#2 秘事
サチがマハーレから命からがら(?)逃げ出したのと、ほぼ同時刻。
同じくシャワーを浴び終えたリーゼロッテは、浴室の中、曇った鏡に映った自分の輪郭を、指でなぞっていた。
自分ではまっすぐ描いたつもりだったのだが―――線がブレている。突然右目の奥が痛くなり、思わず手で右瞼を覆った。右目を覆うと、曇ったガラスに描いた線が、よりブレて見えることにリーゼロッテは気が付いた。
いや、異常なのは右目のほうである。左目が正常なのだ。二か月ほど前から右目の視野に度々現れる、モザイクのような、砂嵐のような不可思議な現象。そのせいで、まっすぐ引いたつもりの線が歪んでしまう。しばらくすると収まるその病態は、現れる間隔が徐々に短く、また現れる時間も長くなっている。
理由は分からないが、直感で分かる。セレブラントの力のせいだ。
医者にかかるべきだろうか? いやいや、とリーゼロッテが頭を左右に振ったので、濡れていた髪から弾けた水滴が、風呂場の壁に散らばった。
リーゼロッテに備わった力は「セレブラント」などと呼ばれているが、リーゼロッテが遠隔視の力から課せられた運命は「祝福」とは程遠い。それは「呪縛」に近いものだ。
セレブラントの力はそれが「存在する」事実以外には何も分かっていない。何故セレブラントは女子ばかりなのか。何故セレブラントは普通の魔術体系では説明のつかない魔法が使えるのか。セレブラントの力の不調は、医学でどうこうできるものではない。
「リゼ?」
背後の、浴室の扉から声がした。
ヘレナだった。
「どうかしたの? 体調でも悪い?」
「ううん、大丈夫。なんでもないよー。今出るね」
「早くしてね。次私が入るんだから」
「んもー。セートカイチョーさんはせっかちさんだなぁ。
そんなに入りたいならさぁ、一緒に入る? 昔みたいに」
扉の外が、静かになった。
おかしい。いつもなら、「馬鹿じゃないの」とでも言ってくる、あのヘレナが。続いて聞こえてくる、ごそごそ布の擦れる音―――ヘレナが服を脱いでいる。
リーゼロッテのいる風呂場に、入ってこようとしている。リーゼロッテは慌てて曇った鏡に描いた自分の線を消し去り、湯船に逃げ込んだ。
リーゼロッテの部屋、厳密にはヘレナの部屋にリーゼロッテに転がり込んでいる形のこの部屋は、元はバラ棟の寮母室であった。バラ棟が男子棟としての役割を終えた今、寮母はユリ棟と兼任となり、空室となったこの部屋をヘレナが改装して使っているのだ。
部屋の広さは普通の生徒寮室の三つ分もあり、加えて風呂も豪華である。普通の生徒用の寮室には一人用のシャワー室しかないが、ここには浴槽がある。リーゼロッテは身を隠せる場所があるこの風呂場を、今日ほど感謝したことはない。
からから。
ガラス戸を引いて、バスタオルで体を隠したヘレナが風呂場へ入ってきた。湯船につかって体を低くしているリーゼロッテを、ヘレナは仁王立ちで見下ろしている。
「ああいえば私が引き下がるとでも思ったの?」
「思った。当てが外れちゃったな」
「残念ね。ほら、白状なさい」
「何を?」
「リゼ、最近長風呂だから気になってたのよ。何か、私に知られたら困るようなことでも、ここでしているのかしら?」
「……それは、オトメのヒミツってやつでして」
「私にも言えないようなこと?」
「ヘレナにも言えないようなことだよ」
ぴちゃん。
