第3話:境目に溺れる者たち
ドン。
……ドン。
……ドン。
一定のリズム。
木製のデスクに、力強くハンコを叩きつける音だけが、不気味なほど正確な間隔で反響している。
俺は、ドアの枠に手をかけたまま、息を呑んでその光景を見つめていた。
デスクに向かって丸められた背中。着古してシワの寄ったチャコールグレーのスーツ。後頭部の髪の乱れ方まで、すべてが見慣れたものだった。
「あれは……俺か?」
掠れた声が、乾いた唇から零れ落ちた。
男がハンコを押すたびに、カサッ、と乾いた音を立てて書類が横へスライドしていく。だが、その書類の束は、どう見ても白紙だった。
男の目は血走り、虚ろに宙を泳いでいる。焦点の合わない瞳のまま、ただ機械的に、取り憑かれたように右腕を上下させ続けている。
「君の『執着』の残滓だよ」
背後で、サラサラと砂の落ちる音がした。
振り返ると、死神が宙に浮いた大鎌の刃に腰を下ろしていた。漆黒のローブが重力に逆らってゆらゆらと揺れ、フードの奥の赤い焔が、退屈そうに揺らめいている。
「三十五年間、承認印を押し続けた人生。来る日も来る日も、責任の所在を紙切れの上でたらい回しにするためだけに命をすり減らした。……どうやら、死んでもその無意味な儀式をやめられないらしい」
死神の言葉が、冷たい泥水のように耳から脳へと流れ込んでくる。
反論しようとした。
『違う、俺の人生はそれだけじゃない。家族のため、生活のために──』
だが、声帯が硬直して動かなかった。
ドン。
……ドン。
背後で鳴り続けるその打音が、俺の心臓の鼓動と完全に同期していたからだ。
そうだ。俺はあのデスクに縛り付けられていた。決裁印の傾き一つで上司の機嫌を伺い、ハンコを押すことだけが自分の存在証明だと錯覚していた。
俺は、自分自身の抜け殻から目を逸らすことができなかった。
存在しない書類に、意味のないハンコを押し続ける男。
その必死な姿は、あまりにも滑稽で、あまりにも醜悪だった。
***
「さあ、次へ行こうか。ここはひどく埃っぽい」
死神の冷たい声が、粘り気を帯びた空気を切り裂く。
彼が歩を進めるたびに、靴底からサラ、サラと砂時計の砂がこぼれ落ちる音が響く。その規則正しいリズムだけが、この狂った空間で唯一の道標だった。
総務課のドアが、背後でギィィィィ……と悲鳴を上げて閉まる。
カチャリ、とラッチが噛み合う音がした瞬間、俺の肩にのしかかっていた重圧がほんの少しだけ軽くなった気がした。だが、インクの生臭い匂いは、鼻腔の奥にこびりついて離れない。
「君の『執着』の残滓は、実に退屈極まりないものだったな」
死神が、宙に浮かせた大鎌の刃を指で弾きながら言った。チィィン、という澄んだ金属音が鳴る。
「三十五年間、責任の所在を紙切れの上でたらい回しにするためだけに命をすり減らした。その果てが、存在しない書類への永遠の捺印だ。……滑稽だと思わないか?」
反論の言葉は、乾いた喉に張り付いて出てこない。
俺はただ、薄暗いグレーのカーペットを見つめながら歩くしかなかった。
廊下を奥へ進むにつれて、足元が異様に重くなってきた。
まるで、透明な接着剤の沼を歩いているようだ。足裏が床に張り付き、引き剥がすたびにブチュッ、ネチャッという卑猥な水音が鳴る。
時間の流れそのものが液状化し、空間の「樹脂」となって俺の身体にまとわりついてくる。
ジジッ。
不意に、極小のノイズ音が鼓膜を刺した。
顔を上げると、視界の端が奇妙に歪んでいた。
「……なんだ、これ」
白い壁紙が、徐々に毒々しい色を帯び始めている。
最初は微かなピンク色だったシミが、瞬く間に過飽和のネオンカラーへと膨張し、視界全体を侵食し始めた。蛍光ピンク、アシッドイエロー、そして目玉を直接焼かれるようなエレクトリックブルー。
ザザザザッ!
