第8話:剥がれ落ちた名誉、泥臭き慟哭の渡河
ジュウウウウウウウウッ!!
鼓膜を突き破るような爆音が、神崎の足元から弾けた。
水銀の海に足を踏み入れた瞬間、分厚い編み上げブーツのゴム底が、まるで熱した鉄板に落とされたバターのように一瞬で気化し、悪臭を放つ白煙へと変わる。
「ガ、アアアァァァァァァッ!!」
声帯が引き裂かれんばかりの絶叫。 剥き出しになった両足の裏を、絶対的な『正しさ』が容赦なく浸食し始めた。 それは物理的な熱ではない。
社会が求める道徳、正義、倫理。他者を思いやり、規則を守り、自己犠牲を尊ぶという、美しくも残酷な基準。
身勝手な理由で他人の命を奪い、家族を絶望に突き落とした神崎の「不浄な魂」にとって、その清らかな水質は、どんな強酸よりも強烈な溶解液として作用した。
「ぐっ、う、あぁぁ……ッ!」
足の皮膚が粟立ち、ブクブクと泡を立てて溶けていく。
肉が削げ落ち、真白い骨が露出する。その骨さえもが、ガラスの破片のような波頭に削られ、チリチリと音を立てて削られていく。
「さあ、どうする? まだ引き返せるよ。今ならね」
背後の岸辺から、死神の嘲るような声が聞こえた。
シャリ……シャリ……という均等な砂時計の足音が、神崎の苦悶のリズムと致命的にずれているのが、どうしようもなく不快だ。
引き返せば、この激痛からは解放される。 再び黒曜石の地面に這いつくばり、永遠の石像になればいい。
(いやだ……。俺は、もう……)
神崎は、歯を食いしばり、口の中に血の味を広げながら、無理やり前へと倒れ込んだ。
バシャアッ!
自らの執着と罪悪感の残骸で組み上げた、あの歪な筏。
燃えカスのホースと、ひしゃげた防火服、そして焼け焦げた家族の写真でコーティングされたチープなゴミの塊の上に、神崎は身を投げ出した。
グラリ、と筏が大きく傾く。
「……っ!」
水銀の波が容赦なく筏の縁を乗り越え、神崎の右腕を呑み込んだ。
ジュウウウウッ!
「あ、がっ、ひぃぃぃぃっ!」
右腕の防火服の袖が一瞬で溶け落ち、その下の太い腕の肉が、まるでロウソクのようにドロドロと溶け始めた。 激痛が脳天を貫き、意識が真っ白に明滅する。
チャプ……。チャリン……。
波打ち際のガラス片が、神崎の耳元で冷たく囁いている。 『お前は人殺しだ』 『家族を捨てた男だ』 『正義の味方のつもりか?』
水銀の波が立てる音のレイヤーの奥から、数え切れないほどの非難の声が、無数の針となって神崎の精神に突き刺さる。
「……ちがう……俺は……」
神崎は、溶けかけた右腕と、まだ無事な左腕を使い、水銀の海面に手を突っ込んだ。 オールはない。 自らの腕で、この『正しさ』の海を漕ぐしかないのだ。
ジュウウウッ! ズズゥン……。
海面に腕を突っ込むたびに、肉が焼け、強烈な重低音が彼を海底へと引きずり込もうとする。
「俺は……立派な消防士なんかじゃない……ッ」
バシャッ。 一掻き。
「英雄になんて……なりたくなかった……ッ!」
バシャッ。 二掻き。
「ただ……ただ、怖かったんだ……! 家族に、失望されるのが……ダメな父親だって、気づかれるのが……ッ!」
神崎の顔から、「英雄としての威厳」が完全に剥がれ落ちた。 鼻水と涙でぐしゃぐしゃになり、苦痛で顔面を歪ませたその姿は、あまりにも惨めで、みっともなくて。
そして、最高に人間臭かった。
「ごめん……。ごめんな……っ! あなた、翔太、結衣……っ!」
神崎は、泥臭く慟哭した。 あの休日の朝、パンケーキを焼いた記憶のあたたかさが、胸の奥で黄金色に脈打っている。
その光があるからこそ、彼は自分が何を壊してしまったのかを、骨の髄まで理解することができた。
「ごめん……ッ! 俺が……俺が弱かったから……っ! あの女の人も、見殺しにして……っ!」
自らのエゴイスティックな死にたがりが、要救助者の未来と、家族の笑顔をすべて灰にした。 その罪を、一切の言い訳をせずに、ただ受け入れる。
ズンッ。
その瞬間。 神崎の乗る歪な筏が、突如として尋常ではない『重み』を帯びた。
「……ん?」
岸辺で見ていた死神が、微かに片眉を上げた。
神崎が己の罪を完全に認め、自己欺瞞の鎧を脱ぎ捨てたことで、彼の魂の質量が限界を超えて増大したのだ。
『境目』の物理法則。重罪人ほど軽く、罪の自覚に苦しむ者ほど重い。
ズズズズズズズッ……!!
