第3話:沈黙だけが許された塔で、死神は母の声を借りて囁く
落下は、気づかないうちに終わっていた。
底に叩きつけられる衝撃もなく、私はただ、ぬるい水の中から引き上げられたように、ゆっくりと目を開けた。
「……」
肺に空気を吸い込む感覚はないのに、喉の奥がひどく乾燥している。
身を起こそうと手をついた床は、ぞっとするほど冷たく、そして滑らかだった。
視線を落とす。黒曜石のような、光を全て吸い込む漆黒の床面。
そこには制服姿の私が、まるで氷漬けの死体のようにくっきりと映り込んでいる。
周囲を満たしているのは、乳白色の霧だった。
生温かく、ねっとりとした霧が、私の足首を舐め回すように這いずり回っている。
ふと、上を見上げた。
絶句した。
霧の晴れ間から見えたのは、天を衝くような巨大な塔の内部だった。
見上げる遥か彼方まで、無数の螺旋階段が、知恵の輪のように複雑に交差しながら伸びている。
壁面を埋め尽くしているのは、途方もない数の「本棚」だった。
ここは、図書館だ。
だが、紙の匂いやインクの香りはしない。代わりに、古い石室に閉じ込められたような、重く澱んだ沈黙だけが満ちている。
ゆっくりと立ち上がり、一番近くにあった本棚へと歩み寄った。
並んでいる書物の背表紙は、革張りだったり、安っぽいノートのようだったり、千切れたルーズリーフの束だったりと、体裁はバラバラだ。
しかし、そこに刻まれた金色の文字は、どれも同じだった。
『水無月雫・暫定版』
指先が微かに震える。
私は、一冊の分厚い革張りの本に手を伸ばした。
表紙を開く。ギギ……と、凍りついた蝶番のような音が響いた。
ページには、見慣れた文字がびっしりと書き込まれていた。
私自身の文字だ。
小学生の頃の絵日記、中学生の時の読書感想文、そして、高校の授業中にノートの端に書き殴った愚痴。
私の人生の全てが、そこには記述されていた。
パラパラとページを捲っていく。
いじめが始まった時期の記述に差し掛かると、途端に文字が乱れ始めた。
黒いインクが涙で滲んだようにぼやけ、あるいは刃物で乱暴に削り取られたように『文字化け』を起こしている。
そして、最後のページ。
私が川に身を投げた瞬間の記述のすぐ下。
そこには、今まさに、見えないペンが自動で文字を書き足そうとしていた。
『死後、彼女は――』
その先が書かれようとするたび、ボタッ、と。
空虚からどす黒い墨の雫が零れ落ち、真っ白な紙面を汚していく。
何度書き直されようとしても、墨は滲んで形を成さず、ただ醜い染みだけが広がっていく。
私の結末は、未だ「未完」のままなのだ。
「なによ、これ……」
乾いた声を出した、その瞬間だった。
「っ……!!」
舌の根元に、鋭利なガラス片を突き立てられたような激痛が走った。
思わず口元を押さえてうずくまる。
口の中に血の味はしない。代わりに、絶対零度の冷気が舌に絡みつき、細胞の髄まで凍りつくような痛みが襲ってきた。
『氷の棘』だ。
言葉を発したことで、物理的な痛みが舌に生じたのだ。
「私……私は……悪くない……」
痛みに耐えかねて、自己防衛の言葉を吐き出した。
それが致命的な過ちだった。
「あ、がぁっ……!!」
舌の上の棘が、爆発的に増殖した。
喉の奥まで氷の刃が伸び、呼吸のマネ事すら許さないほどの激痛が脳髄を白く染め上げる。
嘘だ。
私が「悪くない」と思っているのは、自己欺瞞だ。
この図書館では、自らを偽る言葉は、そのまま刃となって己を切り刻むらしい。
カサッ……。
痛みに悶えながら伏せた視界の隅で、本棚の隙間の壁面から、何かが剥がれ落ちた。
石膏でできた人間の『顔』のレリーフ。
「私は被害者だ」と嘆くような、薄ら笑いを浮かべた醜い顔。
それが音もなく床に落下し、黒曜石の上でパチンと音を立てて粉々に砕け散った。
過去にここを訪れた魂たちが吐き出した『自己欺瞞』の残骸が、こうして壁から剥がれ落ち続けているのだ。
ここは、嘘も、言い訳も、何一つ許されない。
ただ沈黙することしかできない、針のむしろのような空間だった。
***
「静かな場所って……言ったのに……」
舌の激痛が引くのを待ちながら、私は声に出さず、心の中で呪詛を吐いた。
あの死神だ。
「それなりに近い区画を選んであげる」と言ったくせに、ここはただ口を塞がれているだけの、息苦しい拷問部屋ではないか。
立ち上がり、霧の奥を睨みつける。
「騙したのね」
声は出さない。だが、強い怒りの念波は、この空間の霧を微かに揺らした。
――騙した? 人聞きの悪い。ここはとても静かだろう?
