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死神「君という未完のスケッチを聞かせてくれ」――いじめ自殺の少女から傲慢な殺人鬼まで、嘘が石へと変わる『境目』で己の魂と向き合う、美しくも残酷な因果応報の物語  作者: silver fox
第1章:沈黙の螺旋、舌を貫く氷の棘。ある中間管理職が「完全なる死」を受け入れる夜

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第8話:誰の承認も押されない人生

 バシャッ。


 プラスチックの定規を繋ぎ合わせたような手製のオールで、水銀の海を掻き出す。

 水は見た目通りに重く、ゼリーの中に櫂を突っ込んでいるようなすさまじい抵抗感があった。


 岸を離れて数メートル進んだ瞬間。

 川が、明確な殺意を持って俺に牙を剥いた。


 ゴボッ、ゴボボボッ!


「なっ……!?」


 筏の周囲の水面が沸騰したように泡立ち、そこから無数の「手」が突き出してきたのだ。

 青白く、ふやけた無数の手。それらが、会議資料の筏の端を掴み、俺の足首に絡みつこうと這い上がってくる。


『どうして……どうして早退したの?』


 耳元で、女の怨嗟の声が響いた。祖母の葬儀で、俺を軽蔑の目で見ていた従姉妹の声だ。


『佐藤さんは、いつも肝心なところで逃げますよね』


 水面から現れた別の手が、俺のスーツの裾を強く引っ張る。心を病んで退職していった部下の、最後の日の声だった。


『今日も遅いの?……ううん、いいよ、もう慣れたから。ご飯、ラップかけておくね』


 美香の、諦めきった空虚な声。

 俺が「見なかったこと」「聞かなかったこと」にして消去してきた記憶の亡霊たちが、一斉に俺をこの重い海へ引きずり込もうとしているのだ。


「ぐっ……離せッ!」


 オールで手を振り払おうとするが、切りがない。

 それどころか、亡霊たちの冷たい手に触れられた足首から、俺の身体が急速に透明化し始めた。


 ピカッ。


 同時に、俺の胸の奥深くで、どす黒い赤色の光が明滅し始めた。


 岸辺から、死神の声が風に乗って響いてくる。

『罪が光っているね。君が見ないふりをして、棚上げにしてきたエゴの塊だ』


 海の中程まで進むと、突然、乳白色の濃い霧が視界を覆い尽くした。

 真実の霧だ。

 波の音も、亡霊の声も、すべてが分厚い壁の向こうに遮断されたように消え失せる。


 無音の霧の中。

 筏の舳先に、「もう一人の男」が座っていた。


 よれよれのチャコールグレーのスーツ。丸めた背中。

 あの執着区画の小部屋で、永遠に白紙の書類にハンコを押し続けていた「俺の分身」だった。


「お前は……俺か」


 震える声で問う。


 分身は、虚ろな目をゆっくりと上げ、俺を真っ直ぐに見据えた。


『俺はお前だ』


 分身の口は動いていない。だが、その声は俺の脳髄のド真ん中に直接響いた。


『お前が見たくなかった、お前の本性だ。お前は、家族のために生きたことなんて一度もない。会社のためでもない。お前はただ「そうするのが常識だから」と思い込んで、波風を立てないように、責任から逃げ続けてきただけの臆病者だ』


