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死神「君という未完のスケッチを聞かせてくれ」――いじめ自殺の少女から傲慢な殺人鬼まで、嘘が石へと変わる『境目』で己の魂と向き合う、美しくも残酷な因果応報の物語  作者: silver fox
第1章:沈黙の螺旋、舌を貫く氷の棘。ある中間管理職が「完全なる死」を受け入れる夜

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第2話:呼吸する壁と総務課の扉

「……なんだ、あんたは」


 喉がカラカラに乾いていた。這いずるようにして後ずさる。

 黒曜石の床を革靴が擦る音が、無駄に大きく響く。


 死神。

 脳裏にその単語がよぎったが、あまりにも陳腐な想像を打ち消そうと首を振った。


 だが、目の前の存在は、俺の怯えなど一切気にかける様子もなく、ゆっくりと大鎌を持ち上げた。


 ギィィィィン……。


 刃が空気を切り裂く、耳障りな金属音。

 死神は、その大鎌の柄を、黒曜石の床にコツン、と突き立てた。


 あり得ない光景だった。

 刃の重みで倒れるはずの鎌が、斜め四十五度の角度でピタリと空中で静止し、自立している。物理法則が完全に無視されたその光景に、軽い眩暈を覚えた。


 死神は、その斜めに立つ鎌の柄に気怠げに肘をつき、深くため息をついた。

 フードの奥から、乾いた風のような音が漏れる。


「三十五歳。中間管理職。死因は交通事故。……ありきたりだね」


 嘲笑を含んだ響き。

 ドクン、ドクン、ドクン。

 自分の心臓の音が、やけにうるさく耳元で鳴り響き始めた。

 首筋に冷や汗が伝う感覚。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。事故? 俺が死んだ? 冗談じゃない!」


 パニックになりかけながら、俺は立ち上がった。


「俺はまだ生きてるはずだ! 明日は重要な会議があるんだ。俺がいないと、あのプロジェクトは──」


「『死ねない理由がある』?『やり残したことがある』?」


 死神が、俺の言葉を先回りして遮った。

 フードの奥の赤い焔が、微かに三日月型に歪む。嗤っているのだ。


「全員、そう言うんだよ。判で押したようにね。一人残らず」


 死神の靴底から、彼が体重を移動させるたびに、ジャリッ、と砂を踏み砕くような音がした。


「君で、今週だけで四十七人目だ。妻が、子供が、仕事が、ローンが。……聞いていて欠伸が出る」


「ふざけるな! 俺には帰る場所が──」


「だから」


 死神の声が、一段階低くなった。

 周囲の霧が、その声に反応してブルッと震え、俺の足首に絡みつくように濃度を増す。

 凍りつくような冷気が、スーツの布地を透過して肌を刺した。


「この仕事は、反吐が出るほど『退屈』なんだよ」


 死神の左目のカウントダウンが、不規則にチカチカと点滅した。

 俺は、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。

 喉元に、見えない氷の刃を突きつけられているような圧倒的な重圧。

 こいつは、人間の命の重さなど、道端の石ころのグラム数ほどにも感じていない。

 その絶対的な断絶が、俺に自分の「死」という現実を、冷酷に理解させようとしていた。



 ***


「さて、と」


 死神が自立していた鎌の柄から腕を離す。

 空中で斜めに固定されていた鎌を軽く掴み、横へスワイプするように振るった。


 ブゥンッ。


 空間を両断するような重低音。

 目の前の乳白色の霧が、モーゼの海のように左右にパカッと割れた。


 そこには、「道」が続いていた。


「なんだ、ここは……」


 息を呑む。

 そこは、どこか見慣れたオフィスの廊下に似ていた。

 グレーのカーペット、等間隔に並ぶ蛍光灯、白い壁。

 だが、すべてが決定的に狂っていた。


 色彩が異常なのだ。

 グレーであるはずのカーペットは、目を刺すような過飽和の蛍光イエローとピンクが混ざり合い、五秒ごとにモザイク状にノイズが走って崩れ、また元に戻るというグロテスクな運動を繰り返している。


 空気が、ゼリーのように重く、粘り気を持っていた。

 一歩踏み出すたびに、透明な樹脂の中に足を突っ込んでいるような抵抗感がある。


「まずは君の『執着』を確認しよう。そういうルールだからね」


 死神は、靴底から砂時計の音を鳴らしながら、俺の横を通り抜けて先へ歩き出した。

 後を追うしかない。

 その異様な廊下に足を踏み入れた瞬間──。


 ズズゥゥ……、プシュゥゥ……。


 耳を疑う音がした。

 左右の壁が、脈打っている。

 巨大な肺臓のように、白い壁面が内側から膨らみ、そして萎む。呼吸をしているのだ。


「ヒッ……」


 後ずさりしようとしたが、足が樹脂のような空間に囚われて動かない。

 壁が膨らむたびに、表面に無数の「顔」のようなレリーフが浮かび上がった。

 目も鼻もない、ただ口だけが開いた顔。

 そこから、囁き声が漏れ出してきた。


『今日中に』

『本日中に』

『至急確認願います』

『なぜ遅れているんだ』

『要返信』


 重なり合う多重音声。

 右耳から左耳へ、脳髄を貫通して響くその声は、生前、俺が何千、何万回と目にしたメールの件名であり、上司の罵声だった。


「やめろ……ッ」


 両手で耳を塞いでも、声は直接頭の中に響き渡る。

 壁の表面には、すすけた黒い手形が無数にこびりつき、そこから黒い煙のようなものが燻り出ている。


「君の人生の残滓だよ。三十五年間、君の魂にこびりついた汚れだ」


 死神は振り返りもせず、楽しげに言った。


 廊下の突き当たりが見えてきた。

 そこには、一枚のドアがあった。

 見慣れた、くすんだ銀色のドアノブ。ドアの表面には、黒い文字でプレートが掲げられている。


『総務課』


 俺の、勤め先の部署名だ。


「さあ、君の『未完の仕事』を見に行こうじゃないか」


 死神がドアノブに手をかける。

 カチャリ。

 冷たい金属音が響く。


「面白いかどうかは、全く期待していないがね」


 ギイイィィィィ……。


 油の切れた蝶番が、悲鳴のような音を立ててドアが開いていく。

 隙間から、淀んだ黄色い光が漏れ出してきた。


 そして、その奥から聞こえてきたのは。


 ドン。

 ……ドン。

 ……ドン。


 一定のリズム。

 木製のデスクに、力強くハンコを押し付ける音だった。

 インクの生臭い匂いが、鼻腔をツンと突く。


 開かれたドアの向こう。

 そこには、デスクに向かって背中を丸め、一心不乱に腕を動かし続けている男の後ろ姿があった。


 俺は、その背中が着ているよれよれのスーツに見覚えがあった。

 今、俺自身が着ているものと、全く同じスーツだった。





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