激しい砂嵐の音とともに、壁の風景が四角いブロック状に分解された。
五秒に一度の間隔で、空間全体がモザイク状に崩壊し、再び元の形へと再構築される。物理法則が完全に狂い、視覚情報が脳の処理能力を凌駕していく。
「他人の『執着』が流れ込んでくるエリアだ」
死神が、赤い焔の双眸を細めて言った。右目の数字が、スロットマシンのように激しく回転している。
「ここは『境目』の吹き溜まり。執着の濃度が極限まで高まった魂たちが、自らの作り出した幻影の中で溺れている場所だ。……足元に気をつけろよ。他人の泥に足を取られれば、君も永遠に抜け出せなくなる」
***
極彩色のモザイクが荒れ狂う回廊の中心。
そこだけが、不自然なほどぽっかりと空間が空いていた。
ガチャンッ。
パリィィィン。
鋭いガラスの割れる音が、樹脂のように重い空気の中を突き抜けてくる。
そこには、女がいた。
三十代後半だろうか。かつては高級だったとわかる漆黒のドレスを着ているが、その裾は引き裂かれ、泥のような汚れがこびりついている。
女は、床に這いつくばっていた。
周囲には、無数の鏡の欠片が散乱している。巨大な姿見をハンマーで粉砕したかのような、鋭利な破片の海。
「見えない……まだ見えない……どこ……私の、本当の顔……」
女はうわ言のように呟きながら、素手で鏡の欠片を拾い集めている。
指先はズタズタに裂け、黒ずんだ血が床を汚している。だが、彼女は痛みなど全く感じていないかのように、血塗れの指で拾い上げた破片を自分の顔の前にかざした。
だが、鏡は決して彼女の顔を映し出さなかった。
表面には油膜のような虹色の濁りが走り、像を結ぼうとする端からドロドロと溶けていく。
「生前は美容整形外科の優良顧客だった女だ」
死神が、俺の耳元で冷たい吐息を漏らした。凍りつくような冷気が、首筋を撫でる。
「顔にメスを入れるたび、『完璧な自分』に近づいていると信じて疑わなかった。最後は麻酔事故で心臓が止まったがね。今は永遠に、このガラクタの海の中で『正解の顔』を探し続けているというわけだ」
女が、ビクッと身体を震わせた。
片方の眼球が異常に見開かれ、もう片方は不自然に垂れ下がっている。歪な造作の顔が、ゆっくりとこちらを向いた。
「……私の、顔……あなたが、持ってるの……?」
ズリ、ズリッ。
女が鏡の破片の上を這って、こちらへ近づいてくる。
肉が削れ、ドレスの生地が裂ける嫌な音が響いた。彼女の焦点の合わない瞳が、俺の顔にピタリと固定されている。
「やめろ、来るな」
後ずさりしようとしたが、足裏が樹脂の床に張り付いて動かない。
女の血に濡れた手が、俺のスーツの裾を掴もうと伸びてくる。
その手首には、無数の手術痕が蚯蚓腫れのように浮かび上がっていた。
ヒュオォォォンッ!
突如、極寒の突風が鼻先を切り裂いた。
死神が、身の丈を超える大鎌を無造作に振り下ろしたのだ。
銀色の巨大な刃が、俺と女の間に冷徹な境界線を引くように突き刺さる。刃先からこぼれる砂が、女の血と混ざり合って黒い泥に変わった。
「触れるなと言ったはずだ」
死神の声は低く、そして絶対的な威圧感を孕んでいた。
「他人の執着に干渉すれば、自他の境界が溶ける。君自身も、彼女と同じように床を這いずり回って鏡の欠片を探すことになるぞ。……この世界のルールを舐めるな」
女は鎌の刃に阻まれ、力なく床に崩れ落ちた。
そして再び、「見えない……私の顔……」と呟きながら、終わりのない作業へと没頭していく。
俺は、胃の奥からこみ上げる強烈な吐き気を必死に飲み込みながら、死神の背中を追ってその場から逃げ出した。




