第4話:感情を売れば静かになる——鏡の中で露わになった醜い自分
透明な本が消えた後、私は本棚の迷路を宛てもなく歩き続けた。
霧は少しずつ濃くなり、乳白色のベールが視界を遮っていく。
ちゃぷっ、ちゃぷっ……。
不意に、霧の奥から水音が聞こえてきた。
図書館にはおよそ似つかわしくない、冷たく澄んだ音。
音のする方へ引き寄せられるように進むと、黒曜石の床がすり鉢状に窪んだ開けた場所に出た。
窪みの中心に、それがあった。
『滝』だ。
ただし、普通ではない。
水は、下から上へと向かって、重力に逆らうように細い糸を引いて昇っている。
天井の闇に向かって、音もなく吸い込まれていく水流。
水は、透き通った無色透明だった。
だが、水流の周囲だけ、空気が陽炎のようにねじ曲がっている。
見つめているだけで、胸の奥底に澱んでいたヘドロのような感情が、かき回される感覚があった。
「未練の、水……」
なぜか、直感でそう理解した。
私がこの世界に残してきた、切り捨てたつもりでいた感情の残滓。
引き返すべきだと、頭の中で警鐘が鳴る。
しかし、私の右手は、無意識のうちにその水流へと伸びていた。
指先が、逆流する水に触れた。
瞬間。
――ドガンッ!!
鼓膜が破れるかと思うほどの、すさまじい破砕音が脳内に直接響き渡った。
『きゃはははははっ!』
『やば、超ウケるんだけど!』
視界が完全に奪われ、あの日、あの教室の光景が、実体験として再生された。
私の机が、力任せに蹴り倒される音。
ガシャアン!とパイプ椅子が床に叩きつけられ、引き出しの中に入っていた教科書やノートが、無残に散らばっていく。
ノートのページを靴底で踏みにじり、わざとらしく滑って見せる主犯格の少女。
それを取り囲んで笑う同級生たちの、歪んだ口元。
教卓の前に立ちながら、黒板の方を向いて見えないふりをし続ける担任の後ろ姿。
音の暴力。
視線の暴力。
そして、圧倒的な孤独。
「やめ……やめて……っ!」
私は耳を塞いでしゃがみ込もうとしたが、体は動かない。
水に触れた指先から、あの時の感情が致死量で流れ込んでくる。
悲しい、じゃない。
怖い、でもない。
私は、あの時、どうしようもなく『怒って』いたのだ。
自分の尊厳を泥水で洗われるような屈辱に対して。
助けてくれない世界に対して。
そして何より、怒りの声を上げることもできず、ただ俯いて震えているだけの、弱い自分自身に対して。
煮えたぎるような憎悪が、喉の奥からせり上がってくる。
「殺してやる」
「お前ら全員、不幸になれ」
あの時、声に出せなかった黒い呪いが、私の中で渦を巻いていた。
「あ、あああぁぁっ!」
私は狂ったように腕を振り上げ、逆流する滝の水を、両手で思い切り握り潰そうとした。
この醜い感情ごと、全てを破壊したかった。
しかし、水は私の指の間からすり抜けることはなかった。
握りしめた瞬間、水流は急速に温度を奪われ、カチン、と音を立てて硬質なガラス板のように凍りついたのだ。
それは、一枚の縦長の『鏡』となった。
私の姿を、残酷なほど鮮明に映し出す鏡。
鏡の中の私を見て、私は息を呑んだ。
目は血走り、唇は歪に吊り上がり、顔の筋肉が憎悪で醜くひきつっている。
その表情は。
私をいじめていた、あの主犯格の少女が浮かべていた、弱者を嘲笑い、痛めつける時の邪悪な顔と、瓜二つだった。
「ひっ……」
反射的に後ずさる。
私は、私が一番憎んでいた者と同じ顔をして、死んだのだ。
静かな場所を望んだのは、周りがうるさかったからじゃない。
自分の中に芽生えた、この醜く、騒がしい『怒り』を直視するのが怖かったからだ。
「ねえ、君」
不意に、鏡の裏側から、あの気だるげな声が降ってきた。
見上げると、宙に浮いた黒いローブの裾から、死神が半身だけを覗かせていた。
炎が渦巻く赤い眼が、三日月のように細められる。
「本当に、静かなだけで満足するタイプかな? 人間って、騒いでいる時より、黙っている時の方が、よっぽど内側がうるさいんだよ。……君の怒りの音、ここまでビンビン響いてるぜ?」
