第1話:殉職の果て、物理法則の死ぬ場所
「正義」や「自己犠牲」は、時として最も醜い言い訳になります。
今回この『境目』へやって来たのは、猛火の中で立派に殉職したはずの消防士。
彼がひた隠しにしてきた空っぽな本性と、メッキが剥がれ落ちる絶望の音を――どうか死神の隣の特等席で、存分にお楽しみください。
キィィィィィン、と。 鼓膜の奥底で、千切れた蛍光灯が鳴るような、高く細い耳鳴りが響いている。
肺の奥深くまで満たしていたはずの、致死量の熱風がない。 代わりに、ひしゃげた気管にこびりついているのは、焦げたコンクリートの粉塵と、錆びた鉄の匂い。
そして、甘ったるく焼け爛れた肉の臭気だった。
パチ、パチ、パチ。
不規則に何かが爆ぜる音がする。 だが、それは猛火が柱を舐め尽くす音ではない。 重い瞼をこじ開けた神崎修平の網膜を灼いたのは、極彩色に塗り潰された空だった。
「……っ、ぐ……」
過飽和なネオンピンクと毒々しいイエローが入り混じる空から、雨が降っている。 ボタッ、ベチャッ。 それは水滴ではなく、溶けかけたプラスチックの粘体だった。
黒曜石のように滑らかな地面を叩き、奇妙な悪臭を放ちながらべっとりと広がっていく。
「あ……」
神崎は弾かれたように身を起こした。 周囲に炎はない。倒壊寸前だったオフィスビルの残骸もない。
視界の端から端まで、風景が5秒ごとにザザッ、とブロックノイズのように四角くモザイク状に崩壊しては、再び狂った色彩の空と黒い地面へと再構築されていた。
「――っ! まだ中に人が……!」
職業的な本能が、麻痺した脳を無理やり再起動させる。 神崎は叫びながら立ち上がろうとし、よろめいた。
身に纏っているのは、防火服だ。だが、あちこちが炭化し、無惨に引き裂かれている。
手の中にあったはずのホースの感触がない。
泥だ。 足元には、黒く濁った泥のようなものが這いずり回っている。 いや、泥ではない。 よく見ればそれは、黒いインクで書かれた無数の「文字」だった。
『助け』『熱い』『どうして』『パパ』『息が』
文字化けしたような未了の会話の断片が、液状になって神崎の編み上げブーツにまとわりつき、ズルズルと音を立てて這い上がろうとしている。
「なんだ、これは……幻覚か……? ガスを吸いすぎたのか……」
ドクン、ドクン、ドクン。 心臓が、肋骨を突き破るほどの勢いで警鐘を鳴らしている。 ここは火災現場ではない。病院でもない。
本能が、もっと致命的な『何か』を直感して恐怖を分泌していた。
シャリ……シャリ……。
背後から、足音が聞こえた。 等間隔に砂利を踏みしめるような、奇妙に正確な音。 それは、秒針のない時計が、無理やり時間を刻んでいるかのような不気味さを孕んでいた。
神崎が振り返る。
そこには、漆黒のローブが立っていた。 いや、布ではない。宇宙の深淵を四角く切り取って、無理やり人の形に縫い合わせたような、光を呑み込む絶対的な「影」だ。
ローブの表面では、微かな星屑のような光が明滅し、奥底で無数の顔が苦悶の表情を浮かべては消えていく。
「――聞こえているかい? 英雄さん」
声は、冷たく透き通っていた。 鼓膜を揺らすのではなく、脳髄の隙間に直接流れ込んでくるような、甘く、酷薄な響き。
深いフードの奥底に、顔はない。 ただ、赤い焔が二つ、眼窩の代わりのように燃えている。
右の焔の中には、無数の数字が滝のように流れ落ちており、左の焔の中には、カウントダウンを示すような砂時計のマークが明滅していた。
死神は、己の背丈を優に超える巨大な鎌を持っていた。 錆びた刃からは、サラ……サラ……と、無数の砂粒がこぼれ落ちている。
落ちた砂は地面に触れる前に煙となって消え、また刃の根元から湧き出してくる。
死神は、その巨大な鎌の刃を下にして、あり得ない角度で斜めに立てかけた。 物理法則を完全に無視し、鎌は空中でピタリと静止する。
死神は柄の先端に両腕を乗せ、そこへ顎を乗せて、ひどく退屈そうに神崎を見下ろした。
「全員、そう言うんだよ。判で押したようにね。一人残らず」
「……は……?」
「『まだ中に人が』『俺の任務は』『助けなければ』。……ふぁあ」
死神は、声に出して欠伸をした。 顔がないのに、その所作には、どうしようもないほどの倦怠感と、人間に対する嘲笑がこびりついている。
「君は死んだんだよ。その、立派で、ありきたりで……ひどく退屈な正義と一緒にね」
「死んだ……? 俺が……?」
神崎の視界がぐらりと揺れた。 ドクン、ドクン、ドクン。 心拍音が耳朶を打つ。 嘘だ。俺はまだ生きている。息をしている。心臓が動いているじゃないか。
そう叫ぼうとした神崎の視線が、己の胸元に落ちる。
破れた防火服の隙間。 そこにあるはずの胸肉は、ぽっかりと丸く抉り取られていた。 血は一滴も出ていない。
代わりに、焦げた肋骨の檻の中には、真っ黒な炭の塊のようなものが、微かに赤い火の粉を散らしながら、脈打つように明滅しているだけだった。
「ああ……あああ……っ!」
「うるさいな」
死神が白骨の指先を軽く鳴らす。 パチン、という乾いた音と共に、周囲の過飽和な空が、ヒビ割れたガラスのように粉々に砕け散った。
一瞬の、完全な暗闇。 そして、次の瞬間には、重く冷たい静寂が神崎を包み込んでいた。




