第7話:死神の喝采:無様で美しい出航
「あ…………ぁ……」
映像が途切れた瞬間、神崎の目から、止めどない涙が溢れ出した。
そうだ。 彼は、英雄になりたかったわけじゃない。 誰かに褒められたかったわけでもない。
ただ、あの食卓の真ん中で、不器用ながらも「家族を愛する父親」でいたかったのだ。 だが、彼はその日常を維持する努力から逃げ出した。
愛し方がわからず、傷つくのが怖くて、仕事という絶対的な盾の後ろに隠れ、家族を孤立させた。
自分が壊してしまったあのあたたかな時間の残骸こそが、彼が心の底から愛し、最も執着していた「宝物」だったのだ。
手の中にあったオレンジ色の光球が、パリンと音を立てて砕け散った。 代わりに、神崎の胸の奥底から、淡く柔らかい、黄金色の光の粒が滲み出してくる。
それは、パンケーキの甘い匂いをまとった、あの休日の記憶そのものだった。
船頭の白骨の手が、ゆっくりと、その黄金の光を求めて動いた。 これだ。それをよこせ。 そうすれば、お前は向こう岸へ連れて行ってやる。
神崎は、その光球を胸の前に抱きしめた。 これを渡せば。 これを渡せば、俺はあの痛みから解放される。
妻への罪悪感も、子供たちを残して死んだ後悔も、あの要救助者を焼き殺してしまった絶望も。
この記憶を手放せば、すべてが「無意味」になり、俺は苦痛のない永遠の静寂を手に入れられる。
忘却の誘惑。 それは、どんな激痛よりも甘く、抗いがたい麻薬のように神崎の魂を麻痺させようとしていた。
「……これを」
神崎は、黄金の光球を震える手で持ち上げた。 船頭の指先が、あと数ミリで光に触れる。
だが。
『――パパ』
光の中から聞こえた娘の笑い声が、神崎の手に最後のブレーキをかけた。
ガシッ!
神崎は自らの左手で右手首を掴み、光球を強引に胸の中に押し戻した。
「……やめろ」
船頭が、ピタリと動きを止める。
「……これを渡したら、俺は……俺はもう、彼らの父親ではなくなる」
ボロボロと涙を流しながら、神崎は船頭の底知れぬ暗闇を睨み返した。 石化しかけていた両足の感覚が、激痛と共に蘇ってくる。
重力が再び彼を地面に引きずり下ろそうとするが、神崎は歯を食いしばり、完全に二本の足で立ち上がった。
「俺は逃げた。家族から逃げ、自分から逃げ、正義の皮を被って人殺しになった、最低のクズだ。……でも、この『クズであるという事実』すら忘れてしまったら、俺は本当に、ただの空っぽの人殺しになる!」
黄金の光球が神崎の体内に溶け込み、彼の心臓の奥底で、小さな、しかし確かな熱源となって脈打ち始めた。
「俺は、俺の罪を持ったまま、あの海を渡る……ッ!」
その宣言を聴いた瞬間。
ギリリリリ……! 船頭は一切の感情を見せることなく、ゆっくりと舳先を翻した。 取引は不成立。
音を消去していた無言の舟が遠ざかると同時に、ドワァァァァッ!と、堰を切ったように外界の音が暴力的に鼓膜へとなだれ込んできた。
チャプチャプというガラスの波音。 ズズゥンという水銀のうねり。
「ククッ……アハハハハハ!」
そして、背後から響く、死神の心底楽しそうな哄笑。
「傑作だ! 一番楽な逃げ道を、自ら蹴り飛ばすとはね!」
死神は椅子から立ち上がり、パンッ!と両手を叩いた。
「いいだろう。君のその無様で美しい決意が、どこまであの『正しさの海』に耐えられるか、特等席で見物させてもらうよ」
船頭の舟が深い霧の奥へと完全に姿を消した瞬間、空間の温度が急激に低下した。
足元から這い上がってきていた灰色の石化は、神崎が「記憶を保持し、罪を背負う」ことを選択した瞬間にピキピキとヒビ割れ、ボロボロと崩れ落ちた。
だが、それは救済ではない。 石化による感覚の麻痺が解けたことで、全身の筋肉が断裂するかのような「重力」の痛みが、何倍にも増幅して彼を襲ったのだ。
