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死神「君という未完のスケッチを聞かせてくれ」――いじめ自殺の少女から傲慢な殺人鬼まで、嘘が石へと変わる『境目』で己の魂と向き合う、美しくも残酷な因果応報の物語  作者: silver fox
第1章:沈黙の螺旋、舌を貫く氷の棘。ある中間管理職が「完全なる死」を受け入れる夜

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第4話:灰色の編み物と祖母の影

 過飽和の蛍光モザイクのエリアを抜けると、急激に色彩が失われ、再び灰色の霧が視界を覆い尽くした。


 ザッ、ザッ。

 サラ……サラ……。


 自分の革靴が黒曜石の床を叩く音と、死神の靴底から鳴る砂時計の音。

 それだけが、絶対的な無音の空間に吸い込まれていく。

 肺に入る空気はドライアイスのように冷たく、一切の匂いを持っていなかった。


 歩きながら、俺はふと、奇妙な違和感に足を止めた。


(……おかしい)


 自分の胸の奥に手を当てる。

 心臓の鼓動は、驚くほど静かで、平坦だった。


 俺はトラックに轢かれた。死んだ。それは理解している。

 自分の醜い人生の残滓も見せつけられた。狂気に囚われた女の悍ましい姿も見た。


 それなのに。

 俺の心の中は、凪いだ水面のように静まり返っているのだ。


 普通なら、もっと取り乱すべきではないのか?

『妻の美香はどうしているだろう』

『家のローンはどうなるんだ』

『まだ生きたい、死にたくない』


 そうやって泣き喚き、地面を掻き毟って絶望するのが「人間」としての正しい反応のはずだ。

 だが、俺の心にあるのは、巨大な「空白」だった。

 悲しみも、恐怖も、未練もない。ただ、ぽっかりと穴が空いている。


 その空白の底から、ぽつりと、声が湧き上がってきた。


『──これで、明日の会議に出なくていい』

『──もう、誰の顔色も窺わなくていい』


「ッ……!」


 俺は慌てて頭を振った。

 そんなはずはない。俺は家族を愛していた。仕事に誇りを持っていたはずだ。

 だが、あの永遠にハンコを押し続ける男の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。

『助かった』という圧倒的な解放感と安堵感が、胃の底から温かいヘドロのように湧き上がり、全身を満たしていくのがわかった。


「……面白い」


 不意に、死神が立ち止まってこちらを振り返った。


 フードの奥の、燃え盛る双眸。

 その赤い焔が、明らかに今までとは違う、熱を帯びた揺らぎを見せていた。

 右目のスロットマシンのような数字が、カチャカチャと激しく回転し、ピタリと止まる。


「実に面白いよ、君は」


 死神の唇の端が──見えないはずなのに──確かに三日月型に吊り上がったのがわかった。

 彼から発せられる空気が、退屈から「愉悦」へと明確に変質している。


「普通、あの鏡の回廊を抜けた魂は、極度の恐怖と現世への未練で発狂寸前になる。『妻に会いたい』『子供の顔を見たい』と、私に泣きついてすがりつくのがお決まりのパターンだ。君の前の四十六人も全員そうだった」


