第5話:三途の川は七色に脈打ち、私の矛盾を映して水面が後ずさる
落ちていく。
底のない暗闇に向かって、風を切り裂きながら落ちていく。
耳元で轟音を立てていた風のうなりが、ある瞬間、ぷつりと途絶えた。
無音。
そして、足裏にじっとりとした、微かに弾力のある感触が伝わってきた。
「……」
ゆっくりと目を開ける。
さきほどまで私を囲んでいた図書館の乳白色の霧は、すでに跡形もなかった。
代わりに視界を埋め尽くしたのは、重く垂れ込めた鉛色の空と、その下で鈍くうねる「川」だった。
ざばぁっ……、どろり。
ざばぁっ……、どろり。
水音が、奇妙だった。
普通の川のせせらぎや、海が岸辺を打つ音ではない。
巨大な獣が、粘り気のある唾液を啜り上げているような、ひどく重苦しく、耳の奥にへばりつくような反響音。
ここが、次の区画。
あの死神が『感情の海』と呼んだ、三途の川の岸辺。
私は、灰色の砂利が敷き詰められた岸辺に立っていた。じゃり、とローファーの底で石が擦れる音がする。
顔を上げ、対岸を探した。
濃い川霧の向こう側に、ぼんやりと対岸のシルエットが見える。
その距離感は、私の心を酷くかき乱した。
遥か彼方、絶望的なほど遠いわけではない。
かといって、数掻きで辿り着けるほど近くもない。
「もしかしたら、必死に足掻けば届くかもしれない」と思わせながら、「途中で力尽きて沈むかもしれない」という恐怖を同時に抱かせる、極めていやらしく、中途半端な距離。
これが、私の中に残っている未練の量だというのか。
「君はまだ、自分を裁く準備ができてないみたいだね」
背後から、あの平坦で、救いようのない倦怠感に満ちた声が降ってきた。
振り返ると、少し離れた黒い岩礁の上に、星屑を散りばめた漆黒のローブが腰掛けていた。
しゃら、しゃら。
死神が立て掛けた大鎌の刃から、灰色の砂が零れ落ちる音がする。
赤い炎の眼球が、私を通り越して川面を見つめていた。
私も再び、川面へ視線を戻す。
水質が、狂っていた。
水ではない。それはまるで、水銀に虹色の油膜を混ぜ合わせ、煮詰めたような液体だった。
表面には赤、青、紫といった毒々しい七色の光の帯が、マーブル模様を描きながら不気味に脈打っている。
無意識のうちに、水際へと一歩近づいた。
さぁっ……。
私がローファーのつま先を向けた瞬間、七色の水は、まるで意志を持った生き物のように、サッと後退した。
私が一歩進むと、水は一歩逃げる。
明確な「拒絶」。
私が触れることすら、この水は許さない。
「ここは、社会が求める『正しさ』の集積体だからね」
岩礁の上から、死神が退屈そうに口を挟んだ。
「君自身が、自分の中の矛盾を受け入れていない。だから水が君を弾く。正しいだけの人間なんていないのに、君はまだ自分を正当化しようとしている」
風が吹き抜け、紺色のプリーツスカートがバタバタと音を立てた。
その風に乗って、足元から異音が響き始めた。
カチャッ……、カタタッ。
ギギギギギ……ッ!
灰色の砂利の中から、無数の「部品」が這い出してきたのだ。
古い木の板。錆びた鉄の釘。そして、鋭く尖ったガラスの破片たち。
それらは見えない磁力に引かれるように水際に集まり、凄まじい摩擦音を立てて勝手に組み合わさっていく。
ガガンッ!
