第2話:沈黙の図書館と、自己欺瞞の対価
ヒュオォォォォ……。
耳を撫でるのは、乳白色の霧が渦を巻く風切り音。 足元は先程と同じ黒曜石の床だが、そこには無数の螺旋階段が、上へ下へと狂ったように交差しながら無限に伸びている。
『沈黙の図書館』。 壁という概念がなく、見渡す限りの空間に、液体金属のようにぬらぬらと光る奇妙な本棚が浮遊していた。
パラ、パラパラパラ……。
乾燥した羊皮紙が、見えない手によって猛烈な勢いでめくられていく音が、四方八方から降り注ぐ。 ジャララッ、チリィン。
空中を、銀色の数字で編まれた鎖が蛇行し、お互いに擦れ合いながら金属音を立てている。
「ここは……なんだ……」
「君の『言い訳』を清書する場所さ」
いつの間にか、死神は神崎の正面、五メートルほど先の空中に座っていた。
椅子はない。漆黒のローブの下半分が触手のように広がり、自らの体を支える台座を形成しているのだ。
白骨の手には、いつの間にか銀糸で定規の模様が刺繍された、黒いレースの手袋が嵌められている。指先だけが、なぜか生々しい人間の肉の色をしていた。
死神が指を突き出すと、神崎の頭上の霧が晴れ、巨大な羊皮紙の巻物が滝のように広落した。 そこには、神崎修平という男の「人生の原稿」が記されている。
だが、文字は途中で途切れており、今この瞬間も、羽ペンを持たない透明な手が、猛スピードで続きの文字をカリカリと書き殴っていた。
「俺は……俺は職務を全うした」
神崎は、震える膝に力を込め、黒曜石の床を踏みしめた。 恐怖を塗り潰すために、生前ずっと頼りにしてきた「正義」という名の鎧を羽織る。
「あのビルには、まだ逃げ遅れた民間人がいた。ガスボンベの誘爆の危険は知っていたが……それでも、消防士として、見捨てるわけにはいかなかったんだ! 俺の判断は間違っていない。後悔は……ない」
最後の一言を放った瞬間、空間の温度が急激に下がった。
『――パパ、日曜日は遊園地行くって約束したよね?』
「……っ!?」
耳元で、幼い娘の声がした。 振り返るが、誰もいない。霧が渦巻いているだけだ。
『あなた……また休日出勤? 翔太の誕生日、一緒に祝うって言ってたのに……』
今度は、疲れ切った妻の声。 幻聴だ。だが、その音声はあまりにも生々しく、息遣いまでが首筋にかかるようだった。
「違う……俺は、仕事だったんだ。誰かがやらなきゃならない、尊い仕事なんだ!」
神崎は宙に浮かぶ自分の原稿を睨みつけ、吠えた。
「俺は、命を救うために……っ!」
――バキィッ!!
「がっ……!?」
激痛。 言葉の途中で、神崎の顎が不自然に跳ね上がった。 口腔内に、絶対零度の冷気が爆発する。
舌の根元から、長さ十センチはある鋭利な氷の棘が、肉を突き破り、口蓋を貫通して発生したのだ。
「あ……が、がぁ……ッ!?」
ブシャアッ、と。 口の端から、どす黒い鮮血が黒曜石の床にぶち撒かれる。 熱い血が喉の奥に逆流し、気管を詰まらせる。
神崎は両手で自分の口元を押さえ、床にのたうち回った。
氷の棘は舌を完全に床と縫い留めるかのように巨大化し、少しでも動かせば、神経をノコギリで挽かれるような激痛が脳天に突き抜ける。
「あーあ。汚いねえ」
死神が、宙に浮いたまま、鎌の柄の先で神崎の血溜まりをツンツンと小突いた。
「この領域のルールを教えてあげよう。魂が『嘘』を吐くとね、それに比例して体が石膏化するか、あるいはこうして、物理的な罰が下る。君の場合は、舌だ。随分と饒舌な自己欺瞞だったからね」
「あ、が……っ、ひ、ぃ……」
血の泡を吹きながら神崎が死神を睨む。 なぜだ。俺の何が嘘だというのだ。 命を救おうとした。それは絶対的な正義だ。
「聞いていて欠伸が出るよ」
死神は、赤い焔の双眸を細めた。 見下ろす視線には、怒りすらない。ただの純粋な、底なしの「退屈」だけがあった。
「君が救いたかったのは、命じゃない。『命を救っている、立派で可哀想な自分』だろ?」
「……っ!」
「家族との約束を破り続ける罪悪感。父親としての責任から逃げ出したかった君は、『人命救助』という絶対不可侵の大義名分を手に入れた。これさえあれば、誰も君を責められない。君自身すら、君を許せる。違うかい?」
氷の棘が、ズズッ、とさらに深く肉を抉る。 痛みが、痛覚という枠を超えて、神崎の魂の芯を削り取っていく。
「あのビルに突入したのもそうだ。助かる見込みがないことは、君の経験が一番わかっていたはずだ。それでも突入したのは、英雄としてのポーズを保つためだ。あわよくば、このまま死んでしまえば、一生『立派な父親』のままでいられると……君の無意識は、そう計算したんだよ」
死神の生々しい肉色の指先が、空中の原稿を指弾する。 カリカリカリッ、と自動筆記されていた文字が、突如として赤黒い血の色に変わり、内容が書き換えられていく。
『俺は、家族から逃げるために、正義の皮を被って死にたかっただけだ』
「……あ、あ……」
口から氷の棘を突き出し、血と涎に塗れた神崎の目から、大粒の涙が溢れ出した。 痛みのせいではない。
強固に築き上げてきた「英雄としての自分」というメッキが、硫酸をぶっかけられたようにドロドロと溶け落ちていく感覚。
消防士としての誇り。 自己犠牲の精神。 すべては、凡庸で身勝手な一人の男が、己の空っぽさを誤魔化すための、安っぽい舞台衣装に過ぎなかったのだ。
「ふうん。少しは『自分』が見えてきたようだね」
死神は鎌を肩に担ぎ直し、靴底からシャリ……シャリ……と均等な時間を刻む音を立てながら、床に這いつくばる神崎に歩み寄った。
「さあ、見に行こうか。君のその素晴らしい正義が、現世に何を残したのかをね」
死神が手をかざすと、沈黙の図書館の霧が渦を巻き、足元の黒曜石が底なしの沼のように液状化し始めた。
「待……や、め……」
神崎の抵抗も虚しく、重力は彼を奈落の底へと引きずり込んでいく。 耳を劈く耳鳴りと共に、闇が彼を完全に飲み込んだ。
その直前、彼の目に焼き付いたのは、落ちていく自分を見下ろしながら、死神が口元を歪め、三日月のような笑みを作った姿だった。




