第6話:渡し守の要求:美しき日常を差し出せ
ギギィィ……。ギリリリリ……。
波音の合間に、ひどく乾燥した古い木材が軋む音が混じった。
神崎が息も絶え絶えに顔を上げると、七色に光る水銀の霧の向こうから、一隻の小舟が音もなく滑るように近づいてくるのが見えた。
いや、水面を切る音がないのではない。 その小舟が近づくにつれて、周囲の音が『消去』されていくのだ。
チャプチャプというガラスの波音も、ズズゥンという重低音も、妻の幻聴すらも。
完全なる沈黙。 鼓膜が内側に引っ張られるような、強烈な圧迫感が神崎を襲う。 キィィィィィンという耳鳴りすらも絶え、絶対的な無音が空間を支配する。
舟が岸に接岸した。
バサッ。
その沈黙の中で、唯一響いたのは、分厚い布が風に翻る音だった。
舟の舳先に立っていたのは、異常に背の高い人影だった。
死神のローブが星屑を散りばめたような宇宙的質感であるのに対し、その人影が纏っているのは、何百年もの間、泥と血を吸い込んでは乾いたような、極めて古びて不潔な黒いローブだった。
顔はない。 深く被ったフードの奥は完全な闇であり、死神のような赤い眼光すらない。 ただそこにあるのは、圧倒的な「虚無」だった。
無言の船頭。
船頭は、ゆっくりと神崎を見下ろし、ローブの中から一本の腕を差し出した。 関節に黒ずんだ泥がこびりついた、生気のない白骨の手。
声はない。 だが、神崎の脳内に直接、冷たい概念が流れ込んできた。
『渡河ノ対価。最モ、大切ナ記憶ヲ、一ツ』
船頭の要求だ。 水銀の海を安全に渡るための、唯一の切符。
「……一番、大切な記憶……」
神崎は、息を荒げながら自問した。 自分の人生で、最も価値のあったものはなんだ?
彼の手のひらに、淡いオレンジ色の光の球体が浮かび上がった。 それは、彼の意識が具現化した「記憶の結晶」だった。
光の中に映像が浮かぶ。 炎に包まれた現場から、要救助者を抱え出して生還した時の記憶。 周囲の同僚からの賞賛の眼差し。
署長から表彰状を受け取り、胸に勲章のバッジをつけられた時の、あの誇らしい感情。
「……これだ。俺の消防士としての誇り……。俺が必死に守ろうとした、俺の全てだ」
神崎は震える手で、そのオレンジ色の光球を船頭の白骨の手へ向けて差し出した。 これさえあれば。 この偽りの栄光の記憶さえ手放せば、あの海を渡れる。
もう、己の自己欺瞞に苦しむこともなくなる。
だが。
船頭は、差し出された光球に見向きもしなかった。 ピクリとも動かず、ただ白骨の手を開いたまま、沈黙を保っている。
「……なぜだ。受け取れよ! これが俺の、一番大切なものだ!」
『否』
絶対的な否定の概念が、脳髄を殴りつける。
『ソレハ、虚飾。魂ノ根源ニ非ズ』
「虚飾だと……? じゃあ、何を……何を渡せって言うんだ!」
船頭のフードの奥の暗闇が、神崎の魂の最深部を覗き込んだ。
フワッ、と。 神崎の鼻腔を、甘く香ばしい匂いが撫でた。 バターが溶け、メープルシロップが焦げる匂い。 火災現場の焼け焦げた肉の匂いでも、市場の腐臭でもない。
ひどく日常的で、暖かな匂い。
次の瞬間、神崎の視界が別の映像にジャンプした。
*
『パパ、焦げてるよー!』 『うるさいな、パパは今、最高の芸術作品を作ってるんだ』
狭いキッチンの光景。 休日の朝。珍しく非番だった彼が、エプロン姿でフライパンを振るっている。
足元には、まだ幼稚園児だった娘がパジャマ姿でまとわりつき、ダイニングテーブルでは、妻がコーヒーカップを持ちながら、呆れたような、でも柔らかな笑顔でこちらを見ている。
『あなた、火加減が強すぎるのよ』 『消防士が火の扱いに失敗するわけないだろ。見てろよ、今ひっくり返すからな……ほら!』
不格好に焦げたパンケーキが宙を舞い、フライパンの外に落ちそうになって、慌ててキャッチする。 娘がケラケラと笑い、妻も声を立てて笑った。
ただの、ありふれた休日の朝。 世界を救うわけでもない。誰から賞賛されるわけでもない。 何の劇的さもない、平坦で、あたたかくて、くだらない記憶。




