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死神「君という未完のスケッチを聞かせてくれ」――いじめ自殺の少女から傲慢な殺人鬼まで、嘘が石へと変わる『境目』で己の魂と向き合う、美しくも残酷な因果応報の物語  作者: silver fox
第1章:沈黙の螺旋、舌を貫く氷の棘。ある中間管理職が「完全なる死」を受け入れる夜

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第6話:舌に刺さる、真実の罰

 俺は、舌の痛みに耐えながら、死神の背中を追って書架の間を進んだ。

 本棚には、無数の名前が背表紙に刻印されている。見知らぬ他人の名前ばかりだ。


「君の本は、あそこだ」


 死神が足を止めたのは、液体金属のオブジェが淡く光る一角だった。

 黒い装丁の分厚い本が一冊、書見台のような台座の上に置かれている。

 表紙には、銀色の箔押しで『佐藤修』と記されていた。


「開いてみろ」


 促されるまま、俺は震える指で表紙に触れた。

 革の表面は、まるで生き物の皮膚のように微かな温もりを持っていた。

 ページを開く。


 パサッ。


 紙の擦れる音が、無音の空間に不気味なほど響き渡る。

 ページは真っ白だった。だが、俺の視線が落ちた瞬間、紙の表面から黒いインクがじわじわと染み出し、文字を形成し始めた。


『佐藤修は、三十二歳の春、妻・美香の誕生日を三年連続で忘れた』


 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 違う、忘れたわけじゃない。あの年はプロジェクトの大規模なトラブル処理に追われていて、家に帰るのが連日深夜だったんだ。余裕がなかっただけだ。


 だが、文字は俺の思考を無視して、次々とインクを吐き出し続ける。


『佐藤修は、部下の高橋が徹夜で仕上げた企画書を、自分の名前でクライアントに提出した。彼はそれを後日、酒の席で「チームとしての調整だ」と弁明した』


 息が詰まった。

 そうだ、俺は確かにそう言った。高橋には「お前の評価はボーナスで上げるから」と口約束で誤魔化した。自分の出世のために、部下の才能を盗んだのだ。


『佐藤修は、三十歳の秋、自分を育ててくれた祖母の葬儀を「外せない会議がある」という理由で早退した。しかし、その会議は彼が出席しなくても進行する定例報告会に過ぎなかった』


「あっ……」


 俺の口から、掠れた声が漏れた。

 チクッ。舌に二本目の氷の棘が刺さる。だが、そんな痛みなどどうでもよかった。

 あの時、俺は火葬場まで残るのが面倒だったのだ。親戚の小言を聞くのが嫌だった。だから「仕事」という絶対的な免罪符を使って、祖母の骨を拾うことから逃げたのだ。


「面白い記述が続いているね」


 背後から、死神が覗き込んでいた。

 彼は楽しげに、大鎌の刃を指先で弾いた。チィィン、という冷たい音が鳴る。


「君は生前、自分を『家族のために身を粉にして働く、善良で常識的な夫』だと思い込んでいた。そうやって自分を美化し、麻酔をかけていたんだ」


 俺は首を振った。

 ページが、俺の手を離れて勝手にパラパラとめくれていく。

 そして、最後のページでピタリと止まった。


 そこには、ほんの少し前に書き込まれたばかりの、真新しいインクの文字が刻まれていた。


『佐藤修は、トラックに撥ねられ死の淵に落ちる直前、自分の死を悟りながらこう思った。「これで明日の会議に出なくていい」と』


「黙れッ!!」


 俺は、限界を超えて叫んでいた。

 本を力任せに払い除け、死神に向かって怒鳴りつけた。


「俺の人生だ! 俺が一番わかってる! お前に何がわかる!!」


 その瞬間だった。


 ゴシャッ!!


「ガッ……!? あ、がァァァァァァッ!!」


 口の中で、爆発が起きたような激痛が走った。

 口内を血の味が満たす。俺は喉を掻き毟りながら、黒曜石の床に転げ回った。


 舌の中央を、親指ほどの太さの鋭利な『氷の棘』が、上から下へと完全に貫通していたのだ。棘は舌肉を突き破り、下顎の裏側にまで達している。

 声を出そうにも、口から溢れるのは鮮血と、ヒューヒューという情けない空気の漏れる音だけ。


「だから警告したはずだ。ここで大声を出すなと」


 死神は、床で血を吐きながらのたうち回る俺を、冷ややかな焔の眼で見下ろしていた。


「自己欺瞞の皮を剥がされるのが、そんなに痛いか? だが、氷の棘の痛みなど、君の精神が受けた屈辱に比べれば安いものだろう」


 死神の言う通りだった。

 舌を貫く物理的な激痛よりも、自分の人生が徹頭徹尾「逃げ」と「嘘」で塗り固められた空虚なものであったという事実を、逃げ場のない文字として見せつけられたことの方が、何百倍も俺の心を切り裂いていた。



