第5話:沈黙の図書館へようこそ
ピーーーッ、プッ、ピーーーッ。
無機質で乾いた電子音が、深夜の集中治療室(ICU)の冷たい空気を規則正しく切り裂いていた。
白いシーツに深く沈み込む佐藤修の肉体は、無数のチューブとセンサーに縛り付けられている。口内には太い人工呼吸器の管が挿入され、機械のピストン運動が、修の意志とは無関係に肺へ強制的に酸素を送り込んでいた。シューッ、プシュゥゥという圧縮空気の音が、不気味な合成生物の呼吸のように部屋を満たしている。
ベッドの傍らでは、妻の美香がパイプ椅子に身を縮めるようにして座っていた。
彼女は、ピクリとも動かない修の右手を両手で固く包み込み、そこに自分の額を押し当てている。乱れた髪、化粧の剥げ落ちた青白い肌、そして目の下に落ちた濃い隈が、彼女がここでどれほどの時間を絶望と共に過ごしたかを物語っていた。
「バイタルは持ち直しました。峠は、越えたと見ていいでしょう」
背後に立つ初老の医師が、手元のタブレット端末から目を離さずに言った。その声には、職業的な冷たさと疲労が滲んでいる。
「ただ……事故の衝撃による脳へのダメージが、どこまで及んでいるか。意識が戻るかどうかは、今の段階では何とも言えません」
美香は顔を上げなかった。ただ、修の冷え切った指先を、自らの体温を分け与えるように強く、さらに強く握りしめた。彼女の肩が微かに震え、沈黙の病室に、抑え殺した嗚咽がひっそりと溶けていった。
* * *
「ぐっ、あ……ッ!」
強烈な吐き気と共に、俺は膝から崩れ落ちた。
全身の細胞に、見えない無数の釣り針を引っかけられ、後ろへ、上へ、力任せに引きずり倒されようとしている感覚。内臓が雑巾のようにねじ切れ、脳髄が頭蓋骨の中で激しくシェイクされるような圧倒的な眩暈。
ジジッ、ザザザッ。
視界にノイズが走る。
黒曜石の床についているはずの俺の両手は、一秒ごとに実体と透明の間を激しく明滅していた。透けた瞬間には向こう側の灰色の霧が見え、実体化した瞬間にはどす黒い自分の肌の質感が戻る。肉体と魂の同期が狂い、座標がバグを起こしているのだ。
「ほう。これはまた、激しい綱引きだ」
頭上から、サラサラと砂の落ちる音が降ってきた。
見上げると、死神が大鎌の柄に両手をつき、まるでスポーツ観戦でもするかのように、深くフードを被った顔をこちらへ向けていた。
奥で燃え盛る赤い双眸が、明滅する俺の身体を舐め回すように観察している。
「現世の医者たちも必死らしい。強心剤の大量投与か、それとも電気ショックか。君の肉体という『器』が、魂を強引に引き戻そうと悲鳴を上げている」
「もど……俺は、戻るのか……?」
歯の根が合わず、ガチガチと音を立てながら訊ねる。
だが、死神は答えない。右目のスロットマシンのような数字が、カチャカチャと異常な速度で回転している。
「苦しそうだね。生と死の境界線で引き裂かれる痛み。どちらにも属せない宙吊りの苦悶。……実に珍しいものを見せてもらっているよ」
死神の声には、隠しきれない歓喜の響きがあった。
俺が苦しめば苦しむほど、この超越的な管理者は「退屈」から解放されていくのだ。俺は奥歯を噛み締め、何とか立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。世界が、ぐらぐらと揺れ続けていた。
***
どれほどの間、その引き裂かれるような痛みに耐えていたのか。
ふと、周囲の空気が一変したのを感じた。
先ほどまでの、重く粘り気のある「執着区画」の湿気がない。
代わりに、薄氷のように鋭く冷たい空気が肺を満たした。
俺はふらつく足で立ち上がり、顔を上げた。
そこは、巨大な吹き抜けの塔の内部だった。
足元には、どこまでも滑らかで冷たい黒曜石の床。空間には乳白色の薄霧が漂い、周囲の壁面はすべて、遥か天井──あるいは虚空──まで続く果てしない書架で埋め尽くされている。
書架と書架を繋ぐように、無数の螺旋階段が、まるで狂っただまし絵のように複雑に交差しながら塔の上部へと伸びていた。
そして、空を飛んでいる「何か」がある。
ジャラ……ジャラ……。
金属が擦れ合う微かな音。
見上げると、中空を無数の「鎖」が蛇行しながら泳いでいた。その鎖の輪の一つ一つは、よく見るとアラビア数字やアルファベット、そして見慣れない記号で構成されている。誰かの人生のデータそのものが、物理的な質量を持って空を泳いでいるかのようだ。
「ここは何だ……?」
声を潜めて訊ねる。
その瞬間、ピリッ、と舌の先端に静電気が走ったような痛みを感じた。
「シッ。ここでは言葉を慎め」
死神が、人差し指の骨をフードの口元に当てる仕草をした。
「ここは『沈黙の図書館』。魂が、自らの人生という名の未完の原稿を読み直すための場所だ」
死神が鎌の先で、近くの書架を指し示した。
書架には、革張りの分厚い本が隙間なく並んでいる。ところどころに、水銀のような液体金属のオブジェが浮かび、微かな光を放っていた。
「ここにある本はすべて、現在進行形で自動加筆されている『人生の記録』だ。嘘も、言い訳も、自己正当化も一切通用しない。ただ事実だけが、冷徹にインクとして刻まれていく」
死神が、一歩俺に近づいた。
赤い焔の瞳が、俺の眼球の奥底まで射抜く。
「ルールを一つだけ教えておこう。この場所で、不用意に声を出すな。特に、感情に任せた大声は禁物だ。沈黙を破った者には、それ相応のペナルティがある」
「ペナルティ……?」
囁き声で訊ね返した直後。
チクッ。
「痛ッ!」
俺は思わず口元を押さえた。
舌の表面に、極小の氷の欠片が突き刺さったような鋭い痛みが走ったのだ。
「そうだ。声を出すたびに、舌に『氷の棘』が生成され、刺さる。大声を出せば出すほど、棘は太く、深く舌肉を貫く。……真実の前では、言い訳など無用だということだ」
死神はクククと嗤い、書架の間を通る通路を歩き出した。




