第8話:誰の承認も押されない人生
バシャッ。
プラスチックの定規を繋ぎ合わせたような手製のオールで、水銀の海を掻き出す。
水は見た目通りに重く、ゼリーの中に櫂を突っ込んでいるようなすさまじい抵抗感があった。
岸を離れて数メートル進んだ瞬間。
川が、明確な殺意を持って俺に牙を剥いた。
ゴボッ、ゴボボボッ!
「なっ……!?」
筏の周囲の水面が沸騰したように泡立ち、そこから無数の「手」が突き出してきたのだ。
青白く、ふやけた無数の手。それらが、会議資料の筏の端を掴み、俺の足首に絡みつこうと這い上がってくる。
『どうして……どうして早退したの?』
耳元で、女の怨嗟の声が響いた。祖母の葬儀で、俺を軽蔑の目で見ていた従姉妹の声だ。
『佐藤さんは、いつも肝心なところで逃げますよね』
水面から現れた別の手が、俺のスーツの裾を強く引っ張る。心を病んで退職していった部下の、最後の日の声だった。
『今日も遅いの?……ううん、いいよ、もう慣れたから。ご飯、ラップかけておくね』
美香の、諦めきった空虚な声。
俺が「見なかったこと」「聞かなかったこと」にして消去してきた記憶の亡霊たちが、一斉に俺をこの重い海へ引きずり込もうとしているのだ。
「ぐっ……離せッ!」
オールで手を振り払おうとするが、切りがない。
それどころか、亡霊たちの冷たい手に触れられた足首から、俺の身体が急速に透明化し始めた。
ピカッ。
同時に、俺の胸の奥深くで、どす黒い赤色の光が明滅し始めた。
岸辺から、死神の声が風に乗って響いてくる。
『罪が光っているね。君が見ないふりをして、棚上げにしてきたエゴの塊だ』
海の中程まで進むと、突然、乳白色の濃い霧が視界を覆い尽くした。
真実の霧だ。
波の音も、亡霊の声も、すべてが分厚い壁の向こうに遮断されたように消え失せる。
無音の霧の中。
筏の舳先に、「もう一人の男」が座っていた。
よれよれのチャコールグレーのスーツ。丸めた背中。
あの執着区画の小部屋で、永遠に白紙の書類にハンコを押し続けていた「俺の分身」だった。
「お前は……俺か」
震える声で問う。
分身は、虚ろな目をゆっくりと上げ、俺を真っ直ぐに見据えた。
『俺はお前だ』
分身の口は動いていない。だが、その声は俺の脳髄のド真ん中に直接響いた。
『お前が見たくなかった、お前の本性だ。お前は、家族のために生きたことなんて一度もない。会社のためでもない。お前はただ「そうするのが常識だから」と思い込んで、波風を立てないように、責任から逃げ続けてきただけの臆病者だ』
「違う……俺は……!」
反論しようと口を開いたが、舌を貫いた氷の棘の痛みがフラッシュバックし、言葉が喉に張り付いた。
いや、違う。痛みのせいじゃない。
分身が突きつけてきた言葉が、寸分の狂いもない「完全なる真実」だと、俺の魂の底が完全に理解してしまっていたからだ。
『お前は、誰の記憶にも残らない。お前の人生は、この水に溶けて消えるのがお似合いだ』
分身の姿が、霧の中にゆっくりと溶けて消えていく。
後に残された俺の胸の奥の赤い光は、もう隠しようがないほど強烈に、俺の全身を内側から照らし出していた。
***
真実の霧を抜けた時、俺の身体はすでに半分以上、向こう側の景色が透けて見えるほどに透明になっていた。
足元の筏は、もはや崩壊寸前だった。
接着剤代わりの糊は水銀の海に溶け出し、会議資料はふやけて千切れ、名刺や有給休暇届は、七色の波に飲まれて一枚、また一枚と散らばっていく。
遥か遠くに、対岸の黒いシルエットが微かに見えた。
だが、圧倒的に遠すぎる。
この紙屑の筏では、どうあがいても辿り着けない距離だ。
「……届かないな」
恐怖は、なかった。
絶望すらなかった。
ただ、冷たい水が膝から太もも、そして腰へと浸水してくる感覚だけが、奇妙に現実味を帯びていた。
