第1話:灰色の廊下へ落ちた少女──水無月雫、十六歳。死因、投身。
この物語は、自ら命を絶った少女が、皮肉屋の死神と共に「死後の世界」を巡る、少しダークな現代ホラー・ファンタジーです。
全てを忘れる究極の「静寂」を選ぶか。
それとも、己を切り刻む「痛み」を抱えたまま進むか。
最後まで見届けていただけますと幸いです。
冬の風が、剃刀のような鋭さでむき出しの頬を削ぎ落としていく。
ごう、ごう。
橋の下を流れるどす黒い水が、コンクリートの堰にぶつかっては重苦しい咆哮を上げている。
欄干を握る指先は、とうの昔に感覚を失っていた。
白く変色した関節だけが、私がそこに縋り付いている事実を証明している。
制服のポケットの中で、硬質な長方形が痙攣するように震えた。
ぶっ、ぶっ、と骨を伝って響く不快な振動音。
液晶画面が青白く発光し、凍てついた太ももの肉を布越しに撫でる。
見なくてもわかる。未送信のメッセージか、あるいは、見知らぬアイコンからの新しい悪意の通知だ。
鉛色の空の下、遠くに見える学校の窓ガラスが、濁った朝日を反射して不気味な眼球のようにこちらを見下ろしている。
足元の川面には、虹色の油膜がどろりと渦を巻いていた。
吸い込まれそうな暗褐色。
恐怖はなかった。「怒り」すら、もう残っていない。
ただ、心臓の奥底に溜まった、ひどく冷たくて重い、泥水のような諦めだけがあった。
もう、何も感じたくない。
それだけだった。
不意に、鼓膜の奥でノイズが弾けた。
『あーあ、また汚い菌がうつるじゃん』
笑い声。甲高く、鼓膜をひっかくような、あの教室の空気。
バンッ、と上履きが床に叩きつけられ、泥まみれの靴底で踏みにじられる乾いた音。
黒板のチョークの粉の匂い。
机の上にびっしりと書かれた、油性ペンの歪な文字。
スマートフォンの通知音が、ひっきりなしに鳴り響く。ぴろん、ぴろん、ぴろん。
無数の指差す手。見ないふりをして通り過ぎるスニーカーの足音。
それらの記憶の断片が、フラッシュバックとなって視界をモザイク状に覆い尽くす。
誰の一撃が致命傷だったのかは、もうわからない。
千の小さな針で全身を刺され続けたようなものだ。
ただ、血が流れ尽くすのを待つには、あまりに時間が長すぎた。
「……うるさい」
ひび割れた唇から、白い息とともに掠れた声がこぼれ落ちる。
欄干から、手を離した。
コンクリートの縁から、ローファーのつま先を虚空へ押し出す。
引力という見えない巨大な手が、私の足首を掴んで真下へと引きずり込んだ。
ヒュウウウウウッ、と、耳元で風が狂ったようにわめき散らす。
胃の腑が喉の奥までせり上がってくるような、強烈な無重力感。
視界を猛スピードで流れていく橋のコンクリート、枯れ草、そして、迫りくる濁った水面。
バンッ、という水に叩きつけられる衝撃を、私は身構えた。
冷たい水が鼻腔を犯し、肺を灼くような苦しみを覚悟した。
しかし。
音は、鳴らなかった。
水面に衝突したはずの瞬間、世界からプツリと「音」が途絶えた。
風のうなりも、堰の咆哮も、自分の悲鳴すらも。
温度が消えた。
重さが消えた。
次いで、網膜に焼き付いていた色彩が、古くなったペンキのようにボロボロと剥がれ落ちていく。
濁った川の黒、空の鉛色、制服の紺色。
全てが白く飛んでいくのではなく、ただ、色が「失われていく」。
自分が落ちているのか、浮かんでいるのかすらわからない、圧倒的な虚無。
映像が途切れ、私は、灰色の底へと沈んでいった。
***
足裏に、硬く、それでいて微かに滑り気のある感触が伝わってきた。
私は立っていた。
目を開ける。
そこは、無限に続くような灰色の廊下だった。
光源は見当たらないが、空間全体が鈍い燐光のようなもので薄ぼんやりと照らされている。
床は、黒曜石のように深く暗い光沢を放っていた。
水面のように私の姿を反射しているが、そこに映る私は制服姿のままで、一滴の水にも濡れていなかった。
ふと、違和感に気づく。
心音が、ない。
耳を澄ませても、胸に手を当てても、あの小刻みな音が聞こえない。
息もしていない。空気を吸い込む感覚も、吐き出す感覚もない。
それなのに、思考だけが異常なほどクリアに冴え渡っている。
「すぅ……はぁ……」
不意に、奇妙な音が耳を打った。
自分の呼吸ではない。
音源は、左右にそびえ立つ、果てしなく高い灰色の壁だった。
「すぅ……はぁ……」
微かな湿り気を帯びた音が、空間全体に反響している。
目を凝らすと、壁そのものが、巨大な肺のように、わずかに膨らんでは縮むのを繰り返していた。
なめらかで、生肉のような、ひどく生々しい蠢き。
私が小さくため息をつくと、壁の蠕動がそれに同期するようにぴたりと一瞬止まり、再び、より大きな振幅で脈打ち始めた。
自分が死んだのだという事実が、真綿で首を絞められるように、ゆっくりと、脳髄に浸透してくる。
恐怖というよりも、現実感の喪失による強烈な吐き気のようなものが込み上げてきた。
歩き出す。
黒曜石の床を叩くローファーの音は、コツ、コツ、と鳴るはずなのに、ここでは一切の反響を奪われ、まるで泥の上を歩いているかのように重く沈んで消えた。
歩みを進めるたび、呼吸する壁の表面に、異変が起きる。
灰色の皮膜がぬちゃりと裂け、中から何かが浮かび上がってきた。
見慣れた木目の扉。かすれた『2年3組』のプレート。
私の教室のドアだ。
ドアノブがガチャリと回りかける。あの、嘲笑に満ちた空間が開かれようとする。
私が思わず身構えた瞬間、そのレリーフは、まるで古いデジタル映像がバグを起こしたかのように、5秒ごとに四角いブロック状のモザイクへと分解され、壁の灰色に溶けて崩れ落ちた。
少し進むと、今度は自室の壁に貼ってあった映画のポスターが浮かび上がり、またすぐにモザイクとなって崩れる。
私の記憶が、空間に吸い出され、消化されているかのように。
『ああっ、違うの……やめて……!』
『いやぁぁぁっ!』
遠くから、いや、壁の奥深くから、ノイズ混じりの絶叫が聞こえた。
モザイクの隙間、壁が裂けた一瞬の闇の奥に、別の景色がフラッシュバックのように点滅する。
スーツ姿の男が、土下座をして泣き喚いている姿。
白いベッドに横たわり、虚ろな目で宙を見つめる老人の姿。
他の魂たちの、残骸だ。
彼らの悲鳴は、壁の呼吸音に掻き消され、ただの環境音としてこの空間に溶け込んでいく。
しゃら、しゃら。
不気味なノイズの合間を縫って、ひどく規則的で、乾燥した音が鼓膜を叩いた。
細かいガラスの粉が零れ落ちるような音。
視線を前に向ける。
無限に続くかと思われた灰色の廊下の終端に、ぽつんと、黒いカウンターのようなものが浮かんでいた。
その向こう側に、背を向けた黒衣の存在がいる。
何かを書き込んでいるような、ぎりっ、ぎりっ、という硬質な音が、砂の音に混じって響いてきた。