ものの数秒で、水際の一歩手前に、一艘の『筏』が完成した。
土台となっているのは、分厚く、温かみのある木板だった。
その木目には、見覚えがある。
雨の日に捨て猫に傘を差しかけた記憶。体調を崩した母の代わりに、見様見真似で作った不格好な卵焼きの記憶。
私が誰かのために不器用に行動した「利他的な記憶」が、この筏を浮かせる力になっている。
しかし、その筏の表面は、異常な状態だった。
「ひっ……」
私は息を呑んだ。
筏の床一面に、無数のガラスの破片が、刃を上にしてびっしりと突き刺さっていたのだ。
氷のように冷え切った、青白いガラス。
そこには、『どうせ私なんて』『私が全部悪いんだ』『消えてしまえばいい』という、私が私自身を呪い、傷つけてきた「自己否定の記憶」が結晶化していた。
足の踏み場もないほどの、凶器の絨毯。
どろり、ざばぁっ。
筏のすぐ横を、七色の水がうねる。
波間に、いくつか不気味なものが浮かんでいた。
『悔恨の蓮』だ。
赤黒く、まるで生肉のように分厚い花弁。
その一枚一枚に、血のようなインクでびっしりと懺悔の言葉が刻まれている。
『ごめんなさい』『あの時ああしていれば』。
蓮たちは、互いに擦れ合いながら、ひそひそと、じめじめとした囁き声を空間に撒き散らしながら流れていった。
***
ぎぃ……っ。
ちょろろ、ちょろろ……。
七色の波音と、蓮の囁き声に混じって、全く質の違う音が聞こえてきた。
濃い乳白色の川霧の奥から、何かがこちらへ向かってくる。
古い木材が、重い水圧に軋む音。
そして、水を掻き分ける規則的な櫂の音だ。
私は筏から一歩退き、霧の奥を凝視した。
やがて、ゆらゆらと揺れる青白い光の粒が姿を現した。
錆びついた真鍮のランタンだ。
それが舳先にぶら下がった、一隻の古い手漕ぎ舟が、音もなく水際へと滑り出てきた。
舟を漕いでいるのは、闇そのものを布にしたような、ボロボロの黒いローブをすっぽりと被った存在だった。
『無言の船頭』。
舟が岸辺の砂利に乗り上げ、ズズッ、と鈍い音を立てて止まる。
船頭が、ゆっくりと櫂を置いた。
顔は見えない。深いフードの奥は、光を一切反射しない絶対的な虚無の暗闇だった。
ただ、櫂から離れた両手だけが、ランタンの青白い光の中に浮かび上がった。
肉の削げ落ちた、白骨の手。
船頭は、一言も発しない。
ただそこに「在る」だけで、周囲の温度が急激に下がり、私の吐く息が白く染まった。
圧倒的な死の気配。沈黙の重さが、物理的な圧力となって私の肩にのしかかる。
スッ……。
船頭が、片方の白骨の手を、私の方へ真っ直ぐに差し出した。
その掌の上に、いつの間にか、小さな古い『木箱』が乗せられていた。
両手で包み込めるほどの、年季の入ったオルゴールのような箱。
カチャリ。
誰の手も触れていないのに、錠前が外れ、箱の蓋がひとりでに開いた。
瞬間。
冷え切った鉛色の空間に、そこだけが切り取られたように、淡く温かい黄金色の光が溢れ出した。
――『美味しいね、これ』
――『雫ちゃん、明日も一緒に帰ろ!』
耳の奥で、いや、脳の直接的な部分で、ノイズが弾けた。
それは、恐怖のフラッシュバックではなかった。
箱の中から漏れ出しているのは、私が心の奥底にしまい込み、鍵をかけていた「最も大切な記憶」の断片だった。
光の中で、映像と音が錯綜する。
家族三人で囲んだ、数少ない夕食の情景。湯気を立てるハンバーグの匂いと、食器がカチャカチャと触れ合う温かい生活音。
小学校の頃、クラスで孤立していた私に、ただ一人笑いかけてくれた女の子の声。下駄箱の匂い。夕焼けに染まるグラウンド。
そして、真新しい画用紙に、クレヨンで一生懸命に『将来の夢』を描いていた時の、紙と蝋が擦れる優しい音。
「あっ……」
涙腺が存在しないはずなのに、視界が滲んだ。
忘れていた。
いじめの苦痛と、自己嫌悪の泥沼の中で、私は自分がかつて持っていた、こういう温かい温度を、自ら進んで切り捨てていたのだ。
「ねえ、君」
死神の声が、記憶の温もりを無情に切り裂いた。
岩礁の上で、彼は大鎌を杖のように突き、赤い炎の眼球を細めている。
「あの船に乗るつもりなら、その箱を『渡し賃』として、彼に渡さないといけないんだ」
私はハッとして、死神を見た。
「彼にその箱を渡せば、君の望み通り、とても静かな旅になるよ」
死神は、指先で大鎌の刃を弾き、チィィン、という冷たい金属音を響かせた。
「水は君を拒絶しない。痛みもない。誰にも何も問われないまま、対岸まで送り届けてくれる。究極の安らぎさ」
悪魔の囁き。
だが、その言葉には必ず猛毒の棘が隠されていることを、私はすでに知っている。
「……ただし?」
私は掠れた声で、続きを促した。
死神のフードの奥で、炎が愉悦に歪む。
「ただし、君は『それが自分にとって大切だったこと』すら忘れる。自分が誰だったのか、何を愛していたのか。すべてが抜け落ちた空っぽの容器になって、対岸に着く。……静かだよ、それはもう、完璧にね」
私は息を呑み、再び船頭の差し出す木箱へと視線を戻した。
箱の中の黄金色の光が、私の頬を優しく照らしている。
これを渡せば、私は苦しみから完全に解放される。
だが、それは同時に、「水無月雫」という存在の、完全な消滅を意味していた。
私は震える両手を伸ばし、船頭の白骨の手から、そっと木箱を受け取った。
指先に伝わる、驚くほどの熱量。生きている鼓動。
私はその小さな箱を胸に強く抱きしめ、無言のまま私を見下ろす船頭のフードを見つめ返した。




