お風呂
外での騒ぎを終え、俺とさぎりはようやく、空調のよく効いた涼しい家の中へと入ることが出来た。
さっきまで狐の妖怪にしっかりと密着されていたせいか、俺の夏服は汗と狐の毛で見るも無惨な姿に変貌していた……後でクリーニング代でも請求してやろうか?
「飯食べる前にまずは風呂入れ楽。汗と……なんか獣臭い匂いがするぞお前」
「あぁ、そうする……はぁ、疲れたぁ……」
本当に、色々あった1日だった……俺の人生の中でも、特に濃密な日だったと言ってもいい。
疲れでふらふらとしていた足を何とか運び、ようやくの思いで風呂場にたどり着いた。さて、風呂に入って、存分に疲れを落とすとしよう……
「お疲れみたいじゃな。どれ、背中を流してやろう」
「あぁたの……おい、なんでお前も風呂場に付いてきてるんだ……」
服を脱ごうとした瞬間に、さぎりがさりげなく背後にくっついてきていたのに気付いた。こいつ、本当に気配を消すのがうまい……油断も隙もあったものじゃないな。
「ぬしは風呂に入るのじゃろう?ならば当然、ワシも一緒に入るに決まっておろうに?」
「その『なんか変な事言ってますか?』みたいな顔やめろ!家に招いたとは言え、俺はお前にそこまで心を許しては無いからな!」
まるでさも当然の行為の様な態度で、俺を風呂に誘うさぎり。
分かっている。どうせ俺をからかっているのだ。証拠に、さぎりの口角がにやにやと釣り上がっているのだから。
「ふふふ……ウブなぬしも新鮮でかわいいのぉ。前はむしろ、ワシと風呂に入るのを楽しみにしてたくらいじゃったのに」
「何度でも言うけどな、おれは『ぬし』じゃないんだってば。お前が昔愛してた男とは別人なの!」
「それでも、ぬしはぬしじゃ。ほれ、じいさまには許可をちゃあんと取ってあるからの。さっさと服を脱ぐがよいぞ」
ぐいぃ……
「服を脱がそうとするな!てかじいちゃんもなに許可してるんだよ!妖怪に襲われてる孫をなんだと思ってるんだぁぁ!」
~~~
ちゃぽん……
「う~ん……いい湯じゃ……」
「………………」
「んー?ふふふ。なんじゃなんじゃ?そんなに顔を赤くして……ふふふ……」
「うっさい……」
結局、流石に妖怪の力には抗えきれず、俺は腰にタオルだけ巻いて、さぎりと二人で湯船に浸かることになった。
最低条件、体にタオルは巻いてくれという、俺のせめてもの提案だけは渋々飲み込んださぎりは、狐の尻尾を湯船に浮かせて、時々こちらの反応を見てにやにやしながら、ゆっくりとお湯の中でくつろいでいた。
「はぁ……俺は何をやってるんだ……」
「……まぁ、ワシから見ても、ぬしの行動はよく分からん……これは慈悲か?それとも同情かの……?」
「……分からん。こうしたいと思ったから、こうしてるだけだよ……」
「……そうか……そうか……ふふ」
一人でなにかを納得したかのように、こくりこくりと首を振りながら、さぎりは俺の言葉に相槌を返した。
「…………」
「…………」
ちゃぽん……
さぎりの長い黒髪から滴るしずくの音だけが風呂場に響いた。
互いに言葉を交わさずに、静かな時間が流れていたが……不思議と、気まずい空気は感じなかった。
むしろ俺はなぜか……言葉に出来ない、安らぎの様なものを感じていた……それはとても心地よくて……今日1日の疲れを、まるで溶かすように俺の中から消し去っていった。
「……またこうやって……ぬしと風呂に入れるなど……本当に、夢のようじゃ……本当に……本当に……」
「…………そうか」
悲しそうに、消え入りそうな声でそう言ったさぎりの顔を、俺はなんとなく見ることが出来なかった……
代わりに天井に顔を向けて、空へと昇っている湯気をなんとなく目で追ってみる……つかみ所の無いそれは、そこはかとなく、この悲しそうな狐に良く似ているなと思ってしまった。
なんと言うか……妙にセンチな気分である。今ここに筆と紙があるなら、一生黒歴史になりそうな、とてつもない『歌詞』でも書けそうだ。
酔っていると言っても良いだろう……そう、酔って……酔って……
すんすん……ぐび
「……っておい!本当に酒の匂いじゃねぇかこれ!!なに人の家の風呂場で勝手に晩酌してんだてめぇは!」
「ぐびぐび……っぷはぁ!いやぁ、ひとっきしり汗をかいた後に、気持ちの良い風呂と、ようやく出会えたぬし……これが飲まずにいられるかというものじゃ!ぬしも飲むか?ワシが日本を巡ってる時に各地で見つけてきた名酒じゃぞ?」
「未成年じゃボケ!くそ……叫んだら余計にめまいが……」
疲れと、風呂の熱気と、酒の匂い……それらが混ざり合って、俺の意識を奪っていく……
「っとと!?大丈夫かぬし?すまぬ、少しからかいすぎたかの……ほら、風呂から出よう」
さぎりに抱き抱えられ、風呂場の外の脱衣場へと運ばれた。腐っても妖怪、男一人を運ぶのなど、どうってことなさそうだ。
ふきふき
「細い体じゃの……もっと飯を食べた方が良いぞ?」
これまた当たり前の様に、さぎりがタオルで俺の体をふき始めた。こいつには、エチケットやプライバシーの概念が無いのだろうか?
