第5話:水銀の波打ち際、渡し守を待つ絶望
泥のような暗闇の底を抜け、神崎の体が冷たい黒曜石の床の上にドサリと放り出された。
嘔吐と嗚咽の果てに一度途切れた意識が、肺に流れ込む不快な冷気によって強制的に引き戻される。
赤いベルベットの床も、天井に張り付いていた顔のない肉人形たちも消え失せていた。
ただ、湿った灰の匂いだけが鼻腔を突く。
チャプ……。チャプ……。
硬質で、甲高い水音が一定のリズムで響いている。 だが、それは水ではない。薄いガラスの破片同士がぶつかり合い、擦れ合うような、繊細で冷酷な音だ。
そして、その奥底から響いてくるのは。
ズズゥン……。ズズゥン……。
大地の底で巨大な心臓が重く脈打っているかのような、とてつもなく低い振動音だった。
「……っ、ぐ、おぉっ……!?」
神崎は身を起こそうとして、己の体に起きている異常な変化に気づいた。 重い。 全身の筋肉が鉛に置き換えられたかのように、指一本動かすのにも絶大な労力を要する。
見えない巨大な万力で上から押し潰されているかのように、両手両膝を黒曜石の地面についたまま、カエルのように這いつくばることしかできない。
『境目』の物理法則。 ここでは、罪と重力が逆転する。 己の罪を認めず、強固なエゴで他者を踏みにじった「重罪人」ほど、風船のように軽く宙に浮く。
逆に、自らの行動を「正義」と信じ込み、その正義によって他者を傷つけたことに気づいた者――自己欺瞞の重さに耐えきれなくなった魂ほど、絶対的な重力に縛り付けられるのだ。
「あ……が、ぁっ……」
関節がメキメキと悲鳴を上げる。 額を冷たい黒曜石に擦りつけながら、神崎はどうにか顔を前へ向けた。
視界の先には、海があった。 果てしなく広がる、水銀の海だ。
ぬらぬらと鈍い銀色の光を放つ液体が、ズズゥン……と粘着質にうねり、岸辺に打ち寄せる波頭は、鋭利なガラスの破片となってチャプチャプと鳴っている。
海面には、油膜のような七色の極彩色が浮かんでいた。 だが、神崎が目を向けると、その七色は生き物のように怯え、彼の視線からサーッと遠ざかっていく。
「社会が求める正しさ」で構成された水銀は、徹底的な自己否定に陥った神崎の不浄な魂を明確に拒絶している。
ピポパポ、ピーポー、ピーポー……。
不意に、波音の向こうからサイレンの音が聞こえた。 救急車の音。 現実のものではない。神崎の脳髄に焼き付いた、あの火災現場の記憶が引き起こす幻聴だ。
だが、その音は次第に歪み、テープの回転数を落としたような不気味なピッチへと変化していく。
「さて。君の底なしの絶望には、拍手を送りたいところだけどね」
シャリ……シャリ……。
均等な時間を刻む足音と共に、視界の端に漆黒の影が滑り込んできた。 死神だ。
彼は水銀の波打ち際から一歩手前で立ち止まると、着ているローブの裾を自らの意志で蠢かせた。
宇宙の深淵を切り取ったような布地が蛇のように絡み合い、あっという間に豪奢な背もたれ付きの椅子を形成する。 死神はそこに深く腰掛け、長い脚を組んだ。
「これ以上、ただ泣き喚くだけなら、観客としては少し退屈だな」
死神は右手に持った巨大な鎌を、手持ち無沙汰にクルクルと回した。 刃の根元から、サラ……サラ……と砂粒がこぼれ落ち、彼の白骨の指先を撫でて虚空へ消えていく。
「君には二つの選択肢がある。あの海を渡るか、それともここで永遠のオブジェになるかだ」
「……オブジェ……?」
神崎が掠れた声で問い返した瞬間。 足先に、チリッとした痺れが走った。 見れば、彼の焼け焦げた編み上げブーツの先端が、灰色の『石膏』に変わり始めているではないか。
石化現象は、足首からふくらはぎへと、じわじわと、しかし確実に這い上がってくる。
「自らの罪に押し潰され、前にも後ろにも進めなくなった魂は、やがて呼吸するのをやめ、完全に石化する。この『境目』を飾る、美しい無名の彫像の一つとしてね。それも悪くない結末だ。君のように中身の空っぽな男には、お似合いの末路かもしれない」
死神は赤い焔の双眸を三日月のように歪め、楽しげに笑った。
「さあて、次はどんな退屈しのぎが来るかな。君が石になるまで、少しだけ待ってあげよう」
足元の石化が、膝にまで到達する。 感覚がない。ただ、体が冷たい石の塊に置き換わっていく絶対的な恐怖だけがある。
(このまま、石になれば……)
神崎の脳裏に、甘い誘惑がよぎった。 石になれば、何も感じなくなる。 自分が人殺しであるという事実も、見栄っ張りな卑怯者であるという絶望も、すべてを手放せる。
楽になれる。
『――気をつけてね』
ビクンッ、と。 神崎の肩が跳ねた。
耳元で、女の声がした。 妻の声だ。 いつの記憶だ? あの朝だ。彼が家を出る時、妻が玄関で背中越しに投げかけた、温度のない、半ば習慣的な言葉。
『気をつけてね』
幻聴が、もう一度繰り返す。 それは、心配する声ではなかった。 「私たちをこれ以上、失望させないでね」という、諦めと呪詛を含んだ響きだった。
『気をつけてね』 『気をつけてね』 『気をつけてね、あなた』
リピート機能が壊れたレコードのように、妻の声が脳内で無限に増殖し始める。
ズズゥン、という水銀の重低音と混ざり合い、強烈な精神的圧迫となって神崎の脳を内側から締め付ける。
「あ……ああぁっ……!」
違う。俺は、俺は……! 自分が残した傷跡から目を背け、ただ楽になりたいだけだ。 生前も、そして死んでからも、俺は逃げ続けるのか?
ギリリッ。 神崎は、石化しかけている膝に無理やり力を込め、両腕で黒曜石の地面を押しのけた。 肩の筋肉が千切れそうなほどの激痛が走る。
だが、彼は執念で上体を起こした。
「俺は……逃げない……ッ!」
血反吐を吐きながら立ち上がろうとする神崎の姿に、死神はほう、と僅かに感心したような息を漏らした。
「素晴らしい。その醜い足掻きこそ、極上のエンターテインメントだよ。では、渡し守を呼んであげよう」




