第2話:砂時計の鎌と変容する顔──退屈を持て余した裁定者
受付のカウンターに近づくにつれ、空気の粘度が増していくのを感じた。
水の中を歩いているように、手足が重い。
黒衣の存在は、依然として私に背を向けていた。
そのローブは、ただの黒布ではなかった。
漆黒の奥底で、微細な星屑のような光が、まるで宇宙空間を切り取ってまとったかのように、静かに明滅している。
見つめていると、吸い込まれそうな、あるいは無数の瞳に見つめ返されているような、根源的な悪寒が背筋を駆け上がった。
しゃら、しゃら。
音の正体は、カウンターの横に無造作に、物理法則を無視した斜めの角度で立て掛けられた『大鎌』だった。
巨大な湾曲した刃。その刃こぼれした部分から、絶え間なく、サラサラと灰色の砂が零れ落ち、床に消えている。
これが、砂時計の音だ。
「水無月、雫」
突然、声がした。
男とも女とも、老成しているとも若々しいともつかない、ひどく平坦で、倦怠感に満ちた声。
黒衣の存在が、ゆっくりと振り返る。
深いフードで覆われた顔。
その暗がりを直視した瞬間、私の心臓の無い胸が大きく跳ねた。
フードの奥に、見知った顔が浮かび上がったのだ。
私を庇わなかった担任の無表情。
次の瞬間には、いつも疲れた顔をしていた母親の横顔に。
そして最後には、涙で顔をぐしゃぐしゃにした、私自身の顔に。
見る角度、あるいは私の恐怖の形に合わせて、顔が粘土のように変容していく。
「あ……」
声が出ない。
私が立ち尽くしていると、変容する顔の中心で、二つの『眼』だけが固定された。
赤い焔だ。
燃え盛る炎の眼球。その中で、無数のデジタル数字のようなものが、滝のように高速で流れ落ちている。
右目には、私の罪や業の数値か。
左目には、終わりのない業務の残り時間か。
それは恐ろしいほどに合理的な光でありながら、同時に、果てしない退屈を持て余している光でもあった。
死神は、手元の分厚い帳簿に視線を落としたまま、右手の指先を動かした。
白骨化した手。だが、指先だけが生々しい人間の肉の色をしている。
その指が、大鎌の柄を撫でる。
刃の先端をインクペンのように帳簿に突き立てると、ぎりっ、という不快な音とともに、赤黒い血のような文字が紙面に刻まれた。
「十六歳。飛び降り。……ふうん」
死神は、赤い眼球の数字をちらりと瞬かせた。
一瞬にして、私がいじめられていたログ、SNSの履歴、家庭環境、そして飛び降りるに至るまでの全データが、その炎の中で処理されたのがわかった。
「復讐希望、恨み言、せめて『世界を呪います』ぐらいは言ってほしいところだけどね」
死神の口元が見えないまま、皮肉めいた声だけが空間に響く。
「君、すごく効率悪い死に方したよ。もっと劇的な現場もあるんだ。炎上配信とか、大勢の目の前での飛び込みとか。まあ、あれは片付けるこっちとしてはすごく面倒なんだけど」
ため息をつくように、大鎌の刃から零れる砂の量が増えた。
「で? どうしたいわけ?」
問われ、私は硬直した喉を必死に動かした。
怒りもない。恨みもない。ただ、現世で私が欲して、ついに得られなかったものを口にする。
「静かな……場所に、行きたい」
掠れた声は、壁の呼吸音に吸い込まれていった。
死神の赤い炎の眼が、ぴたりと動きを止めた。
ほんのわずか、微小な興味を引いたような光が灯る。
「静か、ね」
白骨の指が、帳簿のページをパタンと叩く。
「人間ってうるさいくせに、死ぬとみんな静けさを欲しがる。退屈しのぎにもならない」
***
ずん、と。
死神が帳簿を捲る重い音が、灰色の空間を震わせた。
「君が静けさを望むなら、少しだけ見せてあげようか。君をうるさくした奴らの、その先を」
死神が白骨の指をスナップさせると、黒曜石の床と灰色の壁の間に、ひび割れたガラスのような空間の裂け目が走った。
そこから、強烈な色彩と騒音がなだれ込んでくる。
『ピーン、ポーン、ピーン、ポーン』
無機質な機械音。消毒液の鼻をつく匂い。
空中に投影されたのは、白い病室の映像だった。
ベッドの上で、無数の管に繋がれ、苦痛に顔を歪めている女。
痩せこけているが、面影がある。私を嘲笑っていた、あのグループの主犯格の少女の、数年後、あるいは数十年後の姿。
「ひゅーっ、ひゅーっ……」という、痰の絡んだ汚い呼吸音が耳元でリアルに響く。
映像が切り替わる。
今度は、夜の交差点。
キキィィィィッ! という鼓膜を突き破るようなブレーキ音。
鈍い衝突音とともに、宙を舞う人影。アスファルトに叩きつけられ、赤黒い染みを広げていくのは、いじめを傍観し、ヘラヘラと笑っていた同級生の顔だった。
さらに映像は乱れ、担任教師が胸をかきむしって倒れ込む姿が映し出される。
「やめ……て」
私は思わず両手で耳を塞ぎ、目を閉じた。
痛快さなど微塵もない。ただ、生々しい他者の痛みと死の臭いが、私の求めていた静寂を無残に打ち砕く。
「因果応報? ううん、単なる帳尻合わせだよ」
死神の声が、映像のノイズを切り裂いて響く。
目を開けると、死神は空中に浮かんだ映像の断片を、まるでガラス細工をつまむように二本の指で引き剥がしていた。
チャリン、チャリン。
引き剥がされた映像は、空中で黒い『数字の鎖』へと変貌し、死神の頭上でガラガラと無機質な音を立てて蛇行し始める。
「社会の帳簿はね、たまたまバランスを取るのが好きなだけさ。君が死んだからアイツらが不幸になるわけじゃない。ただ、数字の辻褄を合わせるために、適当に不幸が割り振られる。それだけのこと」
死神は鎖を指先で弾き、わざと私を煽るようなトーンで言った。
「そんなの、見たくない」
私が呻くように言うと、フードの奥の炎が愉悦に歪んだように見えた。
「だから見せるんだよ。静かな場所に行きたいんだろう? 目を背けていては、本当の静寂の価値はわからない」
矛盾した、悪意に満ちた言葉。
死神は、私が困惑し、苦しむ様を、特等席で観劇しているのだ。
彼は大鎌に手を伸ばし、刃から零れ落ちる灰色の砂を、生々しい肉色の指先で一つまみすくい上げた。
砂は指の間からサラサラとこぼれ、床に落ちる前に空間に溶けて消えていく。
「君の希望、『静かな場所』。それなりに近い区画を選んであげるよ。ただし、そこはただ黙っていればいい場所じゃない」
死神は大鎌の刃先で、帳簿の私の名前の横に、乱暴な血文字を書き殴った。
ぎりっ、ぎりっ、ぎりっ。
垣間見えた文字は、『灰色の狭間』から矢印が引かれ、『感情の海・前段階』と記されていた。
「さあ、お行き。君の静けさが、どんな音を立てるか……少しだけ、楽しませておくれ」
死神が指を鳴らした瞬間。
足元の黒曜石の床が、泥沼のようにぐずぐずと崩れ始めた。
「しゃら、しゃら」という砂時計の音が、急激にテンポを速める。
灰色の壁の呼吸音が、耳をつんざくような突風へと変わり、私の身体を真っ逆さまに、未知の深淵へと引きずり込んでいった。




