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元夫に捨てられた私ですが、箱根の老舗旅館でホテル王に溺愛されています  作者: ちょこまろ


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第1話 離婚届を置いて、夫は若い女のもとへ行った

結婚して五年。夫を信じ、穏やかな家庭を守ってきた梨花。


けれど、彼女が大切にしてきた毎日は、夫にとって何だったのでしょうか。


一枚の離婚届から始まる、32歳の女性の人生再出発の物語です。

 柏木直人は、梨花の前に一枚の紙を置いた。

 離婚届だった。


 リビングのテーブルの上で、その紙だけが妙に白く見えた。


 夕食は、もうできていた。

 味噌汁は火を止めてある。焼き魚は皿に移し、冷めないようにアルミホイルをかけていた。小鉢には、直人が好きだと言っていた大根おろしも添えてある。


 結婚して五年。

 梨花は、何度も同じ夜を繰り返してきた。


 直人の帰宅時間に合わせて夕食を用意する。

 遅くなると連絡があれば、温め直す。

 疲れた顔で帰ってくる夫に「おかえり」と言う。

 機嫌がよければ、直人は「ただいま」と返した。

 機嫌が悪ければ、返事もせずにスーツの上着を椅子へ投げた。


 それでも梨花は、怒らなかった。


 仕事で疲れているのだと思っていた。

 観光PR会社で働く直人は、いつも忙しそうだった。ホテルの案件、旅館の撮影、観光地のキャンペーン、広告代理店との打ち合わせ。聞き慣れない言葉を並べながら、毎晩のように愚痴をこぼした。


