第8話:『あぁ、ひどく退屈だ』──次の幕を待つ、永遠の観劇者の倦怠
上下の感覚が完全に消失した虚空の闇の中。
そこだけが、切り取られたように重力から解放された独立空間だった。
宙に浮遊する、豪奢な赤いベルベットの玉座。
死神は、自身の漆黒のローブの一部を変形させて形作ったその特等席に深く腰を沈め、銀糸のレース手袋に包まれた手で気怠げに頬杖をついていた。
フードの奥の赤い双眸は、眼下に広がる『舞台』を、ひどく退屈そうに、しかし微かな期待を込めて見下ろしている。
眼下の感情の海は、まるで巨大な円形劇場の舞台のようだった。
そこでは今、観劇のクライマックスが繰り広げられている。
「……ぎァ……ァァ、アァァァァァッ!」
遠く下界から、桐生崇の絶叫が届く。
鬼の放った赤熱した鉄鎖が、桐生の首に何重にも巻き付いていた。
ジュウゥゥゥッ!
水銀の冷たい波音を切り裂いて、人間の皮膚と脂肪が爆発的に焦げる生々しい音が響き渡る。
桐生は両手で首の鎖を引き剥がそうと掻き毟るが、その手のひらも瞬時に焼け焦げ、無惨な煙を上げている。
鬼は容赦しなかった。
蜘蛛の脚で岩を蹴り、無慈悲な力で鎖を手繰り寄せる。
ズリリリリッ!
桐生の身体は、彼自身の利己心で構成された『鋭利なガラス片の筏』の上へと、うつ伏せの状態で強引に引き摺り上げられた。
「ぎぃぃぃぃぃぃぃぃッ! 痛い! 痛い痛い痛い痛いィィッ!!」
ガラスの刃が、桐生の衣服を容易く切り裂き、腹の肉を、太ももを、顔面を容赦なく削り取っていく。
彼が暴れて踠くたびに、新たな刃が彼の肉に食い込み、筏は瞬く間に彼の流す赤黒い血で染まり上がった。
鬼はそのまま鎖を引き、桐生を乗せたガラスの筏ごと、冷徹な水銀の海へと歩みを進めていく。
ジャキン、シャラン。
ガラスの波が、血まみれの桐生の身体に打ち付ける。
その瞬間、境目の『ルール』が、最後の牙を剥いた。
水銀の水質は、社会が求める「正しさ」そのもの。嘘や自己欺瞞に塗れた桐生の肌が、その純粋な水銀に触れた途端、強烈な拒絶反応を引き起こしたのだ。
「あ、が……なんだ、これ……! 身体が……ッ!」
桐生の削り取られた肉の断面から、ボコボコと悍ましい真っ黒な斑点が膨れ上がり始めた。
それはまるで、彼が隠し持っていた汚悪な本性が、物理的な質量を持って吹き出してきたかのようだった。
黒い斑点は瞬く間に増殖し、桐生の顔面を、眼球を、口の中を覆い尽くしていく。
嘘で塗り固められた自己像が、水銀の海によって完全に否定され、分解されていくプロセス。
特等席からそれを見下ろしながら、死神は細い肩をわずかに震わせた。
「……やめてくれぇっ! 助けて、くれ……ッ! 俺は、俺は選ばれた人間だァァッ!」
水銀の波に沈みかけ、全身を黒い斑点に侵食されながらも、桐生は最期まで自らの虚栄心に縋り付いて絶叫した。
だが、その言葉が誰の心にも届くことはない。
ジャキン、という一際大きなガラスの波音が響いた直後。
鬼の鎖に引かれた桐生の身体は、ガラスの筏ごと、深く重い水銀の底へと完全に引きずり込まれた。
ブクブク……という僅かな泡が浮き上がり、それもすぐに弾けて消えた。
断末魔の叫びは完全に消失し、水面には何も残らなかった。
彼がどれほど自分を「神」だと嘯こうが、境目の世界にとっては、水面に落ちた一滴の染み以下の価値もなかったのだ。
