表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死神「君という未完のスケッチを聞かせてくれ」――いじめ自殺の少女から傲慢な殺人鬼まで、嘘が石へと変わる『境目』で己の魂と向き合う、美しくも残酷な因果応報の物語  作者: silver fox
第2章:いじめを苦に自死した私を待っていたのは、極めて事務的で退屈な死神でした。――加害者への無慈悲な「帳尻合わせ」を見届けた後、私は忘却を捨てて痛みの海を渡る

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/19

第4話:感情を売れば静かになる——鏡の中で露わになった醜い自分

 透明な本が消えた後、私は本棚の迷路を宛てもなく歩き続けた。

 霧は少しずつ濃くなり、乳白色のベールが視界を遮っていく。


 ちゃぷっ、ちゃぷっ……。


 不意に、霧の奥から水音が聞こえてきた。

 図書館にはおよそ似つかわしくない、冷たく澄んだ音。


 音のする方へ引き寄せられるように進むと、黒曜石の床がすり鉢状に窪んだ開けた場所に出た。

 窪みの中心に、それがあった。


『滝』だ。

 ただし、普通ではない。

 水は、下から上へと向かって、重力に逆らうように細い糸を引いて昇っている。

 天井の闇に向かって、音もなく吸い込まれていく水流。


 水は、透き通った無色透明だった。

 だが、水流の周囲だけ、空気が陽炎のようにねじ曲がっている。

 見つめているだけで、胸の奥底に澱んでいたヘドロのような感情が、かき回される感覚があった。


「未練の、水……」


 なぜか、直感でそう理解した。

 私がこの世界に残してきた、切り捨てたつもりでいた感情の残滓。


 引き返すべきだと、頭の中で警鐘が鳴る。

 しかし、私の右手は、無意識のうちにその水流へと伸びていた。


 指先が、逆流する水に触れた。

 瞬間。


 ――ドガンッ!!


 鼓膜が破れるかと思うほどの、すさまじい破砕音が脳内に直接響き渡った。


『きゃはははははっ!』

『やば、超ウケるんだけど!』


 視界が完全に奪われ、あの日、あの教室の光景が、実体験として再生された。

 私の机が、力任せに蹴り倒される音。

 ガシャアン!とパイプ椅子が床に叩きつけられ、引き出しの中に入っていた教科書やノートが、無残に散らばっていく。

 ノートのページを靴底で踏みにじり、わざとらしく滑って見せる主犯格の少女。


 それを取り囲んで笑う同級生たちの、歪んだ口元。

 教卓の前に立ちながら、黒板の方を向いて見えないふりをし続ける担任の後ろ姿。


 音の暴力。

 視線の暴力。

 そして、圧倒的な孤独。


「やめ……やめて……っ!」


 私は耳を塞いでしゃがみ込もうとしたが、体は動かない。

 水に触れた指先から、あの時の感情が致死量で流れ込んでくる。


 悲しい、じゃない。

 怖い、でもない。


 私は、あの時、どうしようもなく『怒って』いたのだ。


 自分の尊厳を泥水で洗われるような屈辱に対して。

 助けてくれない世界に対して。

 そして何より、怒りの声を上げることもできず、ただ俯いて震えているだけの、弱い自分自身に対して。


 煮えたぎるような憎悪が、喉の奥からせり上がってくる。

「殺してやる」

「お前ら全員、不幸になれ」

 あの時、声に出せなかった黒い呪いが、私の中で渦を巻いていた。


「あ、あああぁぁっ!」


 私は狂ったように腕を振り上げ、逆流する滝の水を、両手で思い切り握り潰そうとした。

 この醜い感情ごと、全てを破壊したかった。


 しかし、水は私の指の間からすり抜けることはなかった。

 握りしめた瞬間、水流は急速に温度を奪われ、カチン、と音を立てて硬質なガラス板のように凍りついたのだ。


 それは、一枚の縦長の『鏡』となった。

 私の姿を、残酷なほど鮮明に映し出す鏡。


 鏡の中の私を見て、私は息を呑んだ。

 目は血走り、唇は歪に吊り上がり、顔の筋肉が憎悪で醜くひきつっている。


 その表情は。

 私をいじめていた、あの主犯格の少女が浮かべていた、弱者を嘲笑い、痛めつける時の邪悪な顔と、瓜二つだった。


「ひっ……」


 反射的に後ずさる。

 私は、私が一番憎んでいた者と同じ顔をして、死んだのだ。

 静かな場所を望んだのは、周りがうるさかったからじゃない。

 自分の中に芽生えた、この醜く、騒がしい『怒り』を直視するのが怖かったからだ。


「ねえ、君」


 不意に、鏡の裏側から、あの気だるげな声が降ってきた。

 見上げると、宙に浮いた黒いローブの裾から、死神が半身だけを覗かせていた。


 炎が渦巻く赤い眼が、三日月のように細められる。


「本当に、静かなだけで満足するタイプかな? 人間って、騒いでいる時より、黙っている時の方が、よっぽど内側がうるさいんだよ。……君の怒りの音、ここまでビンビン響いてるぜ?」


