第6話:ガラス片が足裏を貫くたび、静けさの意味が塗り替わっていく
ざばぁっ……、どろり。
ざばぁっ……、どろり。
背後では七色の水がうねり、私の目の前には、残酷な二つの選択肢が並べられていた。
一つは、凶器のガラス片が敷き詰められた自力の『筏』に乗り、自力で試練の海を渡ること。
もう一つは、胸に抱いたこの温かい木箱を手放し、船頭の舟で『忘却』の彼方へ送ってもらうこと。
風が止み、沈黙が耳鳴りのようにキーンと響く。
その沈黙を縫うように、死神がわざとらしく、芝居がかったトーンで矛盾したコメントを放り投げてくる。
「自力で行けば、きっと君は君のままだろうね。途中で痛みに耐えかねて波に飲まれ、水銀の底で永遠に苦しんで溶けるか。それとも、血反吐を吐きながら対岸に辿り着くか。どちらにせよ、君の中はうるさいままだ」
しゃら、しゃら。
大鎌から落ちる砂の音が、私の焦燥感を煽る。
「彼の舟で行けば、君はもう二度と痛みを感じない。誰に傷つけられたのかも、自分が誰だったのかすらもわからなくなる。ただの風景の一部になるんだ。君が望んだ『誰からも見られない、静かな場所』じゃないか。さあ、どうする?」
静かな場所。
確かに私は、あの橋から身を投げる直前、ただ「何も感じたくない」「静かになりたい」と強く願った。
すべてを終わらせたかった。
しかし今、死神の言う「何も覚えていない静けさ」を想像した瞬間、私の内臓を、ぞっとするような嫌悪感と、根源的な恐怖が鷲掴みにした。
自分の名前も、好きだった色も、怒りも、悲しみも。
そして何より、この胸の中に抱いている温かい光さえも失った私。
それは「私」ではない。
ただの肉の塊、ただの無機質な石ころと同じだ。
私は、ただ痛みを止めたかっただけで、私の存在すべてを無かったことにしたかったわけではないのだと、ここにきてようやく気付いた。
私は木箱を小脇に抱え直し、顔のない船頭から目を逸らした。
そして、ガラス片の突き立つ自力の『筏』の方へとおぼつかない足取りで向かった。
七色の波が、私を嘲笑うようにさぁっと引く。
私は筏の縁に手をかけ、ローファーを履いた右足を、分厚い木板の上へと乗せようとした。
――メキッ、ガリッ!
「あ、がぁっ……!!」
足の裏に、落雷を受けたような凄まじい激痛が走った。
突き立っていた自己否定のガラス片が、ローファーのゴム底をあっさりと貫通し、私の足の裏の肉に深く、鋭く食い込んだのだ。
血は一滴も出ない。
しかし、物理的な痛覚を遥かに超える『記憶の痛み』が、足先から脳髄へと一気に突き抜けた。
『お前なんて、生きてるだけで迷惑なんだよ!』
『どうして私ばっかり。どうせ誰も助けてくれない!』
『私が悪いんだ。私が、私が、私が……!』
私が自分自身を呪い、壁に頭を打ち付けていた夜の真っ黒な言葉たちが、ガラスの破片を導線として、全身の血管を駆け巡る。
息ができない。肺が焼けるように痛い。
視界が明滅し、あの教室の冷たい床の感触がフラッシュバックする。
この筏で進むということは、この痛みを、自分の罪と弱さを、一歩進むごとに全身で引き受け、味わい続けなければならないということだ。
「はぁっ、はぁっ……無理、こんなの……っ、痛い、痛いぃっ!」
私は痛みに耐えかねて筏から転げ落ち、灰色の砂利の上に両手をついて激しく嘔吐した。
胃には何もないのに、苦い胃液と恐怖の幻覚だけが喉を焼き尽くす。
涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにしながら横を見ると、船頭の舟が静かに揺れていた。
ランタンの青白い光が、「さあ、無駄な抵抗はやめて、早く荷物を渡して乗りなさい」と、優しく手招きしているように見えた。
もう嫌だ。痛いのは嫌だ。怖い。
私は這いつくばるようにして砂利の上を進み、船頭の舟へと近づいた。
小脇に抱えていた木箱を、彼に向かって差し出そうと腕を伸ばす。
すべてを、手放してしまえ。
その瞬間だった。
ドクン。
手の中の木箱が、まるで脈打つ心臓のように、一瞬だけ強く熱を放った。
「え……?」
箱の隙間から漏れる黄金色の光が、私の凍りついた指先をじわりと温める。
それは、ひどく「重かった」。
物理的な重量ではない。
私が十六年間、泣いて、笑って、怒って、絶望して、それでも今日まで懸命に呼吸を繋いできた『生きていた証の総量』。
それが、この小さな箱の中に極限まで凝縮されている重さだった。
これを手放す?