下界に残されたのは、色を失った水銀の海が、ただ機械的に永遠に繰り返す、ジャキン、シャランという冷たい波音だけだった。
***
完全な静寂が、空間を支配していた。
波音さえも、死神の座る遥か上空の特等席までは届かない。
カチッ……。カチッ……。
無音の虚空に、奇妙に乾いた音が等間隔で響いている。
死神が、指の腹で小さな板状のものを弾く音だ。
それは、先ほど影の市場で桐生に渡した『人間の歯でできた観劇チケット』だった。
桐生が空へ放り出された際、彼の手からこぼれ落ちた砂は、再び死神の手元でこの悪趣味なチケットへと形を戻していたのだ。
前歯、犬歯、奥歯が隙間なく並べられたその奇妙な造形物を、死神は親指と人差し指で挟み、ひどくつまらなそうにクルクルと回している。
赤い焔の双眸が、桐生が消えた真っ暗な水面の跡を、瞬きもせずに見つめていた。
その瞳の奥にあるのは、罪人を裁いた正義感でもなければ、悪を滅ぼした達成感でもない。
ただ、底知れぬほどの『空虚さ』だけがそこにあった。
「傑作だ」
フードの奥から、低く、冷たい囁きが漏れた。
それは、素晴らしい芸術作品を称賛するような響きを帯びながらも、どこかひどく冷め切っていた。
「何度観ても……虚栄という名の下書き(スケッチ)が、無惨に破り捨てられる瞬間の音は悪くない」
彼にとって、桐生がこの先、水銀の底で永遠の苦痛を味わおうが、魂が完全に消滅しようが、そんな結果(結末)には微塵も興味がなかった。
重要なのは、過程だ。
自分を特別だと思い込み、強者に媚び、弱者を踏み躙って生き延びてきた矮小な魂が、絶対に敵わない理不尽な暴力とルールの前に直面した時。
その張りぼての自尊心がメキメキと音を立てて崩れ去り、恐怖に顔を歪め、赤ん坊のように泣き叫ぶ、その『感情の落差』。
その歪んだ輝きだけが、死神の永遠の倦怠感を、ほんの数分間だけ紛らわせてくれる最高のスパイスなのだ。
サラ……サラ……。
死神が立てかけていた大鎌の鋭利な刃から、時間の砂がこぼれ落ちていく。
それは、死神自身の寿命を削っているのか、あるいはこの退屈な世界の寿命を削っているのか。誰にも分からない。
死神はゆっくりと、赤いベルベットの玉座から立ち上がった。
銀糸の手袋に包まれた手でローブの埃を払うような仕草をすると、玉座はたちまち黒い煙となってローブと同化し、元通りの漆黒のシルエットへと戻った。
コキリ、コキリ。
死神は白骨の首を左右にゆっくりと曲げ、関節を鳴らした。
そして、どこまでも続く暗黒の虚空に向けて、大鎌を杖のように突いたまま、ひどく気怠げな溜息をついた。
赤い双眸の左目、残り業務時間を示すタイマーの数字が、無機質に一つ減る。
「さて、次の幕まで数秒か」
死神は、手の中の人間の歯のチケットを、大鎌の刃に沿って軽く滑らせた。
ジャリッ、という不快な音が闇に消える。
彼は、これからやってくるであろう何千、何万という愚かな魂たちを想い、フードの奥で小さく、そして酷く冷たく嗤った。
「……あぁ、ひどく退屈だ」
自称・神の殺人鬼が、自らの劣等感と罪の重さ(軽さ)によって無惨に散っていく様を描いてみました。少しでも「ゾッとした」「面白かった」「ざまぁみろ」と感じていただけましたら幸いです。
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次作もお楽しみに。ありがとうございました。




