第3話 黒い高級車から降りてきた男は、私を笑わなかった
雨の夜、七瀬屋を訪れた一人の男性。
高級車から降りてきた彼は、古い建物も、飾らない梨花の姿も笑いませんでした。
その静かな眼差しは、なぜか懐かしいものを見つめているようで……。
謎めいた宿泊客・佐伯蓮との出会いをお届けします。
黒い車のドアが、雨音の中で静かに開いた。
七瀬屋の玄関先に、細い雨が降っている。
古い石畳は濡れて黒く光り、軒先の灯りがそこにぼんやり映っていた。
梨花は硝子戸の内側で、息を止めていた。
こんな時間に、予約のない客が来ることは滅多にない。
まして、今夜の宿泊客はもう全員そろっている。
帳場では、母の香代子が開いたままの帳簿を前にして、困惑した顔で玄関の方を見ていた。
「……お客様かしら」
香代子の声は小さかった。
梨花は返事をする代わりに、自分の足元を見た。
古いサンダルだった。
東京から戻ってきた荷物の中から、何も考えずに履いたものだ。かかとの部分は少し擦れていて、雨の玄関へ出るには頼りない。
髪もきちんと結んでいない。
眠れずに布団を抜け出したまま、羽織を肩にかけただけの姿だった。
東京の部屋なら、直人に言われていたと思う。
みっともない。
そういうところが、もう少し何とかならないのか。
人前に出る格好じゃないだろ。
梨花は、思わず羽織の前を合わせた。
けれど、ここは七瀬屋だった。
玄関に客が来たのなら、誰かが出なければならない。
「私、見てくる」
「梨花、無理しなくていいのよ」
「大丈夫」
声は少し震えた。
でも、足は玄関へ向いていた。
梨花は硝子戸を開けた。
雨の匂いが流れ込んできた。
濡れた木と土の匂い。石畳を打つ細い雨音。車のエンジンが切れる静かな音。
黒い車のそばに、一人の男が立っていた。
背が高い。
黒いコートを着て、手には傘を持っている。
年齢は、三十代後半くらいだろうか。
整った顔立ちなのに、華やかというより、静かな印象の男だった。
その場に立っているだけで、七瀬屋の古びた玄関先の空気が少し変わったように見えた。
男は梨花を見ると、すぐに傘を少し傾けた。
視線は、梨花の顔に向けられていた。
足元を見下ろさなかった。
古いサンダルにも、乱れた髪にも、羽織だけの姿にも、嫌な顔をしなかった。
ただ、丁寧に頭を下げた。
「夜分に申し訳ありません」
低く落ち着いた声だった。
梨花は一瞬、言葉を失った。
こんな時間に現れた男に警戒していたはずなのに、その声音には無理に踏み込んでくる強さがなかった。
「……あの、どちら様でしょうか」
「予約はしていません。急に箱根に来ることになりまして」
男は少しだけ視線を上げ、七瀬屋の暖簾を見た。
「今夜、泊まれますか」
梨花は振り返った。
帳場の方で、香代子がこちらを見ている。
空室はある。
空室は、ありすぎるほどある。
けれど、こんな時間に突然来た客を泊めていいのか。
しかも、この車だ。
この男の佇まいは、七瀬屋の普段の客とは少し違っていた。
梨花が迷っていると、男は静かに続けた。
「無理なら、別の宿を探します。突然来てしまったこちらが悪いので」
その言い方に、梨花は少しだけ肩の力を抜いた。
直人なら、こういう時、相手が断りにくい言い方をした。
自分が困っていることを前に出して、相手に譲らせる。
でもこの男は、七瀬屋の都合を先に置いた。
香代子が奥から出てきた。
「お泊まりですか」
「はい。ご迷惑でなければ」
男は香代子にも丁寧に頭を下げた。
香代子は一瞬だけ男を見つめ、それから女将の顔になった。
「お部屋はございます。古い宿で、ご不便もあるかと思いますが」
「こういう宿を探していました」
男は、はっきりそう言った。