皮肉に満ちた死神の笑い声が、図書館の静寂にこだました。
***
ズズズズズ……。
死神の声に呼応するように、足元の黒曜石の床が低い地鳴りを上げ始めた。
私が後ずさった直後、鏡となった滝の根元の床に、巨大な亀裂が走った。
バリバリとガラスが割れるような音を立てて床が崩落し、足元に真っ暗な深淵が口を開ける。
「なに……これ……」
亀裂の縁に恐る恐る近づき、下を覗き込む。
そこには、この図書館の静寂とは正反対の、猥雑で混沌とした空間が広がっていた。
『影の市場』だ。
下層の暗闇の中に、無数の赤黒いランタンの光が浮かんでいる。
屋台のようなテントがひしめき合い、そこを蠢いているのは、実体を持たない「影」の群れだった。
地上から聞こえてくるのは、歪な環境音のレイヤーだ。
チリン、チリンとガラス瓶が触れ合う乾いた音。
「記憶を三日分、これで寿命を二ヶ月分くれ」というような、値切るような切羽詰まった声。
どこからか聞こえる、低いすすり泣き。
そして、狂ったオルゴールのように、途切れ途切れに流れる不気味な旋律。
魂たちが、己の記憶や感情、そしてわずかに残された魂の寿命を取引する、泥沼のようなバザール。
「静けさを買うこともできるよ」
死神が、大鎌の柄をカウンターのようにもたれかからせながら、頭上から気楽なトーンで提案してきた。
大鎌の刃から零れる灰色の砂が、亀裂の中へとサラサラと吸い込まれていく。
「君の中でわめき散らしている『怒り』とか『悔しさ』とか、そういううるさい感情。あそこの市場で全部売り払ってしまえばいい。代わりに『忘却』を買うんだ」
死神の赤い眼が、私を射抜く。
「そうすれば、君の中は驚くほど静かになる。水面みたいに平坦で、何も感じない、究極の静寂だ。どうだい? 君の希望通りじゃないか」
感情を、売り払う。
怒りも、悲しみも、憎しみも。
あの醜い鏡に映った自分を見なくて済む。全てを無に帰すことができる。
それは、ひどく甘美な誘惑に思えた。
私は亀裂の縁に足をかけ、市場の暗闇へと身を躍らせようとした。
だが、その直前。
私の視界の端に、先ほど置き去りにしたはずの『水無月雫・暫定版』の本が、いつの間にか足元に転がっているのが見えた。
本は開いたままになっている。
もし私が、ここで感情を全て売り払った場合の、未来の記述。
そこには、文字の化けも、滲んだ墨もなかった。
ただ、見渡す限りの真っ白な『余白』が、延々と何十ページも続いているだけだった。
喜びも、悲しみも、怒りも、何一つ刻まれない空白のページ。
それは「静寂」ではない。「死」よりも恐ろしい、「虚無」だった。
私は、息を呑んで亀裂から足を引っ込めた。
感情を手放せば、私は私でなくなる。
あの怒りすらも、私が生きて、傷ついて、必死に足掻いたという証なのだ。
それを手放して得る静けさなど、ただのゴミ箱と同じだ。
私は黒曜石の床に膝をつき、亀裂の縁にどさりと座り込んだ。
市場へは降りない。
私の内側の騒音と、この醜い怒りと共に、ここに留まる。
「……ふうん」
頭上で、死神がつまらなそうに鼻を鳴らす音がした。
「買わないのか。せっかくの安売りセールだったのに」
死神は大鎌を肩に担ぎ直し、手に持っていた帳簿のページを、バタンと乱暴な音を立てて閉じた。
「まあいい。君がそのうるさい内臓を抱えたまま進みたいって言うなら、別の静けさを用意してあげよう。もっと広くて、もっと冷たい場所をね」
ギギ……と、再び見えないペンが帳簿に何かを書き込む音が響く。
足元から聞こえる砂時計の音が、変化した。
しゃら……しゃら……という一定のテンポだったものが、
しゃらしゃらしゃらしゃらっ、と、急激に砂が落ちる速度を速めていく。
霧が、まるで生き物のように渦を巻き始めた。
黒曜石の床が、波を打つようにグニャリと歪む。
次の段階、『感情の海』への移行が始まろうとしている。
私は、膝を抱えたまま、迫り来る未知の流動を見つめていた。




