#1 焦燥
新年度の始まりを二週間後に控えた8月のある夜。サチとムツミの共同生活は早くも終わりを告げた。
どたどたと寮の廊下が唸りを上げ、サチのユリ棟434号室の扉がばーんと爆音と共に開け放たれる。
「623!」
「ユーレンお嬢様。もうお戻りになったのですか」
慌てた様子で飛び込んできたのはユーレン・ハルクスス。新年度から一学年上がって六年生となる、ムツミを製造したハルクスス社の令嬢にして、本来の所有者である。
サチはちょうど、ムツミの髪を梳かしてやっているところだった。このところ、シャワーの後で、サチとムツミはお互いの髪を梳かし合うのが日課になっていた。
「623! 腕を損傷したっていうのは……まあ!」
ずかずか部屋に入り込んだユーレンが乱暴にサチを押し退け、ムツミの左腕を掴んで立たせる。
ムツミの損傷した右肘を持ち上げ、上下左右からじっくりと観察するユーレン。
「うーん、これなら。右腕部の全換装は必要なさそうね」
「はい、お嬢様」
「さあ、早く私たちの部屋へ帰りましょう。替えの右腕部パーツも持ってきたから。すぐに直してあげる。
それじゃ、少しの間、うちの623を預かってくれてありがとう、サチ・ホシノさん。かかった経費はあとでまとめて教えて頂戴。うちの会社が負担します。それじゃ、さよなら」
「ま、待ってっ!」
早口で捲し立て、ムツミの手を引き、部屋から出ていこうとするユーレン。咄嗟にサチもムツミの手を取ろうとしたが、残念ながらそこに右腕はない。仕方なく、サチはムツミの腰を掴んで引き留めた。
「折角! ムツミと、友だちになったんです! これで、お別れなんてぇー!」腰を引っ張るサチ。
「『友だち』ですって⁉ 何を気持ち悪い! この子は機械よ! ただの機械と友だちなんて!」引っ張り返すユーレン。
「機械だって、心があればッ! 友だちにも、なれますぅー!」なおも引っ張るサチ。
「強情な子! そんなにうちの623が好きなら、一体お買いなさいな! ローン60年払いくらいなら、売ってあげてもよろしくてよーッ!」ますます力を込めるユーレン。
「わたしの友だちは! モデル623じゃなくて、このムツミなんですぅー!」
急にユーレンが手を離したので、サチはムツミと一緒にベッドに倒れ込んだ。
「このムツミですって……?」
「そうです! ムツミはもう、わたしの友だちなんです!」
「サチ」腰に回ったサチの手を、ムツミは優しくほどく。「あなたのお気持ちは嬉しいですが。私はやはり、右腕を直さなければいけません。それに、今の私はハルクスス社の所有物ですから」
立ち上がったムツミは、丁寧にサチに頭を下げた。
「短い間でしたが、お世話になりました。
安心してください。私とサチは学友、学院の中ではいつでも会えますから。それに夏休みはまだしばらくありますし、新学期までは食事や訓練も一緒にしましょう。
いいですよね、ユーレンお嬢様?」
「え? ええ、まあ。私は623の運用データが取れれば、それで十分ですわ」
「それではサチ、また明日」
小さく手を振り、ムツミはサチの部屋から去って行った。
かつてのムツミなら、サチを振り返りもしなかっただろう――――それに比べると、ムツミとの仲は大分進展したように思える。しかし、一人きりになった寮の部屋……もとより夏休みの間だけ、という約束だったのだ。こうなることは分かっていた。
しかしいざムツミが部屋からいなくなると、こうも寂しくなるのかとサチは一人俯くしかなかった。




