第7話:無言の船頭と、最も大切な記憶
ゴォォォォォン……。
重く低い鐘の音の余韻が、鼓膜の奥で微かに震え続けている。
俺の目の前には、果てしなく広がる「川」があった。
いや、それを川と呼んでいいのかすらわからない。水面はまるで巨大な水銀の沼のようにぬらぬらと重々しい光沢を放ち、不気味な七色に輝いている。だが、じっと見つめようとすると、その色は逃水のようにスッと視界の端へ逃げていく。
シャリン、ガシャァァン。
波が打ち寄せるたびに、ガラスが砕けるような鋭い音が鳴った。波頭が、本物の無数のガラスの破片で構成されているのだ。破片同士が擦れ合い、水面には半壊した真鍮の歯車がいくつも浮かんで、ギシギシと悲鳴のような軋み音を立てながらゆっくりと旋回している。
「これが……三途の川か?」
舌を貫かれた激痛の残滓に顔を歪めながら、掠れた声で呟く。
「『感情の海』とも呼ばれる領域だ」
死神が、身の丈の倍はある大鎌を肩に担ぎながら、悠然と俺の横に並んだ。
「君たちが、自分自身を裁く最後の法廷だよ。裁判官も、陪審員も、そして被告も──すべては君の魂だ」
死神はフードの奥で、赤い焔の双眸を三日月型に細めた。
「私はただの観客さ。最前列でポップコーンを齧るようなものだね」
俺が川岸の砂利に一歩足を踏み出すと、足元でチカッ、と奇妙な光が瞬いた。
見下ろすと、黒い砂利の一つ一つが極小のモニターのようになり、俺の過去の映像を無音で再生し始めていた。妻の美香との結婚式で作り笑いを浮かべる俺。部下の高橋を会議室で怒鳴りつけている俺。祖母の葬儀を抜け出し、急ぎ足でタクシーに乗り込む俺の背中。
「さて、渡河のルールを教えておこう」
死神が、鎌の石突で水銀のような水面をコツンと叩いた。波紋が広がり、七色の油膜が揺れる。
「この川の水質は、『社会が求める正しさ』の結晶で出来ている。純度百パーセントの道徳と倫理だ。だからこそ──清く正しい魂ほど、この水は絶対零度のごとく冷たく、自我を急速に溶かしてしまう」
俺は眉をひそめた。
「……逆じゃないのか? 普通、正しい者が救われるべきだろう」
「逆じゃないから面白いんじゃないか」
死神の喉の奥から、クククという乾いた笑い声が漏れた。
「悪人は、自分のエゴという分厚い皮脂に覆われている。だからこの正しい水の中に入っても、温かいぬるま湯に浸かっているように自我を保ったまま対岸へ渡り切れる。だが、善人は違う。他者のために生きようとした脆い魂は、この水の冷たさに耐えられず、自分が何者だったかも忘れて溶けていくんだ」
死神が、俺の顔を至近距離から覗き込んできた。焔の熱が頬を炙る。
「さて、君はどっちだと思う? 対岸に辿り着ける悪人か。それとも、溶けて消える善人か」
俺が答える前に、死神は肩に担いでいた大鎌を大きく振り下ろした。
ヒュンッ!という風切り音と共に、刃先から黒い砂が川岸に撒き散らされる。
ズズズズ……。
砂が落ちた水際から、ボコボコと音を立てて「何か」が浮上してきた。
俺がこの海を渡るための「筏」だ。
だが、その姿を見た瞬間、俺は絶望的な脱力感に襲われた。
木材でも、鉄でもない。
その筏は、薄っぺらい会議資料の束、端が割れかけたプラスチックのクリアファイル、輪ゴム、色褪せた取引先の名刺、そして、一度も提出されなかった有給休暇届の紙切れで構成されていた。それらがインクの滲んだ糊のようなもので辛うじて接着されているだけだ。
「これが、君の人生の『材質』だ」
死神が、実に退屈そうに言い放った。
「利己的な暴君の筏は鋭いガラス片で出来ている。献身的な聖者の筏は重厚な仏壇の扉だ。そして君は……ああ、見事なまでにチープな事務用品の寄せ集めだね。君の空虚な人生を完璧に体現している」
