狐憑き
……完全に油断していた。耳元すぐそばで、あのか細い声が聞こえ、俺は声に出来ない悲鳴をあげて、その場で大きく体を揺らした。
「ふふふ……そんな驚かんでもええよぉ……とって食ったりなんかしないからのぉ……」
もう俺に妖怪だとバレているからか、狐の耳と尻尾を全くもって隠さずに、完璧な『狐の妖怪』の姿のさぎりがそこに居た。
「さぎり……!なんでお前……」
「ふふ……ふふふ……嬉しかったわぁ……なんやかんやいうて、ワシの事……嫌いじゃないんじゃろ……?」
「おま……どこから会話聞いてたんだよ……」
少なくとも、電車に乗ってた時点では近くに居たという事だろう。
あの哲が尾行に気付かないなんて……やはりこいつ、能力だけならかなり上位の怪異なのだろう。
「その手の甲の落書きな……『狐憑き』の印なんよ……ワシ……ぬしに取り憑いちゃったのじゃ☆」
急にアニメとかでよくみる『エセのじゃキャラ』みたいな口調で、あいつは俺に『取り憑き』宣言をしてきた……妙にムカつくのはなぜだろう?
「……はぁ!?取り憑いちゃったのじゃ☆じゃねぇよ!今すぐ解けよこれ!」
「いやじゃいやじゃ。ぜーぇったいいやじゃ!ワシはぬしに一生取り憑いてやるのじゃ!」
ぐいい……
突き放そうと思い腕を振り回したが、さぎりは更に強く俺の腕にしがみつき、決して離れようとしなかった。もう夏もまっ最中、取り憑き云々以前に、普通に暑いから離れて欲しい……。
「くっ!こうなったらまた哲に連絡して……」
「!?あの『化け物』呼ぶのは止めるのじゃ!スマホの電波などこうしてくれる!」
びび!
「あ!くそ!電波妨害しやがったな!」
こいつ……結構古い時代の妖怪の癖に、しっかりとスマホの電波対策してやがる……羽車先輩の言っていた『最近の怪異はWi-Fi規格にも対応してる』ってのはあながち間違ってないのかもしれない……。
「すんすん……あー、ぬしの匂いじゃあ……落ち着くのぉ……」
「……匂いかいでうっとりするの、なんか変態っぽいぞ……」
「男女の関係なんてそんなもんじゃ。どれだけ綺麗事を並べても所詮オスとメス。行きつく最後はせ……」
「だぁぁ!公共の場で絶対にそんな事言うんじゃねえぞ!」
「……意外とウブじゃな。もしかしてどう……」
「高校一年男子はこんなもんなんですぅ!女の人に密着されてるだけでも恥ずかしいんだよこっちは!」
「面白いのぅ!からかいがいがあるのぉ!ふっふっふ!」
この人を小馬鹿にしてくる感じ、間違いなく妖怪のそれだ。こいつらは人が慌てふためく様子を見て楽しむ性分なのだ。
「ぬしの家はどっちじゃ?こっちか?それともこっちかのう?」
ぐいぐい
「引っ張るな!お前みたいな得体の知れない奴、家に入れるわけないだろ!」
「んー?それは無理じゃろ。野宿でもする訳じゃあるまいに。その手の甲の落書きがある限りは、ぬしがどこに行っても、ワシは付いていけるからのぉ」
「くそ……やっぱり『そういう』やつかこれ……」
立花村で手の甲に口づけされたあの瞬間に、もう取り憑き自体は完了していたのだろう。村を出てからも、定期的に鈴の音が聞こえていたのは、こいつが俺に取り憑いていたなによりの証拠だったのだ。
「どうすれば消えるんだ?この手の甲の落書きは」
「うーん。そうさな……ワシがぬしと離ればなれになりたくなったら消えるかもしれんのぉ。でもそんな事、天地がひっくり返ってもありえんことじゃ。ワシはもう絶対に、ぬしから離れとうないからの……」
ぐりぐり
「頭押し付けんな暑苦しい……」
「……まんざらでもない癖に、素直じゃないのぉ……」
「だー!聞こえない聞こえない!」
年盛りの男子高校生が、見た目だけはとびっきりの美人に抱きつかれて、無反応貫ける訳無いだろうが……。
「ほれぬし。ワシの目をよぉく見とくれ……」
「な……それ……やめろ……」
さぎりの大きくて真っ黒な目が、また俺の眼前に迫ってきた。何度見ても、吸い込まれてしまいそうだ……
「ぬしは家に帰りたくなーる……ワシと一緒に帰りたくなーる……」
「古臭い……催眠術かよ……」
いかん……頭がボーッとしてきた……やっぱりこいつの目……普通じゃない……。
「ほれ。転けぬようにワシがしっかり抱きついてやるからの……もっとちこうよっとくれ」
ぐい
「暑苦しい……やめろ……」
もはや自分がどこを歩いているのかも分からなくなってきた……あの『目』のせいもあるだろうが……無駄に狐の毛が密着しているせいで、暑さで頭が回らないのも、原因の一端を担っている気がしてならない……本当に、暑苦しいやつだ……。
「あ!お帰り兄ちゃん!家の前でなにやってんの?」
「あ……茅……だめだ……こっちに来るな……!」
さぎりの目に惑わされて、俺はいつの間にか、家族の住む家の近くまで来てしまったようだ。
俺の妹である『狐森 茅』が、家の前でふらついていた俺を心配して、近くまで寄ってきてしまった……くそ……妹までこんな奴の被害に合わせてなるものか……!