風に乗って、死神の囁きが耳に届く。
『君の筏は、最初から対岸に届くようには出来ていない。君の人生が、そういう材質だったからね』
その声は、嘲笑というよりも、どこか事実を淡々と述べるだけの、静かな響きを持っていた。
「ああ……知ってたよ」
俺は、オールを手放し、水面に仰向けに倒れ込んだ。
バシャァッ。
水銀のように重い水が、透明になりかけた俺の身体を優しく包み込む。
「社会の正しさ」で出来た冷たい水が、俺のちっぽけなエゴを、言い訳を、罪悪感を、急速に分解し、溶かしていく。
(ああ、やっと終わる)
不思議な安堵感が、胸を満たした。
明日の会議の準備も、上司の顔色を窺うことも、妻への後ろめたさも、もう何も感じなくていい。
終わりのない捺印作業から、俺はついに解放されるのだ。
視界が、真っ白な光に包まれていく。
最後に残った脳の機能が見せた幻覚だったのだろうか。
光の向こうに、あの執着区画のロッキングチェアに座る祖母の姿が見えた。
灰色の毛糸を編んでは解き、解けては編んでいた祖母。
彼女の手元が、今だけははっきりと見えた。
それは、不格好に編み目が飛んだ、子供用の小さなマフラーだった。
俺が小学生の頃、初めて祖母が編んでくれた、あの青いマフラー。
「おばあちゃん……」
その微かな呟きは、声帯を震わせることなく、七色の水面にシュワッと小さな泡を立てて、完全に溶けて消えた。
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波打ち際で砕けるガラスの音が、一定のリズムを刻んでいる。
死神は、川岸の黒い砂利の上に立ち、水銀の海の中程で「佐藤修」という魂が完全に溶解し、無へと還る瞬間を最後まで見届けていた。
水面には、もう何も残っていない。
チープな紙屑の筏も、会議資料も、すべてが「正しさの海」に呑み込まれ、跡形もなく消え去った。
「……」
死神は、ゆっくりと大鎌の柄を握り直し、それを肩に担いだ。
フードの奥で、燃え盛る赤い焔の双眸が微かに揺らぐ。
そして、誰に聞かせるでもなく、冷たい空間に向かって一人呟いた。
「結局のところ、君は最後まで誰かからの『承認印』を待っていたな」
右目のスロットマシンのような数字が、カチャリ、と音を立てて一つカウントを増やした。
「──誰も、君の人生になどハンコを押さないというのに」
死神が踵を返した瞬間、彼が纏う漆黒のローブから、星屑の粒子がパラパラと零れ落ちた。
同時に、靴底から鳴る砂時計の音が、再び空間に響き始める。
サラ……サラ……。
絶対的な均等時間。
どれほど魂が苦悶し、絶望し、そして無に還ろうとも、この「境目」の時間は一秒の狂いもなく進み続ける。
ふと、死神は足を止めた。
灰色の霧の向こう、執着区画の入り口のあたりから、微かな空気の乱れを感じ取ったのだ。
「さて」
死神は深く、そしてひどく芝居がかったため息をついた。
「次は、誰だ」
彼が右手に持った大鎌を無造作に振り抜くと、ブゥンッという重低音と共に空間に亀裂が走り、その裂け目の向こうに、過飽和の蛍光色がチカチカと明滅する回廊が覗いた。
新たな魂が、自らの執着に溺れながらこちらへ向かってきている。
死神の左目のカウントダウンが、不規則に点滅を繰り返す。
裂けられた空間の向こうを見つめながら、彼のフードの奥の唇が、凶悪な三日月型に吊り上がった。
「私の尽きない退屈を紛らわせる、とびきり面白い悲劇を……期待しているよ」
永遠の下書きが続く狂詩曲の舞台に、再び幕が上がる音がした。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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