梨花は思わず男を見た。
こういう宿。
直人が言った「変わらない」「退屈」という言葉が、まだ胸の奥に残っていた。
だからこそ、その一言が不思議に耳に残った。
香代子も少し驚いたようだったが、すぐに微笑んだ。
「ありがとうございます。では、どうぞお入りください。雨でお足元が悪かったでしょう」
「失礼します」
男は傘を閉じ、玄関へ入った。
梨花は慌てて傘立てを差し出した。
「あ、こちらに」
「ありがとうございます」
男の手が、梨花の手元の少し手前で止まった。
傘を預ける時も、強く押しつけることはしない。
梨花の動きを待つような仕草だった。
たったそれだけのことなのに、梨花は戸惑った。
待ってもらうことに慣れていなかった。
直人の前では、いつも先に気づいて、先に動かなければならなかった。
男は靴を脱いだ。
濡れた革靴を、梨花がそろえようとすると、彼は少し身を屈めた。
「自分で」
「あ……いえ、お客様ですから」
「では、お願いします」
押しつけるでもなく、遠慮しすぎるでもなく、男は自然に任せた。
梨花は靴をそろえた。
その間も、男の視線が背中に刺さる感じはしなかった。
「お名前をお願いできますか」
香代子が帳場へ戻り、宿泊名簿を開いた。
男はペンを取り、静かに名前を書いた。
佐伯蓮。
整った、迷いのない字だった。
梨花は、その名前を目で追った。
どこかで聞いたことがあるような気がした。
けれど、すぐには思い出せなかった。
「佐伯様ですね。お部屋へご案内します」
「ありがとうございます」
梨花は鍵を取った。
「私が案内するね」
香代子は少し心配そうに梨花を見た。
「大丈夫?」
「うん。部屋、山吹でいい?」
「ええ。お湯もまだ大丈夫だから」
梨花は小さく頷き、佐伯蓮の方へ向き直った。
「こちらです」
*
廊下は夜の湿気を含んでいた。
雨の音は遠くなり、代わりに古い床板の軋む音が小さく響く。
帳場の灯りから離れるにつれて、廊下の明かりは柔らかくなる。
柱の陰が畳の上に長く伸びていた。
梨花は少し緊張しながら歩いた。
背後にいる蓮の足音は静かだった。
急かすこともなく、遅すぎることもなく、梨花の歩く速度に合わせている。
「お荷物、お持ちします」
梨花は振り返った。
蓮は小さな革のバッグを一つ持っているだけだった。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「ご夕食は……」
「済ませてきました。もし可能であれば、朝食をいただければ」
「はい。朝食は八時からですが、お時間は調整できます」
「八時でお願いします」
会話は短い。
けれど、嫌な沈黙ではなかった。
廊下の途中で、蓮がふと足を止めた。
梨花もつられて止まる。
「どうかされましたか」
蓮は、廊下の柱を見ていた。
帳場から客室へ向かう途中にある、太い柱だった。
何度も人の手が触れた場所だけ、深い艶が出ている。
子どもの頃、梨花はよくその柱に背をつけて、身長を測っていた。
蓮はその柱に近づき、触れるか触れないかの距離で手を止めた。
「……まだ、この柱が残っていたんですね」
梨花は目を瞬いた。
「ご存じなんですか」
蓮は、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「昔、こちらに泊まったことがあります」
「七瀬屋に?」
「はい」
梨花は驚いた。
七瀬屋には長く続いている常連客もいる。
けれど、この男のような人が、以前ここに泊まったことがあるとは想像していなかった。
「いつ頃ですか」
「かなり前です。まだ私が、今よりずっと余裕のない人間だった頃です」
その言い方は冗談のようでもあり、本音のようでもあった。