「げほ……文化部なんて……こんなもんだって……」
「ぶんかぶ?新しいカブの名前かの?カブも良いが、肉と魚をじゃな……」
「けほ……はぁ、落ち着いた……後は自分でふくから……」
涼しい脱衣場の空気を吸って、ようやく意識が戻ってきた。さぎりの手からタオルを奪い去り、体の残りの水気を取っていく。
「そうか?気持ち悪い所があるなら、遠慮せずワシに言うんじゃぞ?」
「大丈夫だって……というか、こうなった原因はお前の酒なんだが……」
「……はて?なんのことやら……飲みすぎたかのぉ……記憶が……」
こいつ、都合が悪くなるとすぐに誤魔化すな……なんてタチの悪い妖怪だ……。
「さて、じゃあワシも体を乾かすかの」
はらり
「は?おいちょっと待て!?ここで脱ぐ……」
ブルブル!
「やっぱり体を乾かす時は、狐の姿が楽じゃのぉ。ふくところも少なくなるし」
さぎりがタオルを脱いだその瞬間。真っ黒な狐がその場に現れ、ブルブルと体を震わせ体の水気を飛ばしていた。
「あー……まぁ……そうだよな……」
「んー?なんじゃ?残念そうな顔をして?」
「……べ、別に?」
「…………ふふ」
「あ、てめぇ……わざとだな……」
顔を赤くして狼狽えていた俺の姿を見て、さぎりはいたずらっぽく微笑んだ。
「別に、見たいならそう言ってくれれば良いのじゃぞ?ぬしの好きなようにしてくりゃれ……」
「……くそ……今日1日、ずっとこいつにバカにされっぱなしじゃないか……」
一人の人間として、妖怪にバカにされっぱなしになるわけにはいかない。何か……何かこいつをぎゃふんと言わせる手立ては……
ぼふ……
「ふんふふ~ん……いい湯じゃったのぉ」
小さな爆発音と、少しの煙の演出と共に、またさぎりが黒い狐から人間の姿に戻った。アニメでよく見る、妖怪変化の演出だ。
さぎりの黒く艶やかな髪が、風呂に入ったことでより一層妖しく光っていた……黒く……光って……黒光り……そうだ!ちょっと仕返ししてやろう……!
「さぎり!足元にごき……」
「なぬ!?虫かえ!?どこじゃ!叩き潰してやるからの!」
さぎりに虫がいると言った瞬間に、さぎりは全身の毛を逆立たせ、まるで狩りをしてる最中の獣が如く、周りを世話しなく警戒し始めた。
「ウ゛ゥ゛ゥ゛ゥ゛!ぬしの家に入り込む不届き者め……!」
「……くそ……そうだよな、野生に生きてるもんなこいつ……虫なんかで驚くわけ……」
パチリ
「ひ!?」
その時だった、パチリと電気の飛ぶ音が聞こえ、脱衣場の中が一瞬で暗闇に変わった。
「停電か……最近ブレーカーの調子がどうも悪いな……」
「……ぬ、ぬし……」
ぎゅ……
暗闇の中でよく見えなかったが、さぎりが俺の腕にしがみついてきた。
「だから、暑いからくっつくなって……」
ふるふる……
「……なんでそんなに震えてるんだ?お前」
「暗いのは嫌じゃ……一人は嫌じゃ……」
ぎゅぅぅ……!