凄まじい重みを増した筏は、もはや波に翻弄される木の葉ではなかった。
それは、自らの意思を持った砕氷船のように、重厚な水銀の波を力強く押し退け、海を割りながら前進し始めたのだ。
「う、おおおおおおおぉぉぉぉッ!!」
神崎は、半ば骨が見え始めている両腕で、狂ったように水銀を掻いた。 激痛はある。皮膚は溶け、筋肉は削げ落ちていく。 だが、筏はもう沈まない。
彼が背負った『罪の重さ』そのものが、絶対的な推進力となって、この偽善を許さない正しさの海を真っ向から切り裂いていく。
「進め……ッ! 俺は、俺の罪を、持っていく……ッ!!」
焼け焦げた家族の写真の破片が、筏の表面から剥がれ落ち、水銀の海に溶けていく。 ひしゃげた消火ホースの縄が切れ、防火服の帆がボロボロに引き裂かれる。
筏そのものが、海を進むたびに少しずつ溶解し、崩壊していく。
神崎自身の体もまた、少しずつ輪郭を失い、半ば透明な気体のように薄れ始めていた。
だが、彼の眼差しだけは、狂気のような熱を帯びて、濃い霧の向こう側――見えない対岸を真っ直ぐに睨みつけていた。
*
シュワワワワワワ……。
遠ざかっていく筏の背中を見つめながら、死神の耳に微かな音が届いた。 それは、炭酸水から泡が抜けていくような、ひどく繊細で儚い発泡音。
神崎の魂が、水銀の海によって溶解していく音だ。
波打ち際から数十メートル。 霧の中に突入した筏の輪郭は、すでにモザイクのように曖昧になっていた。
神崎の右腕は完全に肘から先が消失し、上半身も向こう側の景色が透けて見えるほどに薄れている。
あのまま進めば、対岸に辿り着く前に完全に溶け去り『無』に還るかもしれない。
あるいは、筏の重さがギリギリで勝り、霧の向こう側――光の世界か、それとも更なる地獄か――へと到達するかもしれない。
だが。
「……ふふっ」
死神は、喉の奥で低く笑った。
そんなことは、どうでもいい。 神崎が救済されるのか、それとも永遠の苦痛を味わうのか。その結末には、ミリグラムの興味も湧かない。
彼にとって重要なのは、結末ではない。
強固な自己欺瞞でコーティングされた「退屈な英雄」が、すべてを剥がされて絶望し、それでもなお、チープなゴミの筏に乗って泥臭く足掻くという、その『過程』だけだ。
「最高だったよ。君のその、みっともなくて、救いようのないヒロイズムは」
死神は、ゆっくりと立ち上がった。 ローブの裾が蛇のようにうごめき、再び宇宙の深淵の形へと戻る。
大鎌を肩に担ぎ直すと、刃の根元からサラ……サラ……と落ちる砂粒が、水銀の波打ち際に落ちては消えた。
シャリ……シャリ……。
靴底から鳴る、均等な砂時計の音。 それは、この狂った世界で唯一、絶対的な『時間』を刻み続ける死神の足音。
「……少しだけ、楽しませておくれよ」
死神は、すでに完全に霧に呑まれ、姿も見えなくなった神崎の向かった先を一瞥した。 その赤い焔の眼窩には、同情も、感傷も、一切の感情が存在しない。
ただ、一瞬だけ満たされた腹を満腹そうに撫でるような、残酷な余韻があるだけだ。
「……ふぁあ」
そして、死神は声に出して、心底退屈そうに欠伸をした。
くるり、と踵を返す。 水銀の海に背を向け、彼は再び、無数のモザイクが崩壊と構築を繰り返す『境目』の深部へと歩き出す。
チャプ……。チャプ……。 ズズゥン……。
背後では、感情の川がただ単調に波を打ち続けている。 神崎の流した血も、涙も、後悔も、パンケーキの匂いも。
すべてはあの重い水銀の中に飲み込まれ、永遠の下書きの1ページとして処理された。
「さあて、次はどんな退屈しのぎが来るかな」
虚無の空間に、死神の足音だけがシャリ……シャリ……と響き渡る。 やがてその音も、深い沈黙の螺旋の中へと溶けて消えた。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
本作『死神「君という未完のスケッチを聞かせてくれ」』は、これにて完結となります。
自己欺瞞の鎧を脱ぎ捨て、泥臭く水銀の海へ漕ぎ出した魂たちの足掻き。
死神にとっては、ほんの少しだけ退屈しのぎになったようです。
彼らが霧の向こうで何を見たのか……それは、あの海だけが知っています。
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これまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!