梨花は返す言葉に迷った。
蓮は、それ以上は話さず、柱から視線を離した。
「すみません。懐かしくて」
「いえ」
梨花は首を振った。
「この柱を覚えている方がいるなんて、思わなかったので」
「忘れにくい柱です」
蓮は静かに言った。
「よく磨かれている」
「祖母が、毎朝拭いていたんです。今は母が」
「そうですか」
蓮はもう一度、柱を見た。
その目は、古いものを値踏みする目ではなかった。
傷や色あせを探す目でもなかった。
そこに残っている時間を、確かめるような目だった。
梨花は、不思議な気持ちになった。
直人は、古いものを見る時、だいたい笑った。
まだこれ使ってるの。
今どきそれはないだろ。
新しくした方がいいんじゃないか。
そんな言葉が、いつも先に来た。
けれど蓮は笑わない。
古い柱の前で、少しだけ立ち止まった。
「お部屋、こちらです」
梨花は襖の前で足を止めた。
山吹の間。
庭側の客室だった。
鍵を開け、障子を少し開ける。
中には畳の匂いが満ちていた。
古い座卓。
低い椅子。
床の間には、母が生けた椿が一輪ある。
「古いお部屋ですが、今夜はこちらで」
「十分です」
蓮は部屋へ一歩入り、畳に視線を落とした。
梨花は部屋の説明をした。
「お布団は後ほど敷かせていただきます。お風呂は廊下を突き当たりまで進んで、右手です。大浴場といっても小さいのですが、温泉です。浴衣はこちらにあります。お茶はこの急須をお使いください」
いつもの説明のはずなのに、少し緊張して早口になった。
蓮はひとつひとつ、丁寧に頷いた。
「ありがとうございます」
「何かございましたら、帳場へお声がけください」
「はい」
梨花は頭を下げ、部屋を出ようとした。
その時、蓮が言った。
「七瀬さん」
梨花は振り返った。
名簿で母が名字を確認したからだろうか。
まだ名乗っていないのに、名字で呼ばれて少し驚いた。
「はい」
「こんな時間に、ありがとうございました」
「いえ。空室はありましたので」
「それでも、助かりました」
蓮はまっすぐ梨花を見た。
その視線に、梨花は少しだけ戸惑った。
見られているのに、値踏みされていない。
責められてもいない。
笑われてもいない。
ただ、一人の人間として、そこに立っていることを認められているような目だった。
梨花は小さく頭を下げた。
「ごゆっくりお休みください」
部屋を出て襖を閉めたあと、梨花は廊下で小さく息を吐いた。
心臓が、少し早く動いていた。
怖かったわけではない。
けれど、落ち着かなかった。
黒い車。
静かな声。
古い柱を懐かしそうに見た目。
そして、笑わなかったこと。
それらが、梨花の胸に引っかかっていた。
*
帳場へ戻ると、香代子は宿泊名簿を閉じているところだった。
「お母さん?」
梨花が声をかけると、香代子は顔を上げた。
「ああ、お疲れさま」
「何か気になることでもあった?」
「いいえ。ただ、不思議なお客様ね」
「不思議?」
「こんな雨の夜に予約なしでいらして、こういう宿を探していたなんて」
「うん」
梨花は廊下の方を振り返った。
「昔、泊まったことがあるって言ってた。柱を見て、まだ残っていたんですねって」
香代子の表情が少し変わった。
「柱を?」
「うん」
「そう」
香代子は、ゆっくりと帳場の奥へ視線を向けた。
「あの柱を覚えていてくださるなんて、ありがたいわね」
「普通、覚えてるかな。あんな柱」
「覚えている方は、覚えているのよ」
香代子は静かに言った。
「旅館って、そういう場所だから」
梨花は母を見る。
「そういう場所?」
「泊まった方の人生の、ほんの一晩だけお預かりする場所」
香代子は名簿の角を、そっと指でなぞった。