「ぐ、ああぁぁぁぁっ……!」
神崎は再び膝を折りそうになるのを、必死に踏みとどまった。 足の裏から骨盤、脊椎を通り、頭蓋骨に至るまで、見えない鉄の杭を打ち込まれているような激痛。
自らが犯した自己欺瞞の質量。 それをごまかさずに真っ向から受け止めたことで、彼の存在は極限まで「重く」なっていた。
ズズゥン……。 目の前の水銀の海が、まるで獲物を手ぐすね引いて待つ肉食獣のように、重々しい波をうねらせる。
海面に浮かぶ七色の油膜が、今度は神崎を避けるのではなく、チカチカと点滅しながら彼を嘲笑するように波間を漂い始めた。
「ほらほら、どうしたんだい? 威勢が良かったのは一瞬だけかな」
死神が、水銀の波打ち際ギリギリを歩きながら、からかうように首を傾けた。 彼が歩くたびに、水銀の海はモーセの十戒のようにサーッと道をあける。
『境目』の絶対的管理者である死神にとって、この感情の海すらも、単なる泥水に等しいのだ。
「渡るんだろう? 君自身の足で。君自身の筏で」
死神は、手にした巨大な鎌の刃で、黒曜石の地面をキーッ、と嫌な音を立てて引っ掻いた。 火花が散り、その跡からドス黒いタールのようなものが滲み出す。
「でも、手ぶらじゃ泳げないよ。あの水銀は『社会が求める正しさ』でできている。君のような、私利私欲で他人の命を奪った偽善者が素肌で触れれば、一瞬で骨の髄まで溶かされて、泡になって消えるだけだ。……さあ、どうやって渡る?」
神崎は荒い息を吐きながら、周囲を見回した。 材料などない。ここは黒曜石と霧だけの虚無の空間だ。
(筏……俺の、筏……)
思考が千切れそうになる中、神崎は必死に手を伸ばした。 物理的な材料はない。ならば、己の魂にこびりついている執着の「残骸」を具現化するしかない。
「……来い……ッ!」
神崎が虚空に向かって血の滲むような咆哮を上げた。 すると。
ゴボッ……ゴボァッ!
黒曜石の地面が泥のように沸騰し、そこから異様な物体が次々と吐き出されてきた。 それは、ひしゃげて黒焦げになった『防火服』の残骸。
熱でドロドロに溶けた『消火ホース』のゴム。
そして、彼が捨ててしまったはずの、焼け焦げて縁が炭化した『家族の写真』の切れ端。
それらは空中で不気味に絡み合い、ガチャガチャと音を立てながら、一つの歪な形を構築し始めた。
溶けたホースが縄の代わりとなり、防火服の破片が帆のように張られ、無数の写真の切れ端が鱗のように表面を覆っていく。
完成したのは、全長二メートルほどの、あまりにも無様でチープな「筏」だった。
「……ひどいデザインだね。小学生の工作以下のゴミ溜めじゃないか」
死神が呆れたように鼻で笑う。
だが、神崎にとって、それは自らの人生の恥部をすべて寄せ集めた、唯一無二の乗り物だった。 見栄っぱりで、卑怯で、空っぽだった男の、真実の姿。
「これが……俺の、人生だ」
神崎は、血の滲む手でその歪な筏の縁を掴んだ。 重い。信じられないほど重い。
だが、彼はその重さに耐え、黒曜石の地面を引きずりながら、水銀の波打ち際へと一歩、また一歩と足を進めた。
ズズゥン……。
チャプ……。
筏の先端が水銀の海に触れた瞬間。
ジュウウウウウウッ!!
強烈な酸が肉を焼くような音と共に、不吉な白煙が立ち上った。 「正しさ」の海が、神崎の罪の結晶である筏を拒絶し、溶解させようと牙を剥いたのだ。
「ぐっ……おおおおおぉぉぉッ!」
神崎は絶叫しながら、自らの体ごと筏を水銀の海へと押し込んだ。 足先が水銀に触れる。 長靴が溶け、皮膚が焼け爛れ、神経が直接火あぶりにされるような絶地獄の苦痛。
それでも、彼は止まらない。 パンケーキの甘い匂いを胸の奥に抱きしめながら、彼は底なしの絶望の海へと、その身を投じたのだった。