 梨花は、その愚痴を聞いた。

 直人が黙ってほしそうな時は黙り、相槌がほしそうな時は相槌を打った。

 義母からの電話にも丁寧に出た。親戚付き合いも、季節の贈り物も、直人が忘れている予定も、梨花が覚えていた。


 そういうものだと思っていた。

 夫婦とは、派手なものではなく、毎日の小さなことを積み重ねるものなのだと信じていた。


 けれど直人は、その五年間の上に、離婚届を置いた。


「……なに、これ」


 梨花の声は、自分でも驚くほど小さかった。


 直人は椅子に座り、ネクタイを緩めた。

 帰ってきたばかりなのに、この家にいること自体がもう面倒だと言いたげな顔だった。


「見れば分かるだろ」


「分からないよ」


「離婚届だよ」


 直人は梨花を見なかった。

 焼き魚にも、味噌汁にも、梨花にも目を向けず、ただテーブルの隅に置いたスマホを指先で触っている。


 その仕草を見て、梨花の胸が冷えた。


 話し合うために帰ってきた人の手ではなかった。

 もう決めたことを、ただ伝えるために帰ってきた人の手だった。


「どうして」


 やっと出た言葉は、それだけだった。


 直人は短く息を吐いた。


「好きな人ができた」


 リビングの空気が止まった。


 梨花はまばたきをした。

 一度。

 二度。


 それでも直人の言葉は消えなかった。


「……好きな人?」


「ああ」


「誰」


 聞かなければよかった。

 けれど、聞かずにはいられなかった。


 直人は少しだけ眉を寄せた。

 責められていると思ったのかもしれない。

 でも梨花には、責めるほどの力もなかった。


「会社の後輩。宮原莉央」


 名前には聞き覚えがあった。


 SNS企画が得意な若い後輩。

 流行に敏感で、写真の見せ方がうまくて、クライアントにも可愛がられている子。

 直人は以前から、莉央のことをよく話していた。


「若い子は発想が違うんだよ」

「莉央の企画、今っぽいんだ」

「ああいう感覚、梨花には分からないだろうけど」


 そのたびに梨花は笑っていた。


「そうなんだ」

「直人も助かるね」


 そう言いながら、自分の中に小さく生まれた不安を押し込めていた。

 不安は、当たっていた。

 ただ、梨花が見ないふりをしていただけだった。


「いつから」


「それを聞いてどうするんだよ」


「……私には、聞く権利もないの?」


 直人はようやく梨花を見た。

 その目に、罪悪感は少しあった。

 けれどそれ以上に、面倒くささが浮かんでいた。


 梨花は、その目を知っていた。


 義母の前で梨花が言葉に詰まった時。

 直人の愚痴にうまく相槌を打てなかった時。

 梨花が風邪を引いて夕食を作れなかった時。


 直人は同じ目をした。


 この女は、どうして自分を気持ちよくしてくれないのだろう。

 そんな目だった。


「梨花」


 直人は名前を呼んだ。

 久しぶりに名前を呼ばれた気がした。

 けれど、その声は優しくなかった。


「俺、もう無理なんだ」


「無理って……」


「梨花といると、人生が止まった気がする」


 胸の奥を、細い針で刺されたようだった。


「止まった……?」


「悪い意味じゃない。君は悪い人じゃないよ」


 直人は、そう前置きした。

 その言い方が、余計に残酷だった。


「家のこともしてくれたし、俺の親とも付き合ってくれた。感謝してないわけじゃない。でもさ」


 直人は一度、言葉を切った。

 そして、梨花を見ることなく言った。


「君は悪い人じゃない。でも、退屈なんだ」


 梨花は息を吸えなかった。


 退屈。


 その二文字が、五年間の食卓に落ちた。

 温め直した味噌汁にも、畳んだワイシャツにも、義母へ送った季節の菓子にも、直人が深夜にこぼした愚痴を聞き続けた夜にも、全部にその言葉が貼られていく。


 退屈。


 梨花が大事にしてきた日々は、直人にとって、そういうものだったのだ。


「梨花はさ、変わらないんだよ」


 直人は続けた。


「昔からずっと同じ。静かで、地味で、何でも受け入れて。安心はするけど、それだけなんだ」


「それだけ……」


「そういうところが、今の俺には合わない」


 直人の言葉は、淡々としていた。

 けれど梨花には、刃物よりも痛かった。


 変わらない。

 地味。

 それだけ。


 直人は気づいていない。

 梨花が大切にしてきたものを、彼が何度も「時代遅れ」と笑っていたことを。

 そのたびに梨花が、小さく胸を痛めていたことを。


「莉央は違う」


 直人の声に、梨花へ向ける時にはない熱が混じった。


「一緒にいると刺激がある。新しいことを考えられる。俺もまだ前に進める気がする」


「私は……」


 梨花は膝の上で指を握った。


 私は、あなたの話を聞いていた。

 あなたが帰ってくる場所を整えていた。

 あなたが忘れていたことを、私が覚えていた。

 あなたが疲れている夜に、温かいものを出したかった。


 そう言いたかった。


 けれど言葉は喉で固まった。


 直人にとって、それは前へ進むことではなかった。

 ただ、そこにあって当然の背景だったのだ。