水面で頼りなく揺れるその筏は、あまりにも脆く、惨めだった。
「こんなもので……渡れるのか?」
「さあね。それを決めるのは、君の魂の粘度次第だ」
***
俺が脆すぎる事務用品の筏に足をかけようとした、その時だった。
スゥゥゥ……。
右手の川岸、乳白色の霧が異様に濃く立ち込めている場所から、音もなく「影」が滑り出てきた。
足音はない。水音もしない。ただ、絶対的な沈黙だけを纏って、それは近づいてきた。
漆黒の、ボロボロに擦り切れた古いローブ。
死神のローブのように星屑は輝いていない。ただ光を吸い込むだけの、純粋な「闇」の布だ。
フードの奥には、死神のような赤い眼すら存在しない。完全な空洞、顔のない暗黒だけがそこにあった。
それは、黒い木で出来た小舟の舳先に立ち、俺に向かってゆっくりと、白骨の右手を差し伸べた。
「ああ、彼が来たか」
死神が、右目の数字の回転を止め、興味深そうにその影を見つめた。
「無言の船頭だよ。彼を使うという手もある。あの脆い筏に乗るのが怖いなら、彼の船に乗ればいい。一切の試練なく、確実に君を対岸まで運んでくれる」
俺は、差し伸べられた白骨の手を見つめた。
死神が放つのは「超越者の退屈と愉悦」という明確な意思だ。だが、この船頭からは何の感情も読み取れない。ただ、圧倒的な「無」の不気味さだけが、ひんやりと肌を撫でてくる。
「……代償は、何だ?」
警戒しながら問う俺の耳元で、死神が楽しげに囁いた。
「君が『最も大切にしている記憶』だよ。たった一つでいい。それを彼の手の上に置けば、取引は成立だ」
記憶。
俺の脳裏を、走馬灯のように映像が駆け巡った。
新婚旅行で、美香が海を見てはしゃいでいた笑顔。
縁側で、祖母が背中を丸めて毛糸を編んでいた温かい光景。
新入社員の時、初めて自分の企画が通って、手が震えるほど嬉しかったあの瞬間。
どれも、俺の薄っぺらい人生の中で、辛うじて光を放っている数少ない破片だった。
「さあ、どれを渡す? 最も大切なものを選ぶんだ」
死神の急かすような声が響く。
俺は、船頭の虚無の顔と、白骨の手をじっと見つめた。
記憶を一つ引き渡せば、俺はこの水銀の海を安全に渡り切り、次の領域──それが光か闇かはわからないが──へ進むことができる。
だが。
(……記憶を捨ててまで続く存在に、何の意味がある?)
妻の笑顔を忘れ、祖母の温もりを忘れ、自分が自分であった証を切り売りしてまで、この空っぽの魂を長生きさせて、一体何になるというのだ。
長い沈黙の後。
俺は、船頭の白骨の手から視線を外し、背を向けた。
「……自分で渡る」
「ほう?」
死神が、意外そうに声を上げた。フードの奥の焔が、微かに揺らぐ。
「理由を聞かせてもらおうか。その紙屑の筏で沈む確率の方が圧倒的に高いというのに」
俺は、クリアファイルと会議資料で出来た筏に両足を乗せた。
ブチュッ、とインクと紙が濡れる嫌な音がしたが、意外にも俺の体重を支えて浮いている。
「俺の人生は、空っぽで、嘘ばかりで、チープな事務用品みたいなもんだったかもしれない。でも……それでも、俺が重ねてきた俺の人生だ」
俺の唇から、自然と笑みがこぼれた。
自嘲だった。だが、今まで感じたことのないほど、心が晴れやかだった。
「最後くらい、誰の力も借りずに、俺自身の足で終わらせたいんだよ」
死神は、しばらくの間、無言で俺を見つめていた。
左目のカウントダウンが、静かに時を刻む。
やがて、死神は小さく、誰に聞こえるでもない声で呟いた。
「……悪くない」




