#5 暁光
リーゼロッテの顔は醜く変形していた。
頭の右半分は髪の毛が抜け、右目が頭蓋骨を突き破って外に向かって巨大化している。残った顔の左半分は、舌をだらしなく外へ出し、左目はあらぬ方向へ回転していた。異様に肥大化した右眼球そのものが浮力を持って浮いており、体は完全に脱力して風船のように膨らんだ眼球にぶら下がっているように見える。
屍者の貌――――異形と化したリーゼロッテは、生きているようには見えない。
「伏せてっ!」
クローディアが叫ぶ。
サチたちがその場にばたんと伏せると、リーゼロッテだったものは、瞳孔から熱線を放った。
左から右へ。薙ぎ払うように放たれた光線が、サチたちの頭上を掠める。光線は森の木々を一気に薙ぎ払い、サチたちの背側の森に火柱が上がった。
火柱に驚いたサチは見た。湖畔とリーゼロッテの間に浮いている手漕ぎボート、その舳先に立っていた人影が、腰のあたりで二つに切断されて、湖に落ちていくのを。
突然の仲間の変貌、そして魔法弾を遥かに超える光速の一撃に防御も間に合わず、玲雙虎は絶命した。
「あ、ああ……っ!」
言葉が出てこない。
泣いていいのか、怒っていいのか。今サチの中にある感情は、声で表すことができない。
嗚咽だった。サチの口から出ようとする言葉を、すべからく暴力的に塗りつぶしてしまうほどの、激しい嗚咽だった。
「サチ」
ムツミが匍匐前進で近づき、地面を殴りつけるサチの手を握った。
「サチ、落ち着いてください」
「ああ……あぁ!」
「……と、いっても無理そうですね」
ムツミは立ち上がった。
リーゼロッテだったもの――――『魔女の臓物』の一体『眼球』は、空に向かって先ほどのレーザー光線をてんで滅茶苦茶な方向に発射している。
「『眼球』が私たちに害意を持っていれば、今頃全滅しています。
おそらく……これは私の推測に過ぎませんが。あの『臓物』にはまだ、カールスルーエ様の意志が残っているのではないかと分析します」
「ボクらを傷つけないように、ああして空に向かってビームを撃っているっていうのかい、ムツミ?」瓜花が伏せたまま問う。
「そうです」
「それはありえないよ。『臓物』は人間を食い殺すだけの存在だ。今まで『臓物』が、人間のような動きを見せたことなんて――――」
「……あるよ」
サチは瓜花の言葉を遮った。
いつまでも嘆いているわけにはいかない。強く、強く握りしめる拳の痛みで、サチは嗚咽を無理やり体の中に押し込む。
「あるんだ。わたしは見たことある。
マウレン……『骨髄』に取り込まれたマウレンが、最後にわたしを、助けてくれた!」
「『骨髄』に取り込まれた、だって? そんなの記録にないぞ」
「記録には残ってない。でも、わたしは今、ここにいる。それが一番の証拠」
瓜花の知識は『魔王』から得たものだ。つまり「紙に書かれた情報」なら、瓜花は何でも知ることができる。
だが、紙に書かれていないことは知ることができない。闇に葬られた事実――――マウレンが『骨髄』に取り込まれ、感覚器官の一部にされていたことを、瓜花は知りようがないのだ。
「口論は後よ」クローディアが砂の上に『葬送曲』を突き立てていた。「みんなこっちへ集まって」
サチも立ち上がり、クローディアの側へ行こうとした。
しかし突然後ろからムツミに組み伏せられてしまう。サチとクローディアの間、数歩先の位置を『眼球』のビームが直撃し、砂浜を黒焦げにした。
サチの目の前、『葬送曲』の陰にはクローディアの他にライラや瓜花、そしてコーディが集まっていた。
手漕ぎボートを漕いでいた救助隊員の2人はどこへ行ったのか―――サチはこれ以上は考えないことにした。
「ムツミの説が正しければ、あまり猶予はない」瓜花は一旦ムツミの説を認めることにしたようだ。「『臓物』が人間の意志を持つことがあるのなら、これまでの観察的事実に照らし合わせれば、変異から時間が経つと、その意志は消失するという仮説が導かれる」
「どーよな意味?」