 梨花は、テーブルの上の離婚届を見た。

 すでに直人の欄には名前が書かれていた。印鑑も押されている。

 梨花の欄だけが、ぽっかりと空白だった。


 柏木直人。


 昔、その字が好きだった。

 婚姻届に並んだ二人の名前を見て、これから家族になるのだと思った。


 今、その同じ字が、梨花を切り離そうとしていた。


「莉央さんは……知ってるの?」


「何を」


「私たちが、まだ夫婦だってこと」


「知ってる」


 直人はあっさりと言った。


「でも、もう終わってるって話してある」


 梨花は、笑いそうになった。


 終わっている。


 梨花が知らないうちに、直人の中ではもう終わっていた。

 夕食を作っている間に。

 洗濯物を畳んでいる間に。

 義母の電話に頭を下げている間に。


 梨花だけが、まだ夫婦を続けているつもりだった。


「私は、終わったなんて思ってなかった」


「だから、今話してる」


 直人は少し苛立ったように言った。


「ちゃんと話そうとしてるだろ」


 ちゃんと。


 梨花は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 離婚届に名前を書いてから。

 好きな人ができたと告げてから。

 相手に「もう終わっている」と説明してから。


 それでも直人は、ちゃんと話しているつもりなのだ。


 テーブルの上で、スマホが震えた。


 直人のスマホだった。


 二人の視線が、同時にそちらへ向く。


 画面は上向きになっていた。

 通知が光る。


 莉央。


 名前を見た瞬間、梨花の体が冷たくなった。


 直人は慌ててスマホを手に取った。

 けれど、梨花の目には短いメッセージが見えてしまった。


『まだ終わらないんですか?』


 続けて、もう一つ。


『直人さん、待ってます』


 さらに、もう一つ。


『早く来てください』


 梨花は、もう何も言えなかった。


 自分の結婚が終わる場面を、別の女が待っている。

 梨花の目の前に離婚届を置き、五年間の生活を退屈だと言った男を。


 直人はスマホを伏せた。


「悪い」


 何に対する謝罪なのか、梨花には分からなかった。


 メッセージを見せてしまったことなのか。

 莉央を待たせていることなのか。

 梨花を傷つけたことなのか。


 たぶん、直人自身にも分かっていない。


「今日は出る」


「今から?」


「ああ。莉央が待ってる」


 梨花の胸に、鈍い痛みが広がった。


「今日くらい……ここにいて、ちゃんと話してくれないの」


「話しただろ」


「まだ、私は何も……」


「梨花」


 直人の声が低くなった。


「そうやって引き止めるの、やめてくれないか」


 梨花は口を閉じた。


 引き止めている。

 そう見えるのだろうか。


 ただ、あまりにも急に床が抜けたから、どこかにつかまりたかっただけだった。

 けれど直人には、それさえ重いのだ。


 直人は立ち上がった。

 クローゼットからコートを取り、財布と鍵をポケットに入れる。


 梨花は、その背中を見ていた。


 何度も見送ってきた背中だった。

 仕事へ行く朝。

 飲み会へ行く夜。

 休日に一人で出かける午後。


 そのたびに梨花は、「いってらっしゃい」と言った。


 今日も言うべきなのだろうか。


 若い女のもとへ行く夫に。

 離婚届を置いていく夫に。


「直人」


 玄関へ向かう直人を、梨花は呼び止めた。


 直人は振り返った。


「何」


 冷たい声だった。


 梨花は、言いたいことを探した。


 どうして。

 行かないで。

 私は何が足りなかったの。

 五年間は何だったの。

 私のことを、一度でもちゃんと見てくれていたの。


 言葉はたくさんあった。


 けれど、どれも声にならなかった。


「……夕食」


「え?」


「作ってあるから」


 直人は一瞬、目を細めた。

 そして、困ったように息を吐いた。


「そういうところだよ」


 梨花は動けなかった。


「そういうところが、退屈なんだ」


 玄関のドアが閉まった。


 鍵の音がした。

 足音が遠ざかる。

 エレベーターの到着音。

 そして、静けさ。


 梨花はリビングに立ち尽くしていた。


 テーブルの上には、離婚届。

 二人分の夕食。

 湯気の消えた味噌汁。


 アルミホイルの下で、焼き魚は冷めていく。

 梨花のために残されたものみたいに。


 誰かを待つために作った夕食が、こんなにも惨めなものに見えたのは初めてだった。


 温かいものを出したかった。

 疲れて帰ってくる人に、少しでもほっとしてほしかった。


 それは梨花にとって、愛情だった。


 けれど直人にとっては、退屈の一部でしかなかったのかもしれない。


 しばらくして、梨花は椅子に座った。

 指先が震えていた。

 寒いわけではない。部屋は暖房が効いている。

 それなのに、体の真ん中だけが冷たかった。


 離婚届には、まだ触れられなかった。


 紙に触れたら、すべてが本当になってしまいそうだった。


 退屈。

 変わらない。

