第2話 帰る場所は、箱根の築百五十年の旅館だった
夫婦だった五年間に別れを告げ、梨花が向かったのは箱根。
創業百五十年の老舗旅館「七瀬屋」には、懐かしい母の声と、変わらない温泉の香りが待っていました。
しかし、久しぶりに帰った実家は、彼女が思っていた以上に追い詰められていて……。
数日後、梨花は東京の部屋を出た。
玄関に並べた段ボール箱は、思ったより少なかった。
服。
仕事で使っていたバッグ。
独身時代から持っていた本。
母にもらった小さな湯呑み。
それから、直人と暮らす前から使っていた化粧ポーチ。
五年間の結婚生活から持ち出すものが、これだけなのだと思うと、胸の奥が空っぽになった。
直人のものは、部屋のあちこちに残っていた。
歯ブラシも、マグカップも、クローゼットのスーツも、ソファに置かれたままのブランケットも。
けれど、梨花の居場所だけが、そこから抜き取られていた。
離婚届は、すでに提出した。
直人からは、手続きに必要な短い連絡だけが届いた。
印鑑のこと。
書類のこと。
荷物のこと。
夫婦だった五年間の終わりは、拍子抜けするほど事務的だった。
役所の窓口で、紙を受け取った職員が内容を確認している間、梨花は指先をずっと握っていた。
泣くかと思った。
けれど涙は出なかった。
紙一枚で、妻ではなくなる。
そのあっけなさが、かえって現実味をなくしていた。
梨花は玄関のドアを閉めた。
鍵は、郵便受けに落とす約束になっていた。
金属の小さな音がした瞬間、本当に終わったのだと思った。
駅へ向かう道は、いつもと同じだった。
通勤の人たちが足早に歩いている。カフェからはコーヒーの匂いが流れてくる。信号待ちの人たちは、スマホを見ながら無言で立っている。
世界は何も変わっていなかった。
梨花だけが、昨日までの場所から押し出されたようだった。
電車に乗り、小田原へ向かう。
窓の外の景色が少しずつ変わっていく。
ビルの隙間。
住宅街。
川。
遠くに見え始める山の線。
スマホには、直人から短いメッセージが届いていた。
『荷物、必要なものがあったら言って。送るから』
それだけだった。
五年間同じ部屋で暮らした人間に向ける言葉としては、あまりにも軽かった。
けれど、直人らしいとも思った。
梨花は返信しなかった。
画面を伏せて、窓の外を見る。
小田原で乗り換え、箱根へ向かうにつれて、空気が変わっていった。
街の音が遠くなり、山の色が濃くなる。
バスの窓に、白く曇った自分の息が映った。
梨花は、子どもの頃の自分を思い出していた。
冬の朝、学校へ行く前に廊下を走って母に叱られたこと。
宿泊客の靴をそろえる祖母の背中。
厨房から漂う焼き魚の匂い。
湯気で曇った窓。
庭の苔に落ちた山茶花の赤。
帰りたいと思ったことは、何度もあった。
けれど実際に帰る時が、こんな形になるとは思わなかった。
バスを降りると、箱根の空気が頬に触れた。
冷たいのに、東京の冷たさとは違っていた。
湿った木と土の匂いがする。
梨花はキャリーケースの持ち手を握り直した。
坂道の先に、見慣れた木の看板があった。
七瀬屋
創業百五十年
墨で書かれた文字は、少しかすれていた。
それでも、まだそこにあった。
暖簾は紺色で、端が少し色あせている。
玄関の梁は太く、煤けた木目の奥に、長い年月が染み込んでいるように見えた。
子どもの頃はただ古いと思っていた柱も、今見ると、何人もの手に触れられて磨かれた光を持っていた。
梨花は、玄関の前で足を止めた。
ここに帰ってきてしまった。
その思いと同時に、ここがまだ残っていたことへの安堵が込み上げた。
「梨花」
中から、母の声がした。
七瀬香代子は、暖簾をくぐって出てきた。
白い割烹着姿で、髪を後ろでまとめている。顔には笑みを浮かべていたが、以前より少し痩せたように見えた。
梨花は何か言おうとした。
ただいま。
ごめんね。
離婚したの。
帰ってきちゃった。
いくつもの言葉が喉に詰まった。
けれど香代子は、梨花が口を開くより先に近づいてきた。
「おかえり。疲れたでしょう」
その一言で、梨花の目の奥が熱くなった。
責められなかった。
理由も聞かれなかった。
どうして帰ってきたのとも、これからどうするのとも、言われなかった。
ただ、帰ってきた娘に、母は「おかえり」と言った。
「……ただいま」
梨花の声は震えた。
香代子は、梨花のキャリーケースを見て、少しだけ眉を下げた。