「こちらが忘れていても、お客様の方が覚えていてくださることもあるの」
梨花は返事をしなかった。
自分も、誰かの記憶に残るようなことをしたことがあるのだろうか。
そう思いかけて、すぐに打ち消した。
直人には、何も残せなかった。
五年間そばにいても、最後に言われたのは退屈だという言葉だった。
自分が誰かの記憶に残るなんて、考えられなかった。
「梨花、もう休みなさい」
「お母さんは?」
「帳簿を少し片づけたら寝るわ」
「無理しないで」
「あなたもね」
香代子は笑った。
梨花は頷いたが、自分の部屋へ戻る気にはなれなかった。
廊下の奥が気になった。
山吹の間にいる、佐伯蓮という男のことが。
ただの宿泊客。
そう思おうとした。
けれど、ただの宿泊客にしては、あの人は七瀬屋の空気を知りすぎている気がした。
*
しばらくして、梨花は客室用の替えタオルを持って廊下へ出た。
山吹の間へ直接行くつもりはなかった。
ただ、脱衣所の棚を確認しておきたかった。
遅い時間に来た客が、温泉に入ろうとした時、タオルが足りなかったら困る。
廊下は静かだった。
雨音が、屋根の向こうで細く続いている。
庭の苔は濡れ、障子の向こうに黒い影を落としていた。
温泉の湯が流れる音が、遠くからかすかに聞こえる。
梨花が廊下を曲がった時、柱の前に人影があった。
佐伯蓮だった。
部屋に入ったはずの彼が、先ほどの柱の前に立っていた。
手には浴衣とタオルを持っている。
温泉へ向かう途中で、足が止まったようだった。
白いシャツに、落ち着いた色の上着を羽織った姿で、静かに柱を見上げている。
梨花は足を止めた。
「佐伯様」
声をかけると、蓮はゆっくり振り向いた。
「すみません。勝手に出てしまって」
「いえ。お風呂でしたら、あちらです」
「ありがとうございます。少し、この柱を見ていました」
蓮は、柱にそっと手を添えた。
その仕草は、とても静かだった。
古いものを確かめるというより、誰かに挨拶をするようだった。
「百五十年、人を迎え続けた木ですね」
梨花は息を止めた。
百五十年。
その言葉は、看板に書かれている数字でしかなかった。
創業百五十年。
古い旅館。
時代遅れ。
選ばれなくなった場所。
そう思いかけていた。
けれど蓮の声で聞くと、その数字が少し違って聞こえた。
百五十年、人を迎え続けた木。
古いだけではない。
誰かを迎え、送り出し、また迎えてきた時間。
梨花は、蓮の横顔を見つめた。
蓮の目は、柱を見ているようで、柱だけを見ているのではなかった。
その向こうにある時間を。
かつてここで過ごした誰かの夜を。
そして、梨花の知らない七瀬屋の記憶を見ているようだった。
この人は、七瀬屋の何を知っているのだろう。
ただの宿泊客ではない。
そう感じた理由を、梨花はまだ言葉にできなかった。
蓮は柱から手を離し、静かに梨花を見た。
「七瀬さん」
「はい」
「明日の朝食は、いただけますか」
「もちろんです。八時にご用意します」
梨花がそう答えると、蓮は少しだけ目を細めた。
「昔、こちらでいただいた朝食を、もう一度」
「昔……?」
梨花は聞き返した。
けれど蓮は、それ以上は言わなかった。
「明日の朝、お話しします」
雨音だけが、古い廊下に落ちていた。
梨花はその場に立ち尽くしたまま、思った。
この人は、梨花の知らない七瀬屋を覚えている。
そしてもしかしたら、梨花自身が忘れている何かも。
古い柱を見つめる蓮の姿が、梨花の心に残りました。
彼は、ほかの誰とも違う目で七瀬屋を見ています。
そして、何気なく口にした「昔の朝食」という言葉。
初めて会ったはずの男性は、なぜこの旅館を知っているのでしょうか。