 それだけ。


 直人の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


 それでも、梨花は思った。


 私がしてきたことは、本当にそんなに空っぽだったのだろうか。


 夕食を作ったこと。

 愚痴を聞いたこと。

 親戚付き合いを覚えたこと。

 直人が疲れている日に、何も聞かずに温かいお茶を出したこと。


 それは本当に、何の価値もないことだったのだろうか。


 答えは出なかった。


 ただ、今の梨花には、その問いを声にする相手がもういなかった。


   *


 夜は深くなっていた。


 梨花は、冷めた夕食を片づけた。

 食べることはできなかった。

 直人の分も、自分の分も、ほとんど手つかずのまま流しへ運んだ。


 焼き魚を捨てる時、なぜか涙が出そうになった。

 離婚届では泣けなかったのに、冷えた魚の身が崩れるのを見て、胸が詰まった。


 こんなものを、まだ作っていた。

 直人が帰ってくると思って、まだ待っていた。


 食器を洗い終えると、部屋はますます静かになった。


 直人の歯ブラシ。

 直人のマグカップ。

 直人が脱ぎっぱなしにした部屋着。

 ソファの背にかけられたブランケット。


 この部屋のあちこちに、直人の生活が残っている。

 なのに、梨花の居場所だけが消えていた。


 ふと、スマホの画面が光っていることに気づいた。


 着信ではない。

 留守番電話の通知だった。


 昼間に入っていたものだ。

 忙しさに紛れて、まだ聞いていなかった。


 表示された名前を見て、梨花は息を止めた。


 母。


 箱根の実家からだった。


 梨花はスマホを握り、再生ボタンを押した。


 少し雑音が入ったあと、懐かしい声が流れた。


『梨花、元気にしてる?』


 その声を聞いた瞬間、梨花の目の奥が熱くなった。


 母の香代子は、いつも明るく話す。

 たとえ大変な時でも、電話口では笑っているような声を出す。


『忙しいところごめんね。直人さんも元気? 寒くなってきたから、二人とも風邪ひかないようにね』


 梨花は唇を噛んだ。


 直人さんも元気。

 二人とも。


 その言葉が、今は遠い場所の会話のように聞こえた。


『こっちはね、朝霧が出るようになったよ。芦ノ湖の方まで白くなって、庭の苔もしっとりして、昔みたいにきれいでね』


 母の声の向こうに、箱根の朝が浮かんだ。


 木の玄関。

 磨き込まれた柱。

 廊下を歩くと、少しだけ軋む音。

 温泉の湯気。

 朝の厨房で立ちのぼる味噌汁の匂い。


 梨花が生まれ育った場所。

 帰らなくなって、ずいぶん経つ場所。


『でもね……』


 母の声が、少しだけ小さくなった。


 梨花はスマホを耳に押し当てた。


『七瀬屋も、そろそろ厳しくてね……』


 胸が、また別の痛みで締めつけられた。


『お客様も前みたいには来ないし、建物もあちこち直さなきゃいけないし。お母さん一人だと、なかなかね。でも、心配かけたいわけじゃないのよ。ただ、声が聞きたくなって』


 電話の向こうで、母が小さく笑った。


『また落ち着いたら、帰っておいで。あなたの部屋、まだそのままにしてあるから』


 留守電は、そこで終わった。


 梨花はスマホを握ったまま、動けなかった。


 あなたの部屋、まだそのままにしてあるから。


 その言葉が、胸の中で何度も響いた。


 東京のこの部屋には、もう梨花の居場所はない。

 五年間守ろうとした結婚にも、梨花の居場所はない。

 直人は若い女のもとへ行き、梨花のために用意した夕食は流しに消えた。


 それなのに、箱根の古い旅館には、まだ梨花の部屋が残っている。


 けれど、その旅館もまた、消えようとしている。


 梨花は、テーブルの上の離婚届を見た。

 その白い紙の向こうに、母の声が重なった。


 七瀬屋も、そろそろ厳しくてね。


 東京にも。

 結婚にも。

 もう居場所はなかった。


 それでも、箱根にはまだ、母の声があった。

 そこには、失われかけていても、まだ梨花を待ってくれる場所があった。


 梨花は涙を拭いた。


 震える指で、母の番号を押す。

 呼び出し音が鳴るたびに、胸の奥が痛んだ。


 一回。

 二回。

 三回。


 やがて、眠そうな母の声が聞こえた。


『もしもし、梨花?』


 その声を聞いた瞬間、梨花の中で何かがほどけた。


 離婚届のことも。

 直人のことも。

 莉央のメッセージも。

 退屈だと言われたことも。

 変わらないと言われたことも。


 全部が喉元まで込み上げてきた。


 けれど、最初に出た言葉は一つだけだった。


「お母さん……」


 梨花はスマホを握りしめた。


「私、帰ってもいい?」

夫のために用意した夕食は、最後まで食べてもらえませんでした。


誰かを大切にすることが、こんなにも報われない夜がある。


それでも梨花には、まだ帰れる場所がありました。


けれど、その故郷にも、彼女の知らない危機が迫っています。

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