 ***


「ゴホッ、あ……」


 口の中に張り付いていた氷の棘が、体温で急速に溶け、血混じりの水となって顎を伝い落ちた。痛みの余韻に震えながら、俺は四つん這いのまま荒い息を吐き出す。


 その時。

 俺の身体に起きていた『明滅』が、不自然なほどピタリと止まった。

 透明化していた手足が、完全にどす黒い実体を取り戻している。


「おや」


 死神が、空中の鎖の動きから目を離し、俺を見た。


「延命処置が、限界を迎えたようだね。現世の肉体との繋がりが、たった今、完全に断たれた」


 死神の声は淡々としていた。

 だが、事態はそれだけでは終わらなかった。


「な、なんだ……これは……?」


 身体が、重い。

 異常なほど重い。

 見えない巨大な万力で、全身の骨を床に押し付けられているようだ。内臓の中に、ドロドロに溶けた鉛を大量に流し込まれたような重圧。

 俺は立ち上がるどころか、腕一本持ち上げることすらできず、這いつくばったまま床に顔を押し付けた。


「君の『罪』だ」


 死神が、俺の顔の横にしゃがみ込んだ。

 ローブから零れる星屑の粒子が、俺の頬を冷たく撫でる。


「この『境目』の物理法則は、現世とは少し違う。大罪を犯した重悪人は、風船のように軽く宙に浮く。逆に、君のように日々の小さな嘘、見栄、言い訳、見殺しといった『小狡い罪』を積み重ねてきた者は、その罪の粘度によって身体が鉛のように重くなる。逆説的だがね」


 俺は呼吸すら苦しくなりながら、眼球だけを動かして死神を睨みつけた。

 だが、心の中では絶望的なまでの納得感が広がっていた。


(俺は、何のために生きていた?)


 妻のため? 違う。俺は彼女の誕生日すら忘れていた。

 会社のため? 違う。俺はただ、自分の責任を他人に押し付けるためにハンコを押し続けていた。

 家族のため? 自分のため?


 いや、自分のためですらなかった。

 ただ「常識」という名のレールの上を、波風を立てないように、誰の記憶にも残らないように、ずるずると流されていただけだ。


 俺の人生は、空っぽのプラスチック容器のようなものだった。


「戻りたいか?」


 死神が、耳元で悪魔のように囁いた。


「もし今、私が特別な力を使って、君の魂をあのICUのベッドに押し戻してやると言ったら。君は、泣いて喜んで現世に戻るか?」


 俺は、答えられなかった。

 口を開こうとしたが、言葉が出ない。


 戻って、何をする?

 あの機械音の鳴る病室で目を覚まし、美香に「心配かけたな」と心にもない嘘をつくのか?

 退院して、またあの会社のデスクに座り、意味のない白紙の書類に決裁印を押し続けるのか?

 祖母の墓参りを、「来週行くよ」と永遠に先延ばしにするのか?


 俺は……そんな人生に、もう一秒たりとも戻りたくなかった。


 ゴォォォォォン……。


 不意に、塔の底から、あるいはもっと遠い場所から、重く、低く、腹の底を揺らすような鐘の音が響いてきた。

 不思議なほど、優しく、慰めを孕んだ音色だった。


「……三途の川が、呼んでいる」


 死神が立ち上がった。

 彼が身の丈の大鎌を肩に担ぎ直すと、右目の回転していた数字がピタリと止まり、左目のカウントダウンが静かに時を刻み始めた。


「君の延命は終わり、生への執着も砕け散った。これで君は、完全な死の領域へと移行したわけだ」


 俺は自分の胸を見た。

 鉛のような重さはそのままだが、透明になる気配はもう微塵もない。それは「生還」の証ではなく、逃れようのない「完全なる死」の確定だった。


「さあ、行こうか、佐藤修」


 死神が踵を返し、霧の向こうへと歩き出す。


「最後の舞台は、感情の海──川の向こうだ」


 俺は重い身体を引きずりながら、その後ろ姿を追うしかなかった。

 舌の痛みが、俺がもう二度と現世の言葉を紡げないことを、冷酷に告げていた。




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