「ほう。ぬしの妹かえ?小さくて愛らしいのぉ」
「ぐ……妹には……危害をくわえるな……!」
「なぁに。悪いようにはせんよ。ほれ茅とやら、こっちにきりゃれ……」
さぎりが手をこ招いて茅を近くに呼ぼうとしていた。何をする気だこいつ……!
「んー?……あー!おじいちゃん!兄ちゃんが『女』連れ帰ってきたぁぁ!!」
「なにぃぃぃぃ!?」
ズドドドド!!
我が狐森家の家の中から、凄まじい豪脚の音が響いてきた。
「じいちゃんは嬉しいぞぉ楽!全然女っけの無いお前がやっと彼女を連れて帰ってくるなんてなぁ!それでこそ狐森家のおと……こ……」
『狐森 玄』俺のおじいちゃんである。元は立花村の出身で、俺のお母さんが都会で住むようになってからは、おじいちゃんも村を出て、俺達家族と一緒にこの家で一緒に生活している。
そんなおじいちゃんが、俺がようやっと彼女を連れてきたと思い込んで、意気揚々と表に飛び出したら……孫がどう見ても、人間じゃない狐の妖怪に取り憑かれていたものなのだから、そりゃ言葉を失うのも当然である……。
「楽……お前なぁ……いくらじいちゃんに毎日『早く女を作れ』って言われてたからって……そんな妖怪を手篭めになんぞしなくても……」
「誰が好き好んで……こんなやつ……!」
「ん?なんじゃお前。操られとるのか?」
「お初にお目にかかるのぉぬしのじいさま。ワシはさぎり。サギリノカミタチバナノヌシじゃ」
様子のおかしい俺を心配しているじいちゃんに向かって、さぎりは少しの恥ずかしげもなく挨拶を交わした。まるで、この場の主導権は全て自分にあるとでも言いたげな程に、堂々とした態度だった。
「なぬ?つまりお前は『さぎり様』なのか?なんと……実在しておったとはなぁ。長生きはするもんだなぁ楽。まさか幼少の時から聞かされていたおとぎ話の人物に、本当に出会えるなんてなぁ」
「なにを……呑気な事を……俺……こいつに……取り憑かれてんだけど……」
「ほぅ。取り憑かれてるのか?そりゃ災難だったなぁ楽」
御年60歳越え。細かいことは気にしない豪快なじいちゃんではあるが、さすがに孫のピンチくらいはもうちょい焦っても良いのではなかろうか……?
「ふふふ。そういう事じゃじいさまよ。ワシはこのぬしに一生取り憑くと決めたのじゃ。だからほれ、さっさとワシを家にいれておくれ?断ればぬしがどうなるか……分かるじゃろ?」
……ハッタリだ。こいつに俺をどうこうする気概は無い。だがそれをじいちゃん伝えることも上手く出来そうにない……頼むじいちゃん……騙されないでくれ……!
