第2話:呼吸する壁と総務課の扉
「……なんだ、あんたは」
喉がカラカラに乾いていた。這いずるようにして後ずさる。
黒曜石の床を革靴が擦る音が、無駄に大きく響く。
死神。
脳裏にその単語がよぎったが、あまりにも陳腐な想像を打ち消そうと首を振った。
だが、目の前の存在は、俺の怯えなど一切気にかける様子もなく、ゆっくりと大鎌を持ち上げた。
ギィィィィン……。
刃が空気を切り裂く、耳障りな金属音。
死神は、その大鎌の柄を、黒曜石の床にコツン、と突き立てた。
あり得ない光景だった。
刃の重みで倒れるはずの鎌が、斜め四十五度の角度でピタリと空中で静止し、自立している。物理法則が完全に無視されたその光景に、軽い眩暈を覚えた。
死神は、その斜めに立つ鎌の柄に気怠げに肘をつき、深くため息をついた。
フードの奥から、乾いた風のような音が漏れる。
「三十五歳。中間管理職。死因は交通事故。……ありきたりだね」
嘲笑を含んだ響き。
ドクン、ドクン、ドクン。
自分の心臓の音が、やけにうるさく耳元で鳴り響き始めた。
首筋に冷や汗が伝う感覚。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。事故? 俺が死んだ? 冗談じゃない!」
パニックになりかけながら、俺は立ち上がった。
「俺はまだ生きてるはずだ! 明日は重要な会議があるんだ。俺がいないと、あのプロジェクトは──」
「『死ねない理由がある』?『やり残したことがある』?」
死神が、俺の言葉を先回りして遮った。
フードの奥の赤い焔が、微かに三日月型に歪む。嗤っているのだ。
「全員、そう言うんだよ。判で押したようにね。一人残らず」
死神の靴底から、彼が体重を移動させるたびに、ジャリッ、と砂を踏み砕くような音がした。
「君で、今週だけで四十七人目だ。妻が、子供が、仕事が、ローンが。……聞いていて欠伸が出る」
「ふざけるな! 俺には帰る場所が──」
「だから」
死神の声が、一段階低くなった。
周囲の霧が、その声に反応してブルッと震え、俺の足首に絡みつくように濃度を増す。
凍りつくような冷気が、スーツの布地を透過して肌を刺した。
「この仕事は、反吐が出るほど『退屈』なんだよ」
死神の左目のカウントダウンが、不規則にチカチカと点滅した。
俺は、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。
喉元に、見えない氷の刃を突きつけられているような圧倒的な重圧。
こいつは、人間の命の重さなど、道端の石ころのグラム数ほどにも感じていない。
その絶対的な断絶が、俺に自分の「死」という現実を、冷酷に理解させようとしていた。
***
「さて、と」
死神が自立していた鎌の柄から腕を離す。
空中で斜めに固定されていた鎌を軽く掴み、横へスワイプするように振るった。
ブゥンッ。
空間を両断するような重低音。
目の前の乳白色の霧が、モーゼの海のように左右にパカッと割れた。
そこには、「道」が続いていた。
「なんだ、ここは……」
息を呑む。
そこは、どこか見慣れたオフィスの廊下に似ていた。
グレーのカーペット、等間隔に並ぶ蛍光灯、白い壁。
だが、すべてが決定的に狂っていた。
色彩が異常なのだ。
グレーであるはずのカーペットは、目を刺すような過飽和の蛍光イエローとピンクが混ざり合い、五秒ごとにモザイク状にノイズが走って崩れ、また元に戻るというグロテスクな運動を繰り返している。
空気が、ゼリーのように重く、粘り気を持っていた。
一歩踏み出すたびに、透明な樹脂の中に足を突っ込んでいるような抵抗感がある。
「まずは君の『執着』を確認しよう。そういうルールだからね」
死神は、靴底から砂時計の音を鳴らしながら、俺の横を通り抜けて先へ歩き出した。
後を追うしかない。
その異様な廊下に足を踏み入れた瞬間──。
ズズゥゥ……、プシュゥゥ……。
耳を疑う音がした。
左右の壁が、脈打っている。
巨大な肺臓のように、白い壁面が内側から膨らみ、そして萎む。呼吸をしているのだ。
「ヒッ……」
後ずさりしようとしたが、足が樹脂のような空間に囚われて動かない。
壁が膨らむたびに、表面に無数の「顔」のようなレリーフが浮かび上がった。
目も鼻もない、ただ口だけが開いた顔。
そこから、囁き声が漏れ出してきた。
『今日中に』
『本日中に』
『至急確認願います』
『なぜ遅れているんだ』
『要返信』
重なり合う多重音声。
右耳から左耳へ、脳髄を貫通して響くその声は、生前、俺が何千、何万回と目にしたメールの件名であり、上司の罵声だった。
「やめろ……ッ」
両手で耳を塞いでも、声は直接頭の中に響き渡る。
壁の表面には、すすけた黒い手形が無数にこびりつき、そこから黒い煙のようなものが燻り出ている。
「君の人生の残滓だよ。三十五年間、君の魂にこびりついた汚れだ」
死神は振り返りもせず、楽しげに言った。
廊下の突き当たりが見えてきた。
そこには、一枚のドアがあった。
見慣れた、くすんだ銀色のドアノブ。ドアの表面には、黒い文字でプレートが掲げられている。
『総務課』
俺の、勤め先の部署名だ。
「さあ、君の『未完の仕事』を見に行こうじゃないか」
死神がドアノブに手をかける。
カチャリ。
冷たい金属音が響く。
「面白いかどうかは、全く期待していないがね」
ギイイィィィィ……。
油の切れた蝶番が、悲鳴のような音を立ててドアが開いていく。
隙間から、淀んだ黄色い光が漏れ出してきた。
そして、その奥から聞こえてきたのは。
ドン。
……ドン。
……ドン。
一定のリズム。
木製のデスクに、力強くハンコを押し付ける音だった。
インクの生臭い匂いが、鼻腔をツンと突く。
開かれたドアの向こう。
そこには、デスクに向かって背中を丸め、一心不乱に腕を動かし続けている男の後ろ姿があった。
俺は、その背中が着ているよれよれのスーツに見覚えがあった。
今、俺自身が着ているものと、全く同じスーツだった。




