第4話:逆さまの劇場と、人間の歯の咀嚼音
「あ……ああ、あ……っ」
フラッシュバックから引き戻された神崎は、自分の両手を見つめ、ガタガタと震え出した。 手の中に残っていた炭の塊が、サラサラと崩れて完全に消滅する。
ザワ、ザワザワザワ……。 市場の魂たちのノイズが、急激に音量を増した。 いや、違う。ノイズの中に、別の音が混じり始めている。
『……あなた……どうして……』
遠くで、妻が泣いている。 すすり泣く声が、重く湿った環境音となって神崎の耳にまとわりつく。
『パパ……パパぁ……っ!』
泣き叫ぶ子供たちの声。 それは四方八方からステレオのように響き渡り、空気を物理的に圧縮していく。
「や、やめろ……俺は……俺は……」
ズズゥゥン。 周囲の空間が、神崎の罪悪感に呼応するように歪み始めた。
露店のテントがドロドロに溶け、市場の魂たちが一斉に神崎の方を振り向く。顔のない彼らの口元が、一様に嘲りの形に歪んだ。
『人殺し』 『見栄っ張り』 『家族を捨てた男』
声が、声が、首を絞め上げる。 息ができない。 肺に酸素が入ってこない。火災現場の煙よりも濃密な「絶望」が、気管を完全に塞いでいた。
「ハァッ、ヒュッ……! た、すけ……」
喉を掻きむしり、黒曜石の床に転げ回る神崎。 その頭上から、死神の氷のような声が降ってきた。
「さあ、見せてあげるよ。君の自己満足が、どんな喜劇を生み出したのかを」
ドンッ! 死神が大鎌の柄で床を突いた。 瞬間、神崎の足元の黒曜石が、ガラスが割れるようにあっけなく崩壊した。
「う、わあぁぁぁぁぁっ!?」
重力が消失し、神崎は叫び声を上げながら、赤い闇の底へと真っ逆さまに落下していった。
* * *
ドスンッ!
「……がはっ!」
背中から強かに打ち付けられ、神崎は肺の中の僅かな空気を吐き出した。 全身の骨が軋む。 薄れゆく意識の中で、まず彼の感覚を支配したのは「触覚」だった。
背中に触れているのは、冷たい石の床ではない。 滑らかで、分厚く、ひどく上質な布の感触。 ビロードだ。
シュル……シュルリ……。
どこからともなく、赤いベルベットのカーテンが床を擦るような、重厚な衣擦れの音が響いている。 神崎が身を起こすと、そこは異様な空間だった。
『逆さまの劇場』。
彼がいる「床」は、巨大なスクリーン、あるいは舞台そのものだった。 足元には真っ白な光が当てられ、自分の影がくっきりと落ちている。 そして、恐るべきは「頭上」だ。
「……なんだ、あれは……」
神崎が見上げた天井には、無数の「観客席」が逆さまにへばりついていた。 すり鉢状の巨大なオペラハウスを、天地逆転させたような構造。
暗がりに沈む座席には、びっしりと何かが座っている。
顔のない肉人形のような影たちが、皆一様に、下(つまり神崎のいる舞台)を見下ろしていた。
「特等席を用意したよ」
真横から声がした。 ハッとして横を向くと、神崎のすぐ隣に、赤いベルベット張りの豪奢なアンティークチェアが置かれており、死神がそこに深く腰掛けていた。
足を組み、漆黒のローブの隙間から、生々しい肉色の指先が覗いている。
死神は、手の中に白いバケツのようなものを抱えていた。 中には、白くて小さな粒が大量に入っている。
ボリッ。ボリリッ。
死神がその粒を一つ摘み、顔のないフードの奥へ放り込んで噛み砕いた。 石を砕くような、ひどく硬質で不快な咀嚼音。
「……何を、食ってるんだ……」
「これかい?」
死神はバケツを傾けて見せた。 白い粒。それはポップコーンではない。 血と歯茎の肉がこびりついた、大量の『人間の歯』だった。
「ひっ……!」
「ここで上映される喜劇には、これが一番合うんでね。さあ、始まるよ」
ボリッ、と死神が前歯らしきものを噛み砕いた瞬間。
パチ……パチ……パチ……。
足元の真っ白な舞台が、突然、映像のスクリーンへと変化した。 極彩色の炎。 黒煙。 それは、神崎が死んだあのビル火災の「5階」の光景だった。
『う、ううっ……!』
映像の中に、一人の女性が倒れていた。
オフィスの制服を着た、まだ若い女性だ。煙を吸い込んで意識が混濁し、崩れたロッカーの下敷きになって身動きが取れなくなっている。
「あっ……!」
神崎は叫んだ。彼女だ。俺が助けようとした要救助者だ。
『大丈夫ですか! すぐ助けます!』
映像の中の『神崎』が、炎を蹴散らして女性のもとへ駆け寄る。 そして、彼女の上に覆い被さるようにして、ロッカーを持ち上げようとした。
その時だった。
『神崎! 退避しろ! 横の部屋のガス管が――』
無線の声が途切れた瞬間。 映像の再生速度が、残酷なほどゆっくりとしたスローモーションに切り替わった。
ボウゥゥゥゥン……ッ!