ヘレナが動かないので、リーゼロッテも動けなかった。天井から滴り落ちる水滴だけが、流れる時間を刻む。
「……まあいいわ。久しぶりに一緒に入るのも、悪くないでしょ」
先に折れたのはヘレナだった。
リーゼロッテに背を向けて、シャワーを浴び始めるヘレナ。リーゼロッテがいつ見ても見惚れてしまうほどの、美しい亜麻色の髪。連日の出撃や校内業務で傷んだ髪が、手際よく整えられていく様を、リーゼロッテは湯船の縁に顎を載せて眺めていた。
そういえば―――ヘレナが「久しぶりに」なんて言ったせいだろうか。リーゼロッテは想起する。家族を失って露頭に迷っていたリーゼロッテ。拾われたロアノールの屋敷での暮らし。何もかもが異次元過ぎて、夢でも見ているのではないかと縮こまってしまったリーゼロッテを解きほぐしてくれたのは、同い年くらいの少女、ヘレナだった。
二人が初めて交わした言葉は、「なんかくさいわ」「そうですか?」だった。ヘレナはリーゼロッテに、風呂でペットでも洗うがごとくではあったものの、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたのだ。
「……ねぇヘレナ」
「何?」
「楽団、楽しい?」
「ええ、楽しいわ」
「そっか」
リーゼロッテはヘレナから視線を反らし、天井を見上げた。
結露した水滴が、リーゼロッテの鼻先に落ちる。その冷たさに、ぶるっと体が震えた。
「……リリアちゃんは、どんな様子なの」
きゅっ、と蛇口のハンドルが閉まる。
「ずっと、目を覚まさないわ」ヘレナは背を向けたまま、リーゼロッテに答えた。「うなされてる。きっと夢を見ているのよ……それも、とびきり良くない夢」
「ワタシも、何か力になれたらいいんだけど」
「いいの。あなたは十分に役に立ってくれてるんだから」
リーゼロッテに振り返って微笑むヘレナは立ち上がり、浴槽に入ろうとした。
普通の寮室にはない、一人で入るには十分な大きさの浴槽ではあるが。二人で一緒に入ると少し狭い。自然と、リーゼロッテとヘレナは、膝を抱えて横に並んで入ることになった。
こんなに浴槽が狭く感じるのは、自分たちが成長したからだろうか。リーゼロッテは思った。それとも、単純に幼いころヘレナと一緒に入っていたロアノール家の浴槽が、大きすぎただけだろうか。
それに、普段なら顔を合わせれば何か会話も弾む二人であったのに、浴槽でこうして密着していると、何故か会話が続かない。
しばらくの沈黙。ぴちゃぴちゃと、天井から滴り落ちる水滴の音だけが響くじっとりとした空気を引き裂いたのは、ヘレナの言葉だった。
「リゼ。私に何を隠してるの」
「隠す? いやー、なんのことですかな?」
「とぼけないで」
「ごらんの通り、今のワタシには何も隠せるものなんかないよ?」
何も言わず、ヘレナがじっとリーゼロッテを見つめている。
相変わらず綺麗な目だ。リーゼロッテはヘレナと見つめ合って、その瞳の美しさに見惚れていた。まるで宝石のような、透き通った海のような美しい群青色の瞳。
その瞳に魅入られたものは、二つのうちどちらかの感情を抱くという。その美しさを自分のものにしたいという気持ちと、その美しさは、自分を犠牲にしてでも守らなければならないという気持ち―――リーゼロッテの場合は、後者だった。
ふっと、ヘレナが視線を伏せる。
どうして―――リーゼロッテは瞬きした。どうして、ワタシから目を反らすの?