「いや。そいつは出来ん相談だ」
「……へ?……ぬ、ぬしがどうなってもいいのかえ?わ、ワシが何も出来ないと思ったらおおまちが……」
「別に楽になにしたって良いぞ?わしが苦しむ訳じゃないからな」
「な……なな……何と薄情な……!?ま、孫が可愛くないのかえ!?」
「そりゃ孫は可愛いが……自分の身が一番可愛いからな!」
いやぁ、流石じいちゃん。孫の危機をなんだと思っているんだろう。
「……ぬ、ぬしの親友と良い、じいさまと良い……ぬしの周りには、変人しかおらぬのか……?」
「……あんまり否定出来ねぇ……」
「ねぇ姉ちゃん。兄ちゃんを苦しませないであげて」
じいちゃんとさぎりがコントの様な会話をしていると、いつの間にか目の前まで近づいてきていた茅が、さぎりに俺を解放するように説得し始めた。
「兄ちゃん苦しそうで可愛そうだよ。姉ちゃん兄ちゃんの事好きなんでしょ?好きな人苦しませるのはダメな女だって、お母さん言ってたよ?」
「……そ、それはその……」
「本当に兄ちゃんの事好きなら、そんなに束縛してたらダメだよ?束縛する女は嫌われるって、お母さん言ってたよ?」
「えっと……これは束縛とかじゃなくてじゃな……その」
茅の純粋無垢な心が、汚れきったさぎりの心を侵食していった。汚れきった大人であるほど、茅の『それ』はよく効いてしまうのだ……茅、恐ろしい子。
「だからほら。兄ちゃんを離してあげて?お願い!」
「……はい……とりあえずぬしは解放するのじゃ……」
するり
さぎりの拘束が腕から離れ、ボーッとしていた頭に意識が戻ってきた。
「……ふぅ。ありがとう茅」
「どういたしまして。兄ちゃんも『悪い女』にもう引っ掛かったらダメだよ?」
「ははは……気を付けるよ」
茅も随分とおませになった気がする……絶対『母さん』の影響だなこりゃ……。
「あの……その……えっと……」
「……で、どうするんだ?」
「ど、どうする……とは?」
俺の拘束を解いて、居場所の無くなってしまったさぎりが、その場で右往左往挙動不審になっていた。
「俺の手の甲の落書きを消すのか。それとも哲にまた『鉄拳制裁』して貰うのか。どうするんだ?」
「い、痛いのはもういやじゃ!……で、でも……ぬしと離れるのは……もっといやじゃ……待ちぼうけはもういやなんじゃ……またひとりぼっちになんぞなりたくない……」
「さぎり……」
さぎりの小さく丸まった悲しそうな背中を見て、俺は思いがけず、同情の念を感じてしまった。
……思えば俺はまだ、こいつの動機や目的を何も知らない。ただ一方的に、こいつを拒否し続けているだけだ。
考えが甘いと言われればそうかも知れない。怪異相手に同情なんぞ、意味の無い事かもしれない。
それでも……なぜだか俺は、このワガママな狐が、どうしても放っておけなかった。
「……なぁじいちゃん。一晩だけ、こいつを家にあげても良いかな?話を聞きたいんだ」
「え……ぬし……?」
俺に拒否されるとばかり思っていたさぎりが、俺の予想外の提案を聞いて、気の抜けた言葉を漏らした。
「おう。好きにしろ。お前の連れてきた女だ、お前が責任もって、最後まで面倒見てやれ」
「……ありがとうじいちゃん。という訳ださぎり。家にあがっていいぞ」
「で、でも……ワシはぬしを操って……」
「……お前、変なところは弱気だよな。俺をからかう時はウザイくらい元気な癖に」
「……あ、ありがとう……なのじゃ……」
「……おう」
かくして俺は、自分を妖しい術で操ってきた狐の妖怪を、自ら進んで自宅へと招き入れる事にした。
……自分でも馬鹿やってるとは思うが、俺はこれが最善の選択だと思った。
哲に頼んで退治した所で、こいつは懲りずに俺に取り憑くだろうし、かと言って、このまま突っぱねて村に返してしまったら……こいつはまた、ひとりぼっちになってしまう……それがどうしても……俺は嫌だった。
「さぎり。腹減ってるか?夕飯食べていけよ」
「い、いいのかえ?」
「おう。良いよな?じいちゃん」
「おうおう。好きなだけ食べていきな。妖怪だろうと、美人にはサービスするのがわしの流儀だ」
「おじいちゃんのご飯すっごく美味しいんだよ!」
「……ふふ。それは楽しみじゃな……ちそうになる……」
……俺はその時初めて、さぎりの心の底からの、嘘偽りの無い笑顔を見ることが出来た。