私という存在の、たった一つの証明を?
この痛みを恐れて、私自身を殺すのか?
私は差し出しかけた両手をピタリと止め、震える指で木箱を再び胸の奥深く、心臓のあった場所へと力強く押し当てた。
***
風の音が、完全に死え絶えた。
七色の波が打ち寄せる粘着質な音だけが、永遠のループのように空間を支配している。
私は、木箱を制服の胸元にしっかりと抱きかかえ、砂利を踏みしめて立ち上がった。
そして、ゆっくりと向きを変え、再び凶器の『筏』の前に立った。
船頭は、私が取引に応じないことを悟ったのだろう。
スッ、と音もなく白骨の手をローブの下に引っ込めた。
ぎぃ……、ちょろろ……。
背後で、重い水音がした。
振り返ると、無言の船頭の舟が、岸辺からゆっくりと離れていくところだった。
彼は一度も私を振り返ることなく、青白いランタンの灯りとともに、濃い川霧の奥へと音もなく溶けて消えていった。
退路は、断たれた。
もう、忘却の舟に乗ることはできない。
私は意を決し、筏の上に両足を乗せた。
ガリッ、メキッ。
再び、ガラス片が無情に足の裏を貫く。
『死にたい』『消えたい』という自分の叫び声が、刃となって全身の神経を切り刻む。
私は歯を食いしばり、口の中に鉄の味が広がるのを感じながら、震える両足でその場に仁王立ちになった。
ふと、足元の七色の水面を見た。
水銀のような水鏡に、筏の上に立つ私の姿が映っている。
しかし、その輪郭は徐々に色を失い、半透明のガラスのように透け始めていた。
私の存在が、この境界の世界の理に触れ、変容しようとしているのだ。
代わりに、透けた私の身体の中から、無数の「光の粒子」がこぼれ落ち、水面へと舞い降りていった。
『ありがとう』
『どうして私なの』
『ふざけんな』
『お母さん』
私が生前、誰かに向けて発した優しい言葉。
誰にも届かずに喉の奥で飲み込んだ叫び。
怒りに任せて吐き出した醜い罵声。
それらが、淡く発光する文字の羅列となって、七色の波間を星座のように漂い、流れていく。
私は、言葉の集合体だったのだ。
沈黙を望んでいた私の中にも、こんなにたくさんの音が、感情のレイヤーが詰まっていた。
視線を上げる。
少し離れた岩礁で、死神が私を観察していた。
彼は大鎌を逆さにし、刃先を地面に突き立てて的のようにしている。
白骨の指先で空間の星屑をつまみ出し、小石の代わりに弾き飛ばして、キィン、キィンと澄んだ金属音を響かせて遊んでいた。
もはや私に語りかけることはない。
彼はただ、予測不能な私の葛藤と揺らぎを、特等席の観客として、退屈しのぎの最高級の娯楽として味わっているだけだ。
筏の先端に、一本の古いオールが転がっている。
私は、足の激痛に耐えながら一歩前へ進み、そのオールの柄を両手で強く握りしめた。
木のささくれが掌に刺さる。
確かな、痛みの感触。
「静かな場所」
私は、頭の中でその言葉を転がし、そしてその定義を塗り替えた。
誰からも見られず、誰にも邪魔されない、無の空間のことではない。
私が流す血の痛みも、私が抱える醜い怒りも、この胸の奥にある温かい木箱の記憶も。
すべてを抱えたまま、すべてを感じたまま、それでも『自分の声が消えない場所』。
それが、今の私が本当に求めている、静けさなのだ。
ざざぁっ……。
筏の周囲で、七色の波が微かにうねり始めた。
私はオールを構え、深く、深く息を吸い込む。
心臓はないはずなのに、胸の奥が狂おしいほど熱く高鳴っている。
私がこの後、オールを水面に突き立てて、七色の水銀の海へ漕ぎ出したのか。
それとも、痛みに耐えきれずにその場に崩れ落ち、水に溶けて消滅してしまったのか。
あるいは、霧の奥に向かって、再びあの船頭を泣き叫びながら呼び戻したのか。
それを語る者は、ここにはもう誰もいない。
ただ、足元の七色の水面に、ちゃぷん、と小さな波紋が広がった。
それは、私という存在が確かにそこにあるという、微かな、しかし確かな進行の音だった。