「……寂しい」
「え?」
「リゼが私に隠し事してるの、寂しいよ。
だって、小さいころからずっと一緒だったし……私達の間に、今さら隠し事なんて」
「天下のセートカイチョー様が? 寂しいって?」
「リゼ。お願い、茶化さないで。
私が気づいてないとでも思ってるの?」
「気づくって、何に?」
「私に隠してるのって、貴女の『目』のことでしょ」
ずきん、と心臓の奥が冷たくなった。リーゼロッテは咄嗟に、ヘレナから離れる。
ヘレナはそれを逃さず、ぐいと体を近づけた。浴槽の縁に後頭部を打ち付けるリーゼロッテに、ヘレナはゆっくりとのしかかり、逃げられないように肩を掴む。
「リゼ。もしかして……もしかして、力が弱まってるの?」
リーゼロッテは見た。ヘレナの瞳、そこに希望の色が浮かんでいるのを。
力が弱まっている――――それならどんなに良かっただろう。リーゼロッテのセレブラントとしての力が弱まっているのだとすれば、それはいずれヘレナの妹、ずっと眠り続けて悪夢にうなされているリリアも、いずれその呪いのような力から解放されるかもしれない、ということである。
だが、現実は逆だった。
「……ううん。むしろ、強くなってるんだ」
ヘレナの瞳に宿った希望の色が、くすんでいくのをリーゼロッテは見た。
これだけは言いたくなかった。ヘレナにだけは知られたくなかった。セレブラントの力が、段々制御しづらくなっているなんて。視界がゆがむのも、ノイズが入るのも。時折、意図しない遠隔視が発動してしまうせいだ。
理由は分からない。ただ、ここ数週で急激に病状が進行したのは、生活に変化が生じた――――「NIGHTMARE RAVENS」に加入し、戦闘で何度も能力を使い続けているからではないかとしかリーゼロッテには考えられなかった。
セレブラントとしての能力を使い続けると、いずれ制御できなくなる。そんな仮説が実証されれば、ヘレナにとっては死刑宣告にも等しい。
現在進行形で能力下にいるリリアの病状は、進行こそすれ寛解する可能性は低いということ。最愛の妹が目を覚ます可能性は、ないに等しいという予測が導かれるからだ。
「ごめん……ヘレナを、傷つけたくなくて。黙ってた」
「大丈夫なの?」
「分かんない……今はなんとか制御できてるけど、いつ暴走するか。セレブラント能力って、まだ研究途上だし。
でも仕事には支障ないよ。まだまだ働ける」
「貴女の能力の話じゃない。貴女自身のこと」
「へ? ワタシ?」
「そう。体が痛いとかだるいとか、そういうことはないの?」
「……ヘレナ」リーゼロッテは呟いた。「まさかワタシの心配、してくれてるの?」
「当たり前でしょ。何年一緒にいると思ってるの」
ヘレナはリーゼロッテから離れて、浴槽の中で元の位置に戻り、姿勢を正して座った。
「貴女のお陰で仲間もできた。一緒に悪夢と戦ってくれる、心強い仲間……。
でも、私にとって貴女が特別な存在であることは変わらないわ」
「トクベツ……」
「ええ。能力だけじゃない。ずっと、ずっと一緒だったもの。
誰にも言えない秘密だって、貴女には打ち明けられた。だから――――だから、貴女にとって私も、特別な存在だったらいいなって思ったのよ。誰にも言えないようなことも、私には打ち明けて欲しいって。自分勝手だとは思うけど……」
ワタシもだよ。そういいかけた口を、リーゼロッテはきゅっと結んだ。
上体を起こし、ヘレナの隣に座る。
「じゃあワタシも、誰にも言えないこと、言っちゃおうかな」
「ほんと⁉」
「実はねー。好きな人がいるんだ」
「えッ⁉」
ヘレナの顔が青くなるのを見て、リーゼロッテは思わず吹き出しそうになった。
「ど、どんな人……?」
「カッコいい人。いつも前に立って、先陣を切ってくれる。
責任感があって、どんなときも真っ直ぐで。家族のことが大好きで、いつも人の見えないところで頑張ってる」
「そ、そうなのね……そんな人がいるのね。その人は年上? それとも年下?」
「うーん。同い歳」
「同い歳⁉ が、学院の生徒……?」
「うん、そうだよ」
「誰かしら……まさか! あの『死神』⁉」
「そんなわけないじゃん」
「そ、そうよね。クローディアは女の子だものね。男子、男子でそういうタイプの……」
ヘレナの頭の中では、学院生徒名簿からのスクリーニングが行われているに違いないが。ヘレナが答えにたどり着くのは難しそうだ。天下のセートカイチョー様は、「学院の生徒」に自分を入れていない。
ただ一言、「ヘレナのことだよ」と助け船を出せば済む話だが。リーゼロッテはいつものいたずら心を発揮して、黙っておくことにした。
ヘレナのこういう困惑なら、いくらでも見ていたくなるのだ。