「……さっさと倒さないと危ないってことだ。ライラ、あれをやろう」
「おっけー」
『葬送曲』の陰で、ライラは『竜の詞』を唱え始める。
オーラを纏ったライラの背に瓜花は手をかざし、サチも見たことがない特異な形の魔法陣を展開した。
両手を広げた瓜花の胸の前、ライラの背との間に魔法陣が固定される。魔法陣についてはクローディアも知らなかったようで、驚きとともに問いかける。
「瓜花、その魔法は?」
「『絆』の魔法だ。外からライラに魔力を融通する」
「もう完成していたの⁉」
「ああ。ライラに秘密にしろと言われていたんだ。だけど、もう戦力を出し惜しみしている余裕はないからね。クローディア、それに……。えっと、キミは誰だっけ」
「コーディ・エルメート」
「コーディか。よろしく頼むよ。ボクの手を握ってくれ。キミたちの魔力も借りたい」
二人が瓜花と手をつなぐと、一瞬で二人は脱力し地面に膝をついた。
クローディアは数秒踏ん張ったが、コーディはすぐに地面に臥せってしまった。
「サチ、私たちは救難艇の人たちを避難させましょう。トロイライト様の『詞』の巻き添えにならないようにしないと」
「……うん」
ムツミに促され、サチも立ち上がる。互いの魔奏器を触れ合わせ、加速の魔奏を合奏した。
疲労や継戦能力など度外視の、今できる最大の加速。『眼球』の放つビームさえ遅く見えるほどの加速で、サチとムツミは走り出した。
これだけの加速であれば、水面でさえも走ることができる。体に纏わりつく衝撃波のせいで呼吸ができないのが玉に瑕だが、当たれば死ぬビームを前にして贅沢は言っていられない。
加速したサチとムツミに対して、『眼球』はビームを乱射して応戦した。『眼球』に近づくと、乱射されるビームの密度も高くなる。加速していようが触れれば死ぬ魔砲である。サチの耳元を光弾がかすめ、髪が焦げた。
射角を抜け、サチは救難艇に飛び込む。
救難艇に乗っていたクルーを引っ張ったり押したりして船から放り出すと、彼ら彼女らは空中で静止した。
最後の一人、ヴェルナを抱えて救難艇から離れた瞬間。サチの息止めは限界を迎えた。加速の魔奏が途切れ、周囲のクルーたちと一緒に、サチはヴェルナを抱えたまま湖に落ちる。
ざばん、と吹き上がった水飛沫。サチが水中から見ているそれを、無数の光条が貫いていった。
雨が打つように、湖面が荒ぶっている。『眼球』の放つビームが湖面をなぞっているのだ。しかしビームは水で減衰するらしく、水中は比較的安全らしい。
(い、息が……!)
とはいえ、人間は水中では呼吸ができない。
ただでさえ息が切れていたサチである。水中で空気を吸えず意識を失いかけたサチ。ヴェルナがすかさず、サチを含む周囲に沈んでいるクルーたちを、呼吸ができるように魔法の泡で包み込んだ。
「かはっ……。はぁ、はぁ」
「サチ、大丈夫?」
「助かったよ、ヴェルナ」
「こっちこそだよ」
人を包める泡の大きさにも限りがある。サチとヴェルナは狭い泡の中で密着しながら、湖面を見上げていた。
救難艇の船底が見える。小刻みに上下に揺れて湖面に波紋を作っているのは、『眼球』と化したリーゼロッテがビームを放つ反動だろうか。湖底はどこまでも深く、黒く。見上げる湖面だけが、ぴかぴか光っていた。
「……どうして」
理由など。答えなど。得られないと分かっていても、サチは問うことをやめられなかった。
どうして、リーゼロッテさんが。どうして、『臓物』に。どうして、今――――サチが問う疑問の答えは、泡の中にはない。ヴェルナが答えを知るはずもなく、二人はただぎゅっと体を寄せ合い、互いの肩に顔をうずめ、涙を零すだけだった。
やがて、湖面がまばゆい暁光で満たされた。
ライラの放った『白夜極光星』が、『眼球』を跡形もなく消し飛ばしたのだ。救難艇が船首を失い、浸水して沈没しはじめる。
その間、サチには何も聞こえなかった。
人間らしい断末魔の叫びも、怪物らしい怨嗟の声も。リーゼロッテは何も残さず、完全に消し飛んだのだった。




