#2 潜息
小麦粉。卵。砂糖をよく混ぜる。
こねた生地はしばらく寝かせてから薄く延ばし、形にしてオーブンで焼けば、クッキーの完成だ。
夏休みの帰省を終えてロアノールに戻ってからの3か月ほど。クローディアはサチとともに試行錯誤を重ね、ユリーカの作っていたクッキーの再現に挑んでいる。卵の量が変わると食感も変わる――――ヴェルナの出してくれた、ユリーカの遺していたクッキーに近い味を再現するのは骨が折れた。
ユリーカの自己流レシピのひとつでも残っていれば良かったのだが……。ユリィはそういうものは残さない質だったな、と思い出し、クローディアは旧友を想起して、笑顔を綻ばせる。
魔法薬も料理も、何でも一度覚えれば「感覚」で達人顔負けに出来てしまうのがユリーカだった。
学院から借りた調理実習室。オーブンで焼き上がりを待つ間、サチは睡魔に負けてしまったようだ。作業台の椅子に座って机に突っ伏すサチを見て、クローディアは綻んでいた笑顔が、すっと引いていくのを感じだ。
最近、ずっと訓練室に籠っているようだけど。
このところ、サチはムツミと一緒に訓練室で合奏の特訓をしているようだ。クローディアも参加したかったが、七年生にもなると卒業試験の準備も始まり、なかなか時間を作ることができない。
サチの力になってあげられない自分を、クローディアは悔しく感じる。
マウレンの死は、サチにも重く圧し掛かっているらしい。いや、きっとマウレンだけじゃなく、セナも、ルイスも、ユリーカも。身近な人の死――――それをどうすることもできなかった無力感が、サチを焦らせている。
こんな時、セナならどうしたかしら……。記憶の残渣を掬ってみるが、そこに答えはなかった。
クローディアはいつもセナに助けられてばかりだった。それじゃダメだと頑張ってみても。クローディアとセナの才能の差は歴然で、セナはいつでもクローディアの上を行っていた。クローディアが失敗すると、決まってセナはこういうのだ――――大丈夫、私が何とかする。
そして、本当に何とかしてしまう。クローディアが楽団メンバーを庇いきれずに死別したときも。心が限界を超えてしまって、ベッドから起き上がれなくなったときも。セナは決まって、横に座って微笑んでくれた。次の楽団を探す世話もしてくれたし、悪夢にうなされたときはクローディアが眠るまで付いていてくれた。
それはきっと、初恋だった――――
「……私も、セナみたいに出来たらよかったのにな」
サチ。
セナが救った、最後の命。クローディアが失いたくない命。サチが生きていさえくれれば、セナの死は無駄にはならないのだから。
クローディアはサチに『剣の舞』を託した。なぜだろう―――クローディアは、サチに『剣の舞』を託したあの日のことを、決して忘れない。死地へ赴くことしかできない自分を嘆くしかなかったクローディア。その手を握る、サチのあの目。
「私が最強の楽団を作る」と息巻いた、あの日のセナとそっくりだった。
だから託した。
サチならきっと『剣の舞』を使いこなせる。
いや、それだけではない。クローディアは望んでいたのだ。サチがセナの代わりになって、側にいてくれることを。
「……我ながら、ひどい女よね。私」
サチの頭を撫でながら、クローディアは自己嫌悪を強めた。
後悔がないかといえば嘘になる。
確かに『剣の舞』はサチに託して正解だった。たった半年で、サチは加速の魔奏を極め、学院でも一目置かれる存在になりつつある。セナの魔力融合が、サチの眠っていた力を呼び覚ましたのかもしれない。
だが、その選択をしたクローディアが正しかったのかといえば、それは別の問題だ。
魔奏器を手にしたサチ―――よりにもよって、『剣の舞』。ロアノールの学生すべてが憧れていた、セナ・カラスバの遺品。それを手にしたことで、ただの劣等生だったサチの運命は大きく変わってしまった。
いくつもの楽団に喧嘩をふっかけられた。怪我もした。「死神」の異名を持つ自分とつるむことが、サチにいい影響を与えているとは到底思えない。
自分が、サチの人生を狂わせてしまった―――
そう思うと、クローディアがサチとこうして二人だけの時間を過ごす幸せも、すべて吹き飛んでしまうのだ。今感じている幸せは、サチを犠牲にして得ているものに過ぎない。そう思うと、クローディアは自分のことが心底嫌いになる。
自分は、セナみたいにサチを導きたくても。いつの間にか、自分のほうがサチに手を引かれている。それを望んでしまっている自分がいる。サチをそんな存在にしてしまったのは、間違いなく私――――
「んあッ」跳ね起きたサチ。「クッキー、焼けました?」
「まだしばらくかかるわね。寝ててもいいわよ、サチ」
「クローディアさん……ありがとうございます。むにゃ……」
サチはまた夢の世界に旅立っていってしまった。
こうしてみると、サチは寝顔までセナそっくりに見えてくる。あの、どうしようもない人助けバカ……。生憎、クローディアは人助けバカに救われるばかりで、バカを救う手段について何も知らなかった。
何もかも、クローディアはセナにやってもらってばかりだった。その関係は、セナが死ぬまで変わることはなかった―――
もし、セナに何かしてあげられることがあったなら。クローディアは、自分の左手を見つめた。きっと、クローディアはセナと、本当の友だちになれた。助け合える、支え合える親友に。
そうしたらきっと。この指には今頃、指輪がはまっていたかもしれない。ユリーカがもらった、あの指輪が。対等な関係を築けていたなら、負い目を感じることもなく、クローディアはセナに想いの丈をぶつけることもできただろう。
「……バカみたい、私。何考えてるの」
クローディアがかざした左手の向こうに、サチがすぴすぴ、寝息を立てていた。
ありがとうなんて、言ってはいけない。
サチがクローディアに尽くしてくれるのは、クローディアがそれをさせているからに他ならない。本人に聞けば「そんなことないですよ」と言うに決まっているけれど。『剣の舞』を託し、新生「NIGHT RAVEN」を立ち上げ、セナやルイス、そしてユリーカのやり残したことをサチに引き継がせてしまったのは、間違いなくクローディアなのだから。
サチにはサチの人生があるのに。私がこの子を狂わせた。
ありがとうなんて、言ってはいけない。言う資格がない。私はきっと、恨まれて当然のことをしている。
おそるおそる、クローディアはサチに近づいた。
安らかに眠るサチ。よほど疲れているのだろう。外に飛び出しそうなくらいに跳ね踊るクローディアの心音が、聞こえてしまうのではと怖くなったが、その心配はなさそうである。
ありがとうなんて、言えないけれど。クローディアは厳かに、そして慎重に。無防備に晒されたサチの頬にキスをした。
ほのかに汗ばんだサチの頬は、微かな酸味を帯びている。
それは、熟す前に摘果されたリンゴのような、寂しい青さだった。