重低音と共に、壁の向こう側から青白い爆発の炎が膨張してくるのが見えた。 ガスボンベの誘爆だ。
衝撃波が、スローモーションの中で壁を紙屑のように吹き飛ばし、神崎の背中を直撃する。
「やめろ……見たくない……!」
神崎は両手で顔を覆おうとしたが、不可視の力で顎を固定され、足元の映像を強制的に見下ろさせられた。
映像の中の神崎の体は、爆発の衝撃で背中から真っ二つにへし折られていた。 防火服が裂け、鮮血が炎の中で黒く沸騰する。 神崎は即死だった。
だが、問題は『その後』だ。
映像は、通常の速度に戻った。 爆発の直撃を免れた女性は、奇跡的にまだ生きていた。 しかし。
『きゃああああああっ!? 重いっ……どいて、どいてぇっ!』
即死した体重80キロを超える神崎の巨体が、ただの巨大な「肉の重り」となって、女性の上に完全に覆い被さっていたのだ。
ロッカーの重みだけでも動けなかった彼女は、神崎の死体に押さえつけられ、完全に床に縫い留められてしまった。
『いやあぁぁぁ! 熱い! 助けて! 誰か!』
神崎の死体の下で、女性が狂乱して手足をバタつかせる。 だが、神崎の死体はビクともしない。
そして、爆発によって勢いを増した猛火が、逃げ場を失った彼女の足元から、ゆっくりと、ゆっくりと舐め上げ始めた。
ジュウウウウッ……!!
肉が炭化する生々しい音が、舞台のスピーカーから大音量で響き渡る。 女性の絶叫が、炎の咆哮に掻き消されていく。
彼女は、神崎の死体の下で、生きたままこんがりと焼き上げられていった。
「あ……あ……あぁぁぁ……」
神崎の喉から、言葉にならない空気の漏れる音が鳴った。 瞳孔が開いたまま、固定されている。
パチ、パチ、パチ、パチ。
映像の中で炎が爆ぜる音が、いつの間にか質感を変化させていた。 頭上の観客席を見上げる。 逆さまに張り付いた無数の顔のない肉人形たちが、一斉に手を叩いていた。
パチパチパチパチパチパチパチ!!
炎の音ではない。それは、狂気に満ちた『拍手喝采』だった。 この胸糞の悪い喜劇に対する、最大限の賛辞。
「素晴らしいオチだ」
死神が、バケツの中の歯をボリボリと貪りながら、楽しそうに笑った。
「君のその立派なヒロイズムは、彼女を助けるどころか、逃げるチャンスすら完全に奪い去り、生きながら焼かれる苦痛を与えた。おまけに、残された家族には『言うことを聞かずに勝手に死んだ馬鹿な父親』という一生消えない絶望と借金を残した」
死神の言葉が、鋭利な刃物となって神崎の精神を微塵切りにしていく。
「無駄死にだね、見事なまでに。誰一人として救えていない。ただ一人、英雄気分で死ねた君自身を除いてはね」
「あ…………ぁぁぁ…………ッ!!」
神崎は、頭を抱え、床のスクリーンに頭を何度も打ち付けた。 ガツン! ガツン! 額が割れ、血がビロードの床を汚す。 俺は、俺はなんてことを。
命を救うどころか、奪った。見殺しにした。それも、最も残酷な方法で。 自分の空っぽな自尊心を満たすためだけに。
「おえぇぇぇぇっ!!」
神崎は四つん這いになり、激しく嘔吐した。 だが、死者の胃袋には何もない。出るのは黄色い胃液と、黒い血の塊だけだ。
泥に塗れ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして嗚咽するかつての「英雄」。
そのみっともなく、惨めで、人間臭い絶望の極致を。
死神は、赤い焔の双眸を極限まで細め、まるで数百年ものの極上のワインを舌の上で転がすかのように、ただ静かに、恍惚と味わっていた。
「……最高だ。君のその顔を見られただけで、少しは退屈が紛れたよ」
拍手喝采の鳴り止まない劇場の中で、死神の靴底の砂時計だけが、シャリ……シャリ……と、無慈悲に均等な時間を刻み続けていた。