少し痛いくらいの力で、さぎりが俺の腕をより一層強く抱きしめ始めた。その手はかすかに震えており、酷く何かに怯えているようだった。
「ははーん。もしかしてお前、暗いのが怖くて……」
ふるふる……
「う……うぅぅ……!」
「……なんだよ……調子狂うな……」
やっと見つけた宿敵の弱点。これまでの怨みを返すように、思いっきりバカにしてやろうかと思ったが……流石に、こんなに心の底から怖がっているやつを、痛ぶることは出来そうになかった……。
「ひぐっ……うぐぅ……」
ぽたぽた……
「……は?え?な、泣いてるのか……?」
ふと腕に冷たい感覚が伝ってきた。さぎりの大粒の涙だ。
「だ、大丈夫か……?あ、安心しろって、すぐにじいちゃんがブレーカー戻してくれるから、な?」
「うぅ……むぐっ……」
ぽたぽた……
いくら言葉で慰めても、さぎりの涙と震えは止まりそうになかった。
「その、えっと……どうしたら、安心出来る……?」
「ぐぅ……手……握って……」
「こ、こうか……?」
ぎゅ……
さぎりに言われるがまま、さぎりの細い手を右手でしっかりと握りしめた。風呂に入ったばかりだと言うのに、さぎりの手はまるで、氷のように冷たく震えていた……。
「もっと……強く……」
「……分かったよ」
ぎゅぅぅ……
「……ふ……ふふ……ぬしの手は……暖かいの……」
「そうか……それは良かった……」
目を涙で濡らしながら、さぎりは小さく微笑んでくれた。俺にはなんだかそれが……妙に嬉しかった。
「……抱きしめて……ほしいのじゃ……」
ぎゅぅぅ……
さぎりが不意に、俺の体に腕を回して抱きついてきた。
村で初めてさぎりに出会った時も、俺はさぎりに、全く同じ要求をされた。
あの時は結局、恥ずかしさもあってか、物理的に拒否する形でさぎりを押し返したが……
「……こうか?」
ぎゅ……
……今回は、暗くてよく見えなかったのもあったのだろう。あまり恥ずかしさも感じぬままに……気付けば自然と、さぎりの体を抱き返していた。
「……落ち着くのじゃ……とても……とても……」
「……そうか……なんだか俺も……落ち着く気がするよ……」
そこでようやっと、さぎりの涙と震えが収まったのを感じた。
「……………」
「……………」
ぎゅぅぅ……
……もうどのくらい、こうやって抱き合っているのだろうか?
さぎりの涙と震えは止まって、もうこうしている理由はどこにも無いはずなのに……俺とさぎりは言葉も交わさずに、ただ黙りこくって、暗闇の中で抱き合い続けていた……
「……のう、ぬし……次は……」
「……まだ、なにかあるのか……」
……男女が抱きしめ合って、その『次』……俺はただ黙って、さぎりの次の言葉を待っていた……。
「……次は……ワシの……」
パチリ
妙に顔を高揚させていたさぎりの顔が、急に目の前ではっきりと見えるようになった。明かりが復旧したようだ。
「っ!?あ……えっと……!」
初めて、余裕無くしどろもどろになったさぎりの姿を見た気がする。
……俺はその姿が妙に……愛くるしく思えてしまった。
「……次はなんだよ……さぎり……何をして欲しい……?」
「あ……その……」
……自分でも、かなりおかしな気持ちになっていたと思う……今なら何でも、さぎりにしてやれると思えた程に……
「さぎり……」
「ぬ……ぬし……?」
バタン!
「わわわわ!?そ、そういうのはワシまだ早いと……!……ん?ぬ、ぬし……?」
「うーん………」
そこで俺は、ぱったりと意識がトんでしまい、さぎりをその場に押し倒す形で、脱衣場の床に倒れ込んでしまった。
元々風呂場で倒れていた様な人間が、あんな『脈拍が上がる』様な行動をして、無事でいられる訳が無かったのである……
「じ、じいさまぁぁぁ!?ぬしがぁ!ぬしが『興奮しすぎて』倒れたのじゃぁぁぁ!!?」
「なにぃぃ!?お前ら風呂でどんないかがわしいことをぉぉ!?」
「……語弊が……あるだろ……がくり……」
「ぬ、ぬしぃぃぃぃ!?」
俺はろくなツッコミも入れられないまま、脱衣場の白くて冷たい床に、意識を落としていった……。




