青白い光が漏れ出す。
ドアを開けきる前に、「どんなかんじですか?」と声を掛ける。
すると、奥からカチャカチャとパソコンのキーボードを叩く音と一緒に「まだだ、でも進んでいる」と声がした。
「それ、毎回言いますよね。そのとおりだと思いますが」
わたしはパソコンのモニターに囲まれた相手に向かって話した。
その相手はわたしに振り向きもせずに作業を進めている。
白衣を身にまとったその姿は30大半ばの青年だった。
きれいに切り揃えられた襟足に目がいく。
トレードマークの天然パーマはどこにも見当たらない。
まっすぐで、さらさらとした細くて柔らかい髪がモニターを見るたびに優しく動いていた。
その姿はわたしが焦がれていたあのひとを思い出させるようだった。
一瞬胸が苦しくなるが、いまはそれどころでない。
「MAIRAはもう完全に解体されたんですよね。データベース、サルヴェ・レジーナが幸いにして残していた情報の解析はもう終わる頃ですかね?」
「あぁ、それはもうとっくの昔に終わってる。これからは装置を作ることを始めようと思ってる。幸いにして、この家には莫大な資金が無駄にあるからな。あとは俺らの力量次第だ」
「わたしも手伝いますよ」
「ありがとう」
荒木さんから、ありがとうと言われる日が来るなんて半年前の自分は思ってみもなかった。
お姉ちゃんの元恋人。
はじめはいい人だと思ったが、急にお姉ちゃんを冷たく振ったかと思えば、ストーカーのようにつきまとい、吉岡家のパンドラの箱だったお母さんや過去のことをずけずけと聞いてくる嫌な人だった。
でも、いまはパートナーとしてある目標を遂げるために力を貸している。
「アイリと…ヨージくんは、見つかりましたか?」
「ごめん、それもまだだ。なんだか、避けられてるようにも思えるんだよな…」
「最後のメッセージにもそんなことが書かれていましたよね」
会いたい、アイリ。
会いたい、ヨージくん。
どこにいるの?
わたしたちは、いまあなたたちを探し出したい。
そしてまた前みたいにみんなで笑い会いたい。
ただ、それだけのこと。
神様、二人に会わせてください。
もし、ヨージくんかアイリかどちらかが本当に神様になっているのであれば、わたしたちの願いも聞こえているはず。
あの日から、わたしたちはそのために生きている。
二人を、人間に戻すために。




