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死神「君という未完のスケッチを聞かせてくれ」――いじめ自殺の少女から傲慢な殺人鬼まで、嘘が石へと変わる『境目』で己の魂と向き合う、美しくも残酷な因果応報の物語  作者: silver fox
第4章:正義のメッキが剥がれる時 ――家族から逃げた「空っぽな英雄」が、最もみっともない父親として水銀の海に沈むまで――

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第6話:渡し守の要求:美しき日常を差し出せ

 ギギィィ……。ギリリリリ……。


 波音の合間に、ひどく乾燥した古い木材が軋む音が混じった。

 神崎が息も絶え絶えに顔を上げると、七色に光る水銀の霧の向こうから、一隻の小舟が音もなく滑るように近づいてくるのが見えた。


 いや、水面を切る音がないのではない。 その小舟が近づくにつれて、周囲の音が『消去』されていくのだ。

 チャプチャプというガラスの波音も、ズズゥンという重低音も、妻の幻聴すらも。


 完全なる沈黙。 鼓膜が内側に引っ張られるような、強烈な圧迫感が神崎を襲う。 キィィィィィンという耳鳴りすらも絶え、絶対的な無音が空間を支配する。


 舟が岸に接岸した。


 バサッ。


 その沈黙の中で、唯一響いたのは、分厚い布が風に翻る音だった。


 舟の舳先に立っていたのは、異常に背の高い人影だった。

 死神のローブが星屑を散りばめたような宇宙的質感であるのに対し、その人影が纏っているのは、何百年もの間、泥と血を吸い込んでは乾いたような、極めて古びて不潔な黒いローブだった。


 顔はない。 深く被ったフードの奥は完全な闇であり、死神のような赤い眼光すらない。 ただそこにあるのは、圧倒的な「虚無」だった。


 無言の船頭。


 船頭は、ゆっくりと神崎を見下ろし、ローブの中から一本の腕を差し出した。 関節に黒ずんだ泥がこびりついた、生気のない白骨の手。


 声はない。 だが、神崎の脳内に直接、冷たい概念が流れ込んできた。


『渡河ノ対価。最モ、大切ナ記憶ヲ、一ツ』


 船頭の要求だ。 水銀の海を安全に渡るための、唯一の切符。


「……一番、大切な記憶……」


 神崎は、息を荒げながら自問した。 自分の人生で、最も価値のあったものはなんだ?


 彼の手のひらに、淡いオレンジ色の光の球体が浮かび上がった。 それは、彼の意識が具現化した「記憶の結晶」だった。


 光の中に映像が浮かぶ。 炎に包まれた現場から、要救助者を抱え出して生還した時の記憶。 周囲の同僚からの賞賛の眼差し。

 署長から表彰状を受け取り、胸に勲章のバッジをつけられた時の、あの誇らしい感情。


「……これだ。俺の消防士としての誇り……。俺が必死に守ろうとした、俺の全てだ」


 神崎は震える手で、そのオレンジ色の光球を船頭の白骨の手へ向けて差し出した。 これさえあれば。 この偽りの栄光の記憶さえ手放せば、あの海を渡れる。

 もう、己の自己欺瞞に苦しむこともなくなる。


 だが。


 船頭は、差し出された光球に見向きもしなかった。 ピクリとも動かず、ただ白骨の手を開いたまま、沈黙を保っている。


「……なぜだ。受け取れよ! これが俺の、一番大切なものだ!」


『否』


 絶対的な否定の概念が、脳髄を殴りつける。


『ソレハ、虚飾。魂ノ根源ニ非ズ』


「虚飾だと……? じゃあ、何を……何を渡せって言うんだ!」


 船頭のフードの奥の暗闇が、神崎の魂の最深部を覗き込んだ。


 フワッ、と。 神崎の鼻腔を、甘く香ばしい匂いが撫でた。 バターが溶け、メープルシロップが焦げる匂い。 火災現場の焼け焦げた肉の匂いでも、市場の腐臭でもない。

 ひどく日常的で、暖かな匂い。


 次の瞬間、神崎の視界が別の映像にジャンプした。


 *


『パパ、焦げてるよー!』 『うるさいな、パパは今、最高の芸術作品を作ってるんだ』


 狭いキッチンの光景。 休日の朝。珍しく非番だった彼が、エプロン姿でフライパンを振るっている。

 足元には、まだ幼稚園児だった娘がパジャマ姿でまとわりつき、ダイニングテーブルでは、妻がコーヒーカップを持ちながら、呆れたような、でも柔らかな笑顔でこちらを見ている。


『あなた、火加減が強すぎるのよ』 『消防士が火の扱いに失敗するわけないだろ。見てろよ、今ひっくり返すからな……ほら!』


 不格好に焦げたパンケーキが宙を舞い、フライパンの外に落ちそうになって、慌ててキャッチする。 娘がケラケラと笑い、妻も声を立てて笑った。


 ただの、ありふれた休日の朝。 世界を救うわけでもない。誰から賞賛されるわけでもない。 何の劇的さもない、平坦で、あたたかくて、くだらない記憶。




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