第3話:影の市場と、灰に消えた写真
泥のような暗闇の底を抜け、神崎の体が冷たい石畳の上にドサリと放り出された。
「……がっ、はぁっ、はぁ……!」
激しく咳き込む。 口の中を貫いていた極寒の氷の棘は、空間を移動した瞬間にパリンと砕け散っていた。
だが、貫通した舌の激痛と、口内に残る鉄錆のような血の味は、少しも消えていない。
神崎は血混じりの唾液を吐き出しながら、四つん這いで荒い息を繰り返した。
ザワザワザワザワ……。
不意に、無数のノイズが鼓膜を撫でた。 虫の羽音か、あるいは遠くで数万の群衆が一斉に囁き合っているような、ひどく不快な周波数。
ジャラッ。チリィン。 擦過音。 ガラスを擦り合わせたような、あるいは硬貨を手のひらで転がすような、冷たくて乾いた音が、ノイズの隙間に規則的に混じっている。
「歓迎しよう。底辺の掃き溜めへ」
シャリ……シャリ……。 等間隔に時を刻む足音と共に、頭上から死神の声が降ってきた。
神崎がゆっくりと顔を上げる。 網膜に映り込んだのは、狂気に満ちたスラム街の光景だった。
『影の市場』。 薄暗い路地裏のような空間が、メビウスの輪のように上下左右へと捻じ曲がりながら無限に続いている。
空間のあちこちに、錆びた鉄パイプや破れたテント地で作られた露店が立ち並んでいた。
そこに群がっているのは、「人間」の形を保ちきれなくなった魂たちだ。 顔の半分が蝋のように溶け落ちた女。 腹部にぽっかりと空いた穴から、砂をこぼし続けている老人。
首から上が巨大な時計の文字盤になっている男。
彼らは皆、自分の一部を切り売りしていた。
「さあ、安いよ。私の『初恋の記憶』だ。まだ色が残ってる……代わりに、あの世での時間を三日分くれ……」
「ダメだ。そんな色褪せた記憶、この『憎悪の結晶』一つにも満たないね」
チリィン。 露店のカウンターで交換されているのは、金ではない。
臓器のようにドクドクと脈打つ小瓶や、虹色に光るビー玉のような『感情の塊』、そして、自らの寿命(存在を維持する時間)を具現化した硬貨だった。
「……なんだ、ここは」
神崎はよろよろと立ち上がった。 周囲の異様な熱気と、腐った果実とホルマリンが混ざったような悪臭に、胃液がせり上がってくる。
「魂の蚤の市さ」
死神は巨大な鎌を杖のように突きながら、市場のど真ん中を悠然と歩いている。 彼が通るたび、群がっていた異形の魂たちが、恐慌状態に陥って道を開けた。
死神の漆黒のローブの裾が、地面に溜まったヘドロのような霧を舐め取っていく。
「ここではね、現世に置いてきた執着や、捨てきれなかった未練を売り買いする。対価は自分の存在そのものだ。最後まで売り払って完全に空っぽになれば、あの水銀の海に溶けて『無』になれるからね」
赤い焔の眼窩が、神崎を振り返った。
「君も、何か売ってみるかい? 何か残っているなら、ね」
「……売る、だと?」
神崎は、無意識のうちに己の胸元を押さえた。 引き裂かれた防火服の、内ポケット。 そこには、出動の直前まで彼が大切に持っていたものがあるはずだった。
家族4人で撮った、遊園地での写真だ。 まだ妻の笑顔が自然だった頃。子供たちが、自分を「パパ」と無邪気に呼んでくれていた頃の、唯一の証明。
「……ある。俺には、これがある……」
震える太い指を、焦げたポケットに突っ込む。 だが。
指先に触れたのは、写真用紙のツルリとした感触ではなかった。 カサリ、と。 ひどく脆く、乾燥した何かが崩れる手応え。
「……?」
神崎が指でそれを摘み出し、薄暗い市場の光に晒す。
それは、真っ黒な炭の塊だった。 辛うじて四角い形を保っているが、触れるそばから病に侵された枯葉のように、ハラハラと粉になって指の間からこぼれ落ちていく。
笑顔の妻も、子供たちの姿もない。 ただの、意味を持たない真っ黒な灰の塊。
「嘘だ……燃えたのか? いや、防火服の内側まで火は回ってなかったはずだ……!」
神崎はパニックに陥り、ポケットの中を掻きむしった。 だが、出てくるのは黒い粉塵ばかりだ。
「燃えたんじゃないよ」
死神が、嘲笑を含む冷酷な声で宣告した。
「それは『売れない』んだ。君はすでに、それを現世で『捨てて』きたからね」
「捨ててきた……? 俺が? ふざけるな! 俺は最後まで、家族のために……っ!」
「まだ言うのかい?」
死神が白骨の指を鳴らした。 パチン。 その瞬間、市場の喧騒が遠のき、強烈なフラッシュバックが神崎の脳を殴りつけた。
*
『――神崎! 待機しろ! 内部の温度が急上昇している。フラッシュオーバーの危険がある! 突入は許可できない!』
無線機から、中隊長の怒鳴り声が響いている。
(わかってる。わかってるんだ)
だが、神崎の足は止まらなかった。 目の前で黒煙を噴き上げるオフィスビル。 5階部分には、まだ逃げ遅れた人間がいるという情報だった。
『神崎! 命令違反だ、戻れ! お前には家族がいるだろう!』
(家族。……ああ、家族)
分厚い防火手袋の中で、神崎は拳を握りしめていた。 炎の熱気が、バイザー越しに顔面を焼く。
家に帰れば、妻の冷え切った視線が待っている。 「どうして約束を守れないの」「どうして私たちより仕事を優先するの」 無言の責め苦。息の詰まる食卓。
子供たちの落胆する顔を見るのが、何よりも恐ろしかった。
自分は、ダメな父親だ。 家族を幸せにできない。愛し方がわからない。 その圧倒的な劣等感から逃れるために、彼は「消防士としての正義」に依存した。
(ここで俺が戻れば……俺はただの、家族から逃げているだけの卑怯者になる)
だが、ここで炎の中に飛び込めば。 もし、誰かを救い出して英雄になれたら。 あるいは――このまま、誰かを庇って「名誉の戦死」を遂げたなら。
そうすれば、妻は俺を許してくれるだろうか。 子供たちは、俺を「立派なパパだった」と誇りに思ってくれるだろうか。
(俺は、立派なまま、終わりたい……!)
それは、勇敢さなどでは断じてなかった。 正義の皮を被った、無意識の「死にたがり」だ。
自らの命と、要救助者の命すらも、己の空っぽな自尊心を埋めるための「道具」として利用した、極めて醜悪な自己陶酔。
だから彼は、制止を振り切って炎の中へ飛び込んだのだ。 家族との未来という「写真」を、自らの手で引き裂いて。