「違う……俺は……!」


 反論しようと口を開いたが、舌を貫いた氷の棘の痛みがフラッシュバックし、言葉が喉に張り付いた。

 いや、違う。痛みのせいじゃない。

 分身が突きつけてきた言葉が、寸分の狂いもない「完全なる真実」だと、俺の魂の底が完全に理解してしまっていたからだ。


『お前は、誰の記憶にも残らない。お前の人生は、この水に溶けて消えるのがお似合いだ』


 分身の姿が、霧の中にゆっくりと溶けて消えていく。

 後に残された俺の胸の奥の赤い光は、もう隠しようがないほど強烈に、俺の全身を内側から照らし出していた。



 ***


 真実の霧を抜けた時、俺の身体はすでに半分以上、向こう側の景色が透けて見えるほどに透明になっていた。


 足元の筏は、もはや崩壊寸前だった。

 接着剤代わりの糊は水銀の海に溶け出し、会議資料はふやけて千切れ、名刺や有給休暇届は、七色の波に飲まれて一枚、また一枚と散らばっていく。


 遥か遠くに、対岸の黒いシルエットが微かに見えた。

 だが、圧倒的に遠すぎる。

 この紙屑の筏では、どうあがいても辿り着けない距離だ。


「……届かないな」


 恐怖は、なかった。

 絶望すらなかった。

 ただ、冷たい水が膝から太もも、そして腰へと浸水してくる感覚だけが、奇妙に現実味を帯びていた。


 風に乗って、死神の囁きが耳に届く。

『君の筏は、最初から対岸に届くようには出来ていない。君の人生が、そういう材質だったからね』


 その声は、嘲笑というよりも、どこか事実を淡々と述べるだけの、静かな響きを持っていた。


「ああ……知ってたよ」


 俺は、オールを手放し、水面に仰向けに倒れ込んだ。


 バシャァッ。


 水銀のように重い水が、透明になりかけた俺の身体を優しく包み込む。

「社会の正しさ」で出来た冷たい水が、俺のちっぽけなエゴを、言い訳を、罪悪感を、急速に分解し、溶かしていく。


(ああ、やっと終わる)


 不思議な安堵感が、胸を満たした。

 明日の会議の準備も、上司の顔色を窺うことも、妻への後ろめたさも、もう何も感じなくていい。

 終わりのない捺印作業から、俺はついに解放されるのだ。


 視界が、真っ白な光に包まれていく。

 最後に残った脳の機能が見せた幻覚だったのだろうか。


 光の向こうに、あの執着区画のロッキングチェアに座る祖母の姿が見えた。

 灰色の毛糸を編んでは解き、解けては編んでいた祖母。


 彼女の手元が、今だけははっきりと見えた。

 それは、不格好に編み目が飛んだ、子供用の小さなマフラーだった。

 俺が小学生の頃、初めて祖母が編んでくれた、あの青いマフラー。


「おばあちゃん……」


 その微かな呟きは、声帯を震わせることなく、七色の水面にシュワッと小さな泡を立てて、完全に溶けて消えた。


 ───────────────────────


 波打ち際で砕けるガラスの音が、一定のリズムを刻んでいる。


 死神は、川岸の黒い砂利の上に立ち、水銀の海の中程で「佐藤修」という魂が完全に溶解し、無へと還る瞬間を最後まで見届けていた。


 水面には、もう何も残っていない。

 チープな紙屑の筏も、会議資料も、すべてが「正しさの海」に呑み込まれ、跡形もなく消え去った。


「……」


 死神は、ゆっくりと大鎌の柄を握り直し、それを肩に担いだ。

 フードの奥で、燃え盛る赤い焔の双眸が微かに揺らぐ。


 そして、誰に聞かせるでもなく、冷たい空間に向かって一人呟いた。


「結局のところ、君は最後まで誰かからの『承認印』を待っていたな」


 右目のスロットマシンのような数字が、カチャリ、と音を立てて一つカウントを増やした。


「──誰も、君の人生になどハンコを押さないというのに」


 死神が踵を返した瞬間、彼が纏う漆黒のローブから、星屑の粒子がパラパラと零れ落ちた。

 同時に、靴底から鳴る砂時計の音が、再び空間に響き始める。


 サラ……サラ……。


 絶対的な均等時間。

 どれほど魂が苦悶し、絶望し、そして無に還ろうとも、この「境目」の時間は一秒の狂いもなく進み続ける。


 ふと、死神は足を止めた。

 灰色の霧の向こう、執着区画の入り口のあたりから、微かな空気の乱れを感じ取ったのだ。


「さて」


 死神は深く、そしてひどく芝居がかったため息をついた。


「次は、誰だ」


 彼が右手に持った大鎌を無造作に振り抜くと、ブゥンッという重低音と共に空間に亀裂が走り、その裂け目の向こうに、過飽和の蛍光色がチカチカと明滅する回廊が覗いた。

 新たな魂が、自らの執着に溺れながらこちらへ向かってきている。


 死神の左目のカウントダウンが、不規則に点滅を繰り返す。

 裂けられた空間の向こうを見つめながら、彼のフードの奥の唇が、凶悪な三日月型に吊り上がった。


「私の尽きない退屈を紛らわせる、とびきり面白い悲劇を……期待しているよ」


 永遠の下書きが続く狂詩曲の舞台に、再び幕が上がる音がした。




最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


この物語が少しでも心に残ったり、何かを感じていただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。


もしよろしければ、作品の感想や評価をいただけると、今後の創作の大きな励みになります。


また次の作品でお会いできることを楽しみにしています。


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