唐突に、右耳のすぐ裏側で声がした。
鼓膜を直接撫でられるような、至近距離での囁き。
振り返っても誰もいない。
ただ、本棚と本棚の間の暗がりに、星屑を散りばめたような漆黒のローブの裾だけが、蛇のようにぬるりと翻って消えた。
――ほら、君だって何も喋れない。誰も君を責めない。完璧な沈黙だ。
今度は左耳からだ。
しかも、その声色は、あの死神の平坦なものではなかった。
毎日毎日、リビングのテーブルでため息をついていた、疲労しきった『母親の声』だった。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
――忘れた方が楽よ、雫。嫌なことは全部、なかったことにしちゃえばいいの。
死神が、母の声を借りて私に語りかけてくる。
優しげな口調の裏に潜む、無関心と事勿れ主義。
生前、私が「学校に行きたくない」と零した時に、母が私に投げかけた呪いの言葉。
「違う……私は……」
舌の痛みをこらえながら、微かに唇を動かす。
――でも、忘れたら、君は君じゃなくなるね。
今度は頭上から。
冷たく、事務的な『担任の声』。
――いじめられたという記憶を消せば、君を構成する要素の大半が抜け落ちる。空っぽの容器だ。静かな場所って、何も起こらない場所だよ。君は、その永遠の退屈に耐えられるのかな?
声が次々と重なり、思考の隙間を埋め尽くしていく。
母の声、担任の声、そして、私を嘲笑っていたあの少女の甲高い声。
『あーあ、また汚い菌がうつるじゃん』
『死ねばいいのに』
『どうせ何も言い返せないくせに』
「やめて……!」
私は両耳を強く塞いだ。
だが、声は外部から聞こえているのではない。私自身の記憶の底から、死神の影を通して引き摺り出されているのだ。
静かな場所を求めたのに、私の内側は、かつてないほどの騒音に満ちていた。
私は、本当に「誰からも見られない」無の空間を望んでいたのだろうか?
それとも、この苦しみを「誰かに理解してほしかった」のだろうか?
足元がふらつき、本棚に手をついた。
その時、指先が奇妙な質感に触れた。
革張りの本の列の隙間に、一冊だけ、異質な本が挟まっていた。
ガラスのように薄く、透明な表紙。
そこからは、微かな暖色の光が漏れ出ている。
引き抜いて、開いてみた。
ページには、文字ではなく、淡い『映像』が浮かび上がっていた。
私がもし、あの日、川に飛び込まずに「死ななかった場合」の仮想の未来だ。
見知らぬ街の、見知らぬ学校。転校して、新しい制服を着ている私。
教室の窓から差し込む、柔らかい春の陽射し。
隣の席の、顔は見えないが優しそうな女の子が、私に笑いかけている。
さらにページを捲る。
大人になった私。小さなアパートの部屋で、一人で淹れたコーヒーから立ち上る湯気。
休日の午後に、図書館で本を読んでいる静かな時間。
劇的な幸福ではない。でも、確かな温度を持った「小さな幸福」の断片。
「あ……」
手を伸ばし、そのページに触れようとした。
しかし、私の指が触れた瞬間、その透明なページは、乾燥した砂のようにサラサラと崩れ去ってしまった。
腕の隙間から零れ落ち、黒曜石の床に落ちる前に霧に溶けて消える。
もう、そのルートは選べない。
私が自ら、それを断ち切ったのだから。
圧倒的な喪失感が、胃の腑を重く引き下げる。
私は、自分が何を捨てたのかを、ここに来て初めて突きつけられていた。




