第1話:品川駅前、午前七時四十二分──俺の人生が途切れた朝
品川駅前の喧騒、止まらない未読メールの振動、そして「仕事」という名の免罪符。
これは、どこにでもいる35歳の中間管理職が、唐突な死の先で自分の人生の「材質」を突きつけられる物語です。
あなたが今日押したそのハンコに、あなたの魂は宿っていますか?
「自分は善良な人間だ」と信じ、組織の歯車として平穏に流されているすべての人に贈る、内省的なダークファンタジーです。
死神が導く、事務用品でできた脆い筏の旅路を、どうぞ最後まで見届けてください。
午前七時四十二分。品川駅前交差点。
空は鉛色に淀み、重く湿った空気が首筋にまとわりついていた。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
無数の靴底がアスファルトを削る単調なリズム。数百、数千という人間が、同じ方向へ向かって歩き続ける。誰一人として言葉を発しない。聞こえるのは、布が擦れる衣擦れの音と、地下から響く電車の地鳴り、そして、どんよりとした疲労の溜息だけだ。
『ブーッ、ブーッ、ブーッ』
右のズボンのポケットで、スマートフォンが身を捩るように震えた。太ももの肉越しに伝わるその振動は、まるで皮膚の下に虫を這わせたかのように不快だった。
歩きながら、画面を引き抜く。
ブルーライトの鋭い光が、寝不足の網膜をチカチカと焼いた。
未読メール、三十七件。
画面をスクロールする親指が、微かに震えている。
『【至急】本日中にご確認願います』
『【再送】昨日の会議資料の修正について』
『【要回答】課長より、本日中の提出を──』
黒い文字の羅列が、胃の奥をギュッと締め付ける。吐き気がした。昨夜飲んだ安酒と、今朝無理やり流し込んだコーヒーが、食道で嫌な化学反応を起こしている。
ふと、画面の上部にポップアップが滑り込んできた。
『今日も遅い?』
妻の美香からのLINEだった。
既読をつける気にもなれず、画面の端へ指を滑らせて通知を弾き飛ばす。シュッ、という無機質な電子音が、妙に耳障りだった。
「……ッ」
舌打ちが漏れる。スーツの襟が首を絞めつけているように息苦しい。ネクタイの結び目に指を突っ込み、少しだけ緩めた。
『ピヨ、ピヨ、ピヨ』
信号機の盲導鈴が、機械的な鳥の鳴き声を模倣している。
交差点の信号が、赤から青へ変わった。
人波が、堰を切ったように一斉に前へ雪崩れ込む。
俺も、その黒い波の一部として、歩きスマホのままアスファルトへ一歩を踏み出した。
その瞬間。
視界の右端で、巨大な銀色が太陽の光を反射して、ギラリと閃いた。
『プアァァァァァァァン!!』
鼓膜を破らんばかりの、暴力的なトラックのクラクション。
遅れて、重いタイヤがアスファルトを削り、引き裂くようなブレーキの悲鳴。
ギャァァァァッ、という金属とゴムの焼ける焦げ臭い匂いが、鼻腔を打ち据えた。
時間が、粘り気を帯びて引き延ばされる。
スローモーションのように、視界が横へスライドしていく。
宙を舞う自分のスマートフォン。割れたフロントガラスから飛び散る、無数の透明な破片。それが朝日を反射して、万華鏡のようにキラキラと輝いている。
(あ、)
声にならない声が喉に詰まった。
痛みは、なかった。
ただ、ドゴォォォンッ!という内臓を揺らす巨大な破壊音の直後、世界から一切の「音」と「光」が、電源プラグを引き抜かれたように、プツンと消滅した。
絶対的な、漆黒の静寂。
果てしない浮遊感。
俺は、ただ底なしの暗闇の沼へと、音もなく沈んでいった。
***
頬に触れる、ひんやりとした冷たさで意識が浮上した。
「……う、」
呻き声を上げ、ゆっくりと目を開ける。
網膜に映ったのは、品川駅前の見慣れたビル群でも、病院の白い天井でもなかった。
果てしなく広がる、灰色の世界。
重く、淀んだ乳白色の霧が、生き物のようにとぐろを巻きながらゆっくりと這い回っている。
上体を起こす。
スーツの生地が擦れる音が、妙に大きく響いた。
手をついた足元は、まるで黒曜石のように滑らかで、漆黒の鏡面仕上げになっていた。ぬらぬらとした黒い床の底に、どんぐりほどの奇妙な気泡のようなものが、いくつも閉じ込められているのが見える。
「……ここは、どこだ?」
掠れた声を出してみた。
だが、その声は空間に反響することなく、濡れたスポンジに水が吸い込まれるように、周囲の霧にジュッと吸収されて消えた。
風はない。温度も感じない。暑くも寒くもない。
ただ、そこにあるのは、鼓膜が痛くなるほどの「無音」の重圧だった。
いや。
完全な無音ではない。
耳の奥、いや、脳の裏側あたりから、微かな音が聞こえてくる。
サラ……。
サラ……。
サラ……。
ガラスの器に、極小の砂粒が落ちていくような音。
規則正しく、残酷なほど正確なリズム。
その音は、なぜか心の底をざわつかせると同時に、奇妙な心地よさを伴っていた。
「死んだんだよ、君は」
背後から、声がした。
男とも女とも、老人とも子供ともつかない。声帯を震わせて出した音ではなく、頭蓋骨の内部に直接、冷たい液体を流し込まれたような響きだった。
ビクッと肩が跳ね、慌てて振り返る。
そこに、「それ」がいた。
人型をしている。だが、人間ではないことは一目でわかった。
深く被った漆黒のローブ。その生地の質感は異様だった。ただの黒い布ではない。奥深くで、銀色の微小な粒子が明滅している。まるで、光害のない山頂で見上げる、底なしの宇宙空間の星屑を、そのまま切り取って縫い合わせたかのようだ。
フードの奥は、絶対的な暗闇。
だが、その闇の中に、二つの「赤い焔」が爛々と燃え盛っていた。
双眸だ。
瞳孔の代わりに、燃えるような赤の中を、チカチカと無数の数字が流れている。
右目には、スロットマシンのように超高速で切り替わるデジタルの羅列。
左目には、ジリジリと、一秒ずつ確実に減っていくカウントダウン。
そして、「それ」の右手には、身の丈をゆうに超える巨大な大鎌が握られていた。
くすんだ銀色の刃先からは、幻影のような細い砂の滝が、さらさらと床に向かってこぼれ落ち続けている。
俺の脳髄に響いていたのは、この刃から落ちる「時間」の音だったのだ。




