第8話 お母さんの名前を、消さない約束
フィンの荷物が、院から届いた。
小さな袋に、布が一枚と、木の匙が一本。
私は、その少なさに何も言えなかった。
袋を見たフィンは、足を止めた。
ミラが机へ置くと、すぐ開けた。
指が布の縁を探る。端に青い糸が残っていた。
「お母さんの」
それだけで、袋の口を閉じた。
彼の母親は、リナという女性だった。
町で菓子を売り、二年前に病で亡くなった。
院へ来たときの記録には、名前があった。
他にも書かれたことがあるかと思ったが、次の行は魔力の量だった。
私は袋をそのまま、彼の部屋へ運んだ。
「この棚に置いてもいい? あなたが、自分で取れる高さよ」
フィンは、棚の一番下を選んだ。
屈んで布を出し、すぐまたしまう。
私は立ったまま、次の言葉を探した。
お母さんはどんな人だった、と聞くのは、今だろうか。
ムクが床へ座った。
もう包帯は外れ、二本の尾が同じ形に動く。
少年は、狐へ話し始めた。
「お母さん、りんごを焼いてた。ぼくが、砂糖を落としたら、笑った」
私は椅子へ腰を下ろした。
彼が私へ話していないなら、聞いているだけでもよかった。
「落としたのを食べようとしたら、だめって。白いお皿に、また載せてくれた」
彼は、少しだけ笑った。
布の青い糸を、指へ巻いた。
「でも、院では、忘れなさいって。新しい家の人に、失礼だから」
私は膝から手を離した。
机の上で、彼の匙が窓の光を受けている。
「忘れなくていい」
フィンが、こちらを見た。
「あなたのお母さんは、リナさん。ここで暮らすようになっても、変わらないわ」
「アデルさまが、嫌じゃない?」
「嫌ではない。どんなりんごだったか、いつか教えてほしい」
少年は唇を動かした。
赤くて、小さくて、と言い、両手で大きさを作った。
その手の間へ、ムクが鼻を差し入れた。
「食べ物じゃないよ」
フィンの声が、少し大きくなった。
私は笑い、彼も、今度は私を見て笑った。
数日後、ドロテがりんごを焼いた。
記憶と同じになるとは限らないので、フィンに味を見てもらう。
彼は一口食べ、困った顔になった。
「ちがう」
ドロテは、腕を組んだ。
「それは困りましたね。どう違います?」
怒ったのかと、少年の背中が強ばった。
料理長は目線を下げ、皿を指した。
「私のりんごは、私の味です。お母さんの味とは、違うでしょう。知っているのはフィンだけだから、聞きたいんですよ」
彼は、ゆっくり、甘さの話をした。
皮がもう少し柔らかかったこと。匙で崩れるところが好きだったこと。
ドロテは、一つずつ覚えた。
それでも、全く同じにはならなかった。
フィンは自分の匙を使い、皿を空けた。
「これも、好き」
二つの味が、同じ机にあった。
その夜、私は自分の父と母の小さな絵を、彼に見せた。
こちらは父の眉が違う、と私が言うと、フィンが笑った。
「描き直さないの?」
「母が描いた絵だから、そのままがいいの」
少年は、青い糸の布を見た。
私たちは、いなくなった人の物を、同じ部屋で眺めた。
彼の棚に、私の家へ来る前の人生が、ちゃんと残った。