けれどすぐに笑った。
「寒かったでしょう。中に入って。お茶を淹れるから」
「私、自分で持つよ」
「いいの。今日くらい、持たせなさい」
香代子はそう言って、キャリーケースの取っ手に手を添えた。
母の手は細くなっていた。
けれど、その手はまだ温かかった。
*
玄関に入ると、畳と木の匂いがした。
東京の部屋では消えていた匂いだった。
洗剤や芳香剤ではない。
古い木、畳、少し湿った山の空気、奥から漂う出汁の香り。
梨花は靴を脱ぎ、上がり框に足を乗せた。
木がかすかに軋む。
昔から知っている音だった。
「足元、気をつけてね。そこの段差、少し削れてきてるの」
香代子が何気なく言った。
梨花は足元を見た。
確かに、框の端が少し丸くなっている。
何十年も、人の足がここを上がり降りした跡だった。
廊下の向こうから、湯気の匂いが流れてくる。
温泉の方だ。
ガラス戸の向こうには中庭があり、苔の上に落ち葉が散っていた。
石灯籠には薄く水気がついている。朝霧が残っているのか、山の空気が庭全体を白く包んでいた。
「変わってないね」
梨花は小さく言った。
香代子は笑った。
「変えられなかった、とも言うわね」
その言葉に、梨花は返事ができなかった。
母は明るく言ったつもりなのだろう。
けれど、その声の奥に、少しだけ疲れが滲んでいた。
帳場の前を通ると、古い電話機と予約台帳が目に入った。
横にはノートパソコンも置かれているが、画面の角に付箋がいくつも貼られている。
「ネット予約もやってるの?」
「一応ね。でも、あれは難しいわね。予約が入ったと思ったら、別のサイトにも反映しなきゃいけないし。写真も昔撮ったままだし」
香代子は苦笑した。
「若い人は、電話なんてあまりしてこないものね」
「サイト、見てもいい?」
「あとでね。まずはお茶」
香代子は梨花を奥の客間へ案内した。
梨花が子どもの頃に使っていた部屋は、二階の端に残っていた。
障子を開けると、低い机と古い本棚がそのまま置かれていた。
押し入れの前には、母が新しく敷いてくれた布団が畳まれている。
本当に、そのままだった。
けれど、壁紙の端は少し浮いていた。
窓枠には細かな傷がある。
畳も新しくはない。
手を入れなければいけない場所が、そこかしこに見えた。
「ごめんね、ちゃんと直してあげられなくて」
香代子が言った。
「そんなことない。懐かしい」
「そう言ってくれると助かるわ」
母は笑った。
でも、その笑顔が少しだけ無理をしていることを、梨花は見逃せなかった。
梨花は荷物を置き、階下へ戻った。
お茶と一緒に出されたのは、温泉まんじゅうだった。
昔から近所の店で買っているものだ。
黒糖の香りが懐かしくて、梨花は思わず両手で湯呑みを包んだ。
「直人さんには、ちゃんと話せたの?」
香代子は、静かに尋ねた。
梨花は湯呑みに視線を落とした。
「うん」
「そう」
「離婚届も出した」
「そう」
母は、それ以上すぐには聞かなかった。
梨花は、その沈黙に救われた。
根掘り葉掘り聞かれたら、きっと壊れてしまう。
「情けないね」
梨花は小さく笑った。
「三十二にもなって、出戻ってきちゃった」
「出戻りなんて言わないの」
香代子の声が、少しだけ強くなった。
梨花は顔を上げた。
母は、まっすぐ梨花を見ていた。
「帰ってきただけでしょう。疲れた時に帰れる場所があるなら、帰ってきていいの」
「でも……」
「でも、じゃないわ」
香代子は湯呑みを置いた。
「あなたが何を言われたのか、全部は知らない。でも、自分のことをそんなふうに言う必要はない」
梨花の喉が詰まった。
直人に「退屈」と言われた。
変わらないと言われた。
自分の五年間が、まるで価値のないもののように扱われた。
そのことを言葉にしたら、また本当になってしまいそうで怖かった。
「お母さん」
「うん」
「私、少しだけここにいてもいい?」
香代子は、驚いたように目を瞬かせた。
それから、困ったように笑った。
「少しだけなんて言わないで。いていいのよ。部屋はあるんだから」
梨花は頷いた。
けれど、その言葉に完全には甘えられなかった。
母の顔に滲んだ疲れを見てしまったからだ。
*
夕方、梨花は久しぶりに館内を歩いた。
客室は全部で十室。
大きな旅館ではない。
廊下は長すぎず、部屋の名前も昔から変わっていなかった。
山吹。
桔梗。
椿。
若葉。