 死神は鎌を杖のように突き、俺の顔を至近距離から覗き込んできた。

 焔の熱気が、直接脳髄を炙るように熱い。


「だが、君の目には恐怖も絶望もない。あるのは……安堵か? それとも、諦観か?」


 俺は答えない。答えられない。

 自分の内側に広がる冷酷なほどの無関心さが、目の前に立つ死神の存在よりもずっと不気味で恐ろしかった。


「君は、自分が善良な人間だと思い込んでいたようだが……底が抜けているな」


 死神は喉の奥でクククと嗤った。

 今日初めて、彼が「退屈」という分厚い殻を脱ぎ捨てた瞬間だった。



 ***


 執着区画の最奥部。

 そこは、霧が最も濃く、圧倒的な静寂に包まれた空間だった。


 カチャ。

 ……シュッ。

 ……カチャ。


 微かな摩擦音が聞こえてくる。

 木と木が触れ合い、柔らかい繊維が擦れる音。


 乳白色の靄が晴れた先に、古い木製のロッキングチェアがあった。

 ギシッ、ギシッ、と規則正しく前後に揺れている。


 座っているのは、小柄な老婆だった。

 十五年前に亡くなったはずの、俺の祖母だった。


「おばあちゃん……?」


 思わず声が漏れた。

 だが、祖母は顔を上げない。

 銀縁の老眼鏡の奥の目は手元に固定され、二本の編み棒をせわしなく動かしている。


 だが、その光景はあまりにも異様だった。

 祖母が編んでいる毛糸の色は、周囲の風景と同じく完全な灰色だった。

 そして、彼女が上へと編み進めるそばから、編み目の下部がスルスルと自動的に解け、再び一本の灰色の糸に戻って床に崩れ落ちているのだ。

 編んでは解け、解けては編む。

 無間地獄のような反復作業。


「彼女は、十五年前からここにいる」


 死神が、ロッキングチェアを見下ろしながら淡々と言った。


「君のために何かを編もうとしていたらしい。最期までそれを気に懸けていた。だが──『境目』の時間は、魂を風化させる」


 死神の右目の焔が、ふっと温度を下げた。


「彼女はもう、自分が『何を』編むつもりだったのか、完全に忘れてしまったんだ。ただ、編むという行為への執着だけが、彼女をここに縛り付けている」


『修ちゃん、大きくなったねえ』

 生前、背中を丸めて笑ってくれた祖母の顔が脳裏にフラッシュバックした。


 ポタッ。


 黒曜石の床に、水滴が落ちる音がした。

 俺の目から、涙がこぼれていた。

 自分が死んだことにも、妻と二度と会えないことにも涙一つ流さなかった俺が、この永遠に完成しない灰色の編み物を見て、初めて泣いていた。


「あ……」


 涙を拭おうと右手を上げた瞬間。

 視界に映った自分の手のひらに、強烈なノイズが走った。


 ジジッ。


 指先の輪郭がブレて、向こう側の灰色の霧が透けて見えた。

 テレビの電波が悪くなったように、俺の腕、胸、脚が、透明と実体の間を激しく行き来し始める。


 ピーーーッ、プッ、ピーーーッ。


 遠く、果てしなく遠い場所から、歪んだ電子音が聞こえてきた。

 無機質な、病院の心電図モニターの音だ。


 直後、腹の底から強烈な力で「後ろ」へと引っ張られる感覚に襲われた。

 重力が反転したような猛烈な吐き気。


「ああ、始まったか」


 死神が、全く驚いた様子もなく、空を見上げるような仕草をした。


「現世で、君の肉体に強引な延命処置が施されているらしい。電気ショックか、強心剤か。魂が、肉体という器に無理やり引っ張られているんだ」


 俺は透けていく両手を見つめた。

 身体の感覚が薄れ、霧と混ざり合っていく。


「戻れるのか? 現世に……?」


 絞り出すように問うた。

 だが、その問いに「戻りたい」という強い意志がこもっていたかどうか、自分でもわからなかった。


 死神は、大鎌の柄を肩に担ぎ直し、ゆっくりと肩をすくめた。


「さあね。戻れるかもしれないし、途中で千切れて戻れないかもしれない。どちらにしても──」


 死神が顔を近づけてくる。

 フードの奥の赤い焔が、俺の透けゆく瞳を真っ直ぐに射抜いた。


「君がこの引力にどう抗い、どんな顔をして決断を下すのか。……特等席で、見届けさせてもらうよ」


 死神の嘲笑と、絶え間なく続く心電図の不協和音が、俺の意識を白い光の渦の中へと引きずり込んでいった。




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