 皮肉に満ちた死神の笑い声が、図書館の静寂にこだました。



 ***


 ズズズズズ……。


 死神の声に呼応するように、足元の黒曜石の床が低い地鳴りを上げ始めた。

 私が後ずさった直後、鏡となった滝の根元の床に、巨大な亀裂が走った。

 バリバリとガラスが割れるような音を立てて床が崩落し、足元に真っ暗な深淵が口を開ける。


「なに……これ……」


 亀裂の縁に恐る恐る近づき、下を覗き込む。

 そこには、この図書館の静寂とは正反対の、猥雑で混沌とした空間が広がっていた。


『影の市場』だ。

 下層の暗闇の中に、無数の赤黒いランタンの光が浮かんでいる。

 屋台のようなテントがひしめき合い、そこを蠢いているのは、実体を持たない「影」の群れだった。


 地上から聞こえてくるのは、歪な環境音のレイヤーだ。

 チリン、チリンとガラス瓶が触れ合う乾いた音。

「記憶を三日分、これで寿命を二ヶ月分くれ」というような、値切るような切羽詰まった声。

 どこからか聞こえる、低いすすり泣き。

 そして、狂ったオルゴールのように、途切れ途切れに流れる不気味な旋律。


 魂たちが、己の記憶や感情、そしてわずかに残された魂の寿命を取引する、泥沼のようなバザール。


「静けさを買うこともできるよ」


 死神が、大鎌の柄をカウンターのようにもたれかからせながら、頭上から気楽なトーンで提案してきた。

 大鎌の刃から零れる灰色の砂が、亀裂の中へとサラサラと吸い込まれていく。


「君の中でわめき散らしている『怒り』とか『悔しさ』とか、そういううるさい感情。あそこの市場で全部売り払ってしまえばいい。代わりに『忘却』を買うんだ」


 死神の赤い眼が、私を射抜く。


「そうすれば、君の中は驚くほど静かになる。水面みたいに平坦で、何も感じない、究極の静寂だ。どうだい? 君の希望通りじゃないか」


 感情を、売り払う。

 怒りも、悲しみも、憎しみも。

 あの醜い鏡に映った自分を見なくて済む。全てを無に帰すことができる。

 それは、ひどく甘美な誘惑に思えた。


 私は亀裂の縁に足をかけ、市場の暗闇へと身を躍らせようとした。


 だが、その直前。

 私の視界の端に、先ほど置き去りにしたはずの『水無月雫・暫定版』の本が、いつの間にか足元に転がっているのが見えた。


 本は開いたままになっている。

 もし私が、ここで感情を全て売り払った場合の、未来の記述。


 そこには、文字の化けも、滲んだ墨もなかった。

 ただ、見渡す限りの真っ白な『余白』が、延々と何十ページも続いているだけだった。


 喜びも、悲しみも、怒りも、何一つ刻まれない空白のページ。

 それは「静寂」ではない。「死」よりも恐ろしい、「虚無」だった。


 私は、息を呑んで亀裂から足を引っ込めた。


 感情を手放せば、私は私でなくなる。

 あの怒りすらも、私が生きて、傷ついて、必死に足掻いたという証なのだ。

 それを手放して得る静けさなど、ただのゴミ箱と同じだ。


 私は黒曜石の床に膝をつき、亀裂の縁にどさりと座り込んだ。

 市場へは降りない。

 私の内側の騒音と、この醜い怒りと共に、ここに留まる。


「……ふうん」


 頭上で、死神がつまらなそうに鼻を鳴らす音がした。


「買わないのか。せっかくの安売りセールだったのに」


 死神は大鎌を肩に担ぎ直し、手に持っていた帳簿のページを、バタンと乱暴な音を立てて閉じた。


「まあいい。君がそのうるさい内臓を抱えたまま進みたいって言うなら、別の静けさを用意してあげよう。もっと広くて、もっと冷たい場所をね」


 ギギ……と、再び見えないペンが帳簿に何かを書き込む音が響く。


 足元から聞こえる砂時計の音が、変化した。

 しゃら……しゃら……という一定のテンポだったものが、

 しゃらしゃらしゃらしゃらっ、と、急激に砂が落ちる速度を速めていく。


 霧が、まるで生き物のように渦を巻き始めた。

 黒曜石の床が、波を打つようにグニャリと歪む。


 次の段階、『感情の海』への移行が始まろうとしている。

 私は、膝を抱えたまま、迫り来る未知の流動を見つめていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