子どもの頃、梨花はその札を見ながら、漢字を覚えた。
障子を開けると、畳の匂いがした。
窓の外には、山の影が見える。
部屋に置かれた座卓は古いが、角は丁寧に磨かれている。
座布団も新しいとは言えないが、きちんと日に干した匂いがした。
古い。
確かに古い。
東京で直人が好んだ新しいホテルのように、広いロビーもなければ、きらびやかな照明もない。
カードキーもない。
部屋の隅の洗面台も、少し年季が入っている。
けれど、梨花は知っていた。
この部屋で、長旅の夫婦がほっと息をついていたこと。
ひとりで来た女性が、朝食をゆっくり食べて帰っていったこと。
祖父が客の靴をそっとそろえていたこと。
祖母が子どもの浴衣の袖を直してあげていたこと。
古いだけではない。
そう思いたかった。
けれど同時に、直人の言葉が胸の中で響く。
退屈。
変わらない。
それだけ。
自分も、この旅館も、もう選ばれないものになったのだろうか。
廊下の先から、香代子の声がした。
「梨花、ちょっと手伝ってもらえる?」
「うん」
帳場へ行くと、香代子がパソコンの前で困った顔をしていた。
「予約の変更が来てるんだけど、こっちのサイトでは変更できてるのに、もう一つの方に反映されなくて」
梨花は画面を覗き込んだ。
古い予約管理画面。
小さな文字。
いくつものタブ。
同じ宿泊プランが、別々のサイトに違う名前で載っている。
「これ、全部手で直してるの?」
「そうなの。前に業者さんに頼んだんだけど、月の費用が高くてね。結局、できる範囲でやってるの」
香代子は軽く笑った。
「お母さん、こういうの苦手だから」
梨花はマウスを動かしながら、胸の奥がざわつくのを感じた。
予約表を開くと、今週末の欄に丸は二つしかなかった。
平日の欄は、白いままだった。
梨花はその白さを見て、役所で見た離婚届の空白を思い出してしまった。
名前が入らなかった欄。
誰にも選ばれなかった場所。
ぽっかりと残された白。
七瀬屋の予約表にも、同じような白さが広がっていた。
口コミ欄には、良い言葉もあった。
「静かで落ち着いた宿」
「朝食がおいしい」
「女将さんが親切」
けれど、その下に並ぶ点数は高くなかった。
「設備が古い」
「サイトの写真と実際の印象が違う」
「英語案内がなく、外国人の家族には少し難しかった」
「若い人向けではない」
梨花は、画面を見つめた。
「ごめんね、嫌なもの見せちゃったわね」
「ううん」
梨花は首を振った。
「これ、お客様の声だもんね」
自分で言ってから、少し驚いた。
結婚生活では、直人の顔色ばかり見ていた。
けれど旅館にいた頃、母や祖母はよく言っていた。
お客様の不満は、怒りじゃなくて、困った声として聞きなさい。
その言葉を、まだ覚えていた。
「そうね」
香代子は梨花を見て、少しだけ表情を和らげた。
「あなた、昔からそういうところがあったわね」
「そういうところ?」
「お客様が本当は何に困っているのか、よく見ていた」
梨花は曖昧に笑った。
「そんなの、誰でも見るよ」
「そうかしら」
香代子はそれ以上、何も言わなかった。
梨花は予約画面を閉じようとして、机の端に置かれていた帳簿に目を留めた。
表紙の角が擦り切れた、古い帳簿だった。
「これ、今の?」
「見なくていいわ」
香代子の声が、少し早くなった。
梨花は手を止めた。
「お母さん」
「大丈夫。あなたは帰ってきたばかりなんだから、まずは休みなさい」
「でも」
「大丈夫よ」
母は笑った。
けれど、その笑顔は昼間よりもさらに薄かった。
*
夜、七瀬屋は静かだった。
宿泊客は二組だけだった。
一組は年配の夫婦。
もう一組は、近くを歩くために来たという男性のひとり客。
梨花は夕食の配膳を少し手伝った。
久しぶりだったのに、体は少しだけ覚えていた。
椀を置く向き。
皿を下げる間合い。
廊下の段差を案内する一言。
どれも、子どもの頃に母や祖母の背中を見て覚えたものだった。
「ありがとう」
年配の女性客が言った。
「やっぱり、こういう宿は落ち着くわね」
梨花は思わず頭を下げた。
「ありがとうございます」
その一言だけで、胸の奥が少し温かくなった。
誰かのためにした小さなことが、ちゃんと届く場所。
それを忘れていた。
食事処の片づけが終わる頃、香代子は厨房で鍋を洗っていた。
梨花も隣に立ち、器を拭いた。
「手つき、変わってないわね」
「子どもの頃、ずっとやってたから」
「そうね。あの頃は、あなたが宿を継ぐなんて言ったら、絶対嫌だって逃げてたのに」
「だって、休みもないし、大変そうだったから」
「今も大変よ」
香代子は笑った。
その笑い方が少し寂しくて、梨花は手元の布巾を握った。
「お母さん、一人で大変だったね」
「急にどうしたの」
「見てたら分かるよ」
香代子は鍋を洗う手を止めなかった。
「お父さんが亡くなってから、もう十年になるもの。慣れたわ」
「慣れるものなの?」
「慣れるしかないこともあるのよ」
水音だけが、しばらく続いた。
梨花は、その横顔を見た。
母は明るく振る舞っている。
けれど、目元には深い疲れがあった。
梨花は、直人に捨てられた自分のことだけでいっぱいだった。
けれど母はその間も、この宿を守り続けていたのだ。
客室。
温泉。
厨房。
帳場。
庭。
予約。
支払い。
修繕。
そのすべてを背負って。
「お母さん」
「なあに」
「私にできること、ある?」
香代子は一瞬だけ梨花を見た。
けれどすぐに笑った。
「今は、休むこと」
「そればっかり」
「本当にそう思ってるのよ」
母の声は優しかった。
でも、その優しさの裏に「あなたにまで背負わせたくない」という気持ちが見えた。
梨花は、それ以上言えなかった。
*
深夜、梨花は眠れなかった。
布団に入っても、東京の部屋の光景が浮かんだ。
白い離婚届。
直人の背中。
莉央のメッセージ。
冷めた味噌汁。
目を閉じても、胸の奥がざわつく。
梨花はそっと起き上がり、羽織を肩にかけた。
廊下へ出ると、木の床が小さく鳴った。
夜の七瀬屋は、昼間とは違う顔をしていた。
廊下の灯りは控えめで、障子の向こうに庭の影がぼんやり浮かんでいる。
遠くで温泉の湯が流れる音がした。
湯気の匂いが、かすかに漂ってくる。
帳場の方に、まだ明かりがついていた。
梨花は足音を忍ばせて近づいた。
母が一人で座っていた。
眼鏡をかけ、帳簿を開き、電卓を叩いている。
昼間は梨花に見せなかった帳簿だった。
香代子の肩は小さく丸まっていた。
いつも背筋を伸ばして客を迎える女将の姿ではなく、一人の疲れた母の背中だった。
梨花は声をかけようとして、止まった。
帳簿の数字が、ちらりと見えた。
赤い線。
修繕費。
借入。
予約数。
支払い予定。
詳しく分からなくても、良い状態ではないことだけは分かった。
香代子は、電卓を置いた。
そして、誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやいた。
「この冬を越せるかしら……」
梨花は息を呑んだ。
胸の奥で、何かが静かに崩れた。
東京にも、結婚にも、もう居場所はなかった。
それでも、ここには帰る場所があると思っていた。
けれど、その帰る場所まで、失われようとしている。
梨花は帳場の柱にそっと手を添えた。
磨かれた木の感触が、掌に冷たく伝わる。
百五十年、人を迎えてきたこの宿が。
母が一人で守ってきたこの場所が。
自分を黙って受け入れてくれたこの家が。
自分の帰る場所だと思っていたものが、
自分より先に、消えようとしている。
この宿は、梨花を受け入れてくれた。
何も聞かずに、ただ帰ってきた娘を迎えてくれた。
けれど、迎えてくれた場所そのものが、もう限界に近い。
帰る場所があると思った。
でも、その場所まで消えようとしている。
そう思った時、玄関の外で低いエンジン音がした。
梨花は顔を上げた。
こんな時間に、客が来るはずはない。
今日の宿泊客は、もう全員そろっている。
玄関の硝子戸の向こうで、雨に濡れたヘッドライトが白く光った。
いつの間にか、外では細い雨が降り始めていた。
庭の苔が濡れ、古い石畳が黒く光っている。
香代子も音に気づき、帳簿から顔を上げた。
「こんな時間に……?」
梨花は柱から手を離した。
胸の奥に、理由の分からない不安が広がる。
それでも、体は自然に玄関へ向かっていた。
古い廊下が、足元で小さく軋む。
硝子戸の向こうに、一台の黒い車が停まっていた。
七瀬屋の古びた玄関には似合わない、静かで、艶のある高級車だった。
「おかえり」と迎えてくれた母。
その優しさに救われた梨花ですが、守られているばかりではいられない現実を知ります。
そして、雨の夜。
古い旅館の玄関に、一台の黒い高級車が現れました。
この出会いが、梨花と七瀬屋の運命を変